ケネディ大統領(当時:大統領候補)政教分離演説を訳してみて(私見) | 平成の愚禿のプログ

ケネディ大統領(当時:大統領候補)政教分離演説を訳してみて(私見)

ジョン・F・ケネディが大統領になる前、大統領選挙の終盤に行った演説を和訳してみました。


皆さんお読みいただいてどのような感想をお持ちになったのでしょうか。

私が勝手に「政教分離演説」と題してみたのですが、読み返してみると「カトリック教徒のための弁明」演説と呼んだほうが相応しいように思います。


あるいはある方はこのように思われたかもしれません。「彼は、そんな当たり前のことを、何でそんなに悲壮感を漂わせて懸命に訴えているのだろう・・・自由の国『アメリカ』で・・・」と。


私は彼の選挙戦における詳細について知りません。知らないのですが、この演説内容からだけでも、彼がカトリック教徒であることが大統領となる上で巨大な壁となっていたのは容易に想像できます。おそらく対立候補からのネガティブキャンペーンも大々的に繰り広げられたに違いありません。まぁそれでも歴史的な僅差で彼は共和党のニクソンを破って大統領に就任できた訳ですが・・・。


この背景を理解するためには、合衆国建国の経緯に遡った方がよさそうです。


宗教改革前のキリスト教というのは、ギリシャ語ないしラテン語で訳された聖書が、教会の中でのみ読まれ一般には公開されない、という状態だったようです。


そこでローマ法王を頂点とするヒエラルキーが形成され、聖書の内容を読み、それを解釈する権限は、専らそのヒエラルキーが決定し、信者はそれにただ従う・・・。宗教でありながら、その肝心要の経典が一般信者に知られない、というある意味不思議な状態が、中世ヨーロッパだった訳です。


しかし、印刷技術の発明がその状況を一変させます。それによって聖書が大量に世の中に出回り始めたのです。しかも、ルターやカルヴァンといった人々によって英語やドイツ語、フランス語をはじめとする各国の言語に翻訳され、それらが一般の人々の中に急激に広がりました。


そうなると「教会は秘蹟とかいって、免罪符を買えばサルベージされる・・・とかいっているけれども・・・それって聖書のどこにも書いてないじゃん。嘘じゃねぇ。」というノリで、「これからは教会を介さずに、直接聖書を読んで神(イエス)の命令を解釈し、それを守る」と決意して教会の権威を無視または公然とこれに反旗を翻す人々が出てきます。これがプロテスタント(protest=抵抗する。つまり、教会の権威に抵抗する人々。)の事始。


しかし、「異端は異教の罪よりも重い」と言います。従来からの勢力であるカトリック教会とプロテスタントの人々が激しく衝突し始め、何百年にもわたる凄惨な殺し合いに発展していきます。


「殺し合い」というと、「そんなたかが宗教の違い位で・・・」と思ってしまうのが私たち一般の日本人の感覚。


しかしこれは決して誇張ではなく、実際にサン・バルデミーの虐殺と呼ばれる事件では、カトリック教徒がプロテスタントの人々を、女子供を問わず無差別に虐殺し、その遺体を切り刻みます。

この「遺体を損傷する」という行為は、それだけでも感覚的に「猟奇的」な印象を与えるものですが、更にキリスト教では重大な意味を持ちます。

最後の審判での復活に備えて、遺体は棺おけに入れて土葬しておく、というのが、一般的な慣習です。(まぁ実際には、このようにしても遺体に特別な科学的処理でも施さない限り、棺おけの中の遺体も腐食して最終的には白骨化してしまうとは思いますが。)

その最後の審判で復活できないようにしてしまう、という含意がありますので、これはキリスト教徒にとっては「極刑」といえるでしょう。


その犠牲者については数万人に上るという見解すらあります。カトリック教徒の中から「何も殺すことはないじゃないか」とプロテスタントをかばい立てした人々まで数千人単位で殺されていますから、「坊主憎ければ袈裟まで・・・」の極限状態といえるのではないでしょうか。


そんな宗教上の争いに飽き飽きした「清教徒」と称するプロテスタントの人々が「新大陸に行って思いっきり『キリスト教』の信教の自由を満喫しよう」と考えて創った国が、合衆国アメリカ。大雑把に言えばこうなると思います。


独立宣言や合衆国憲法は、(信教の)自由、平等、幸福追求権の不可侵・不可譲渡的な保障を高らかに歌い上げています。


アメリカの建国者の念頭には、専ら「カトリックからの自由」ということしかなかったのではないか、と私は想像しています。


しかし、時として宣言や章典の文言は、それが荘厳であればあるほど、起草者の元々の予想を凌駕する形で拡大・変遷し、彼らが真に意図していたことから乖離してしまう場合すら出てきても不思議ではありません。


現に「黒人やインディアン」は動物だから、「人」には入らない・・・。と言う考えが、独立当時は主流だったのではないでしょうか。


しかしプロテスタントは個々人で聖書を解釈しますから、リンカーンのように「黒人が人間に入らないなんて、聖書のどこにも書いていないじゃないか」という主張が台頭してきます。


また、以前、TVドラマ化されてNHKでも人気番組として放映された「大草原の小さな家」の作者:ローラ・インガルスのように、子供時代にアメリカンインディアンたちと接してその人柄に触れ、「彼らだって人間じゃないですか。好き勝手に駆逐するのはおかしい」と言い出す人物も出てきます。特にインディアンの人権擁護などは西部開拓当時のアメリカではタブーだったとは思います。脅迫まがいの言行も受けたに違いありません。

しかしながら聖書に基づいて持論を展開するローラ・インガルスの主張は、どんなに批判を浴びようが簡単に屈するようなものではありません。自説を曲げることは「神への裏切り」になってしまい、サルベージを受けられなくなってしまうわけですから、極論、曲げるくらいなら「殺されたほうがまし」の覚悟です。


そして、元々の建国趣旨のココロである「カトリックからの自由」の意図とは乖離して、カトリック教徒が大統領職に就こうとした訳ですから、皮肉と言えば皮肉。ケネディが選挙で受けた偏見も、このような経緯にかんがみれば、まぁ当然と言えば当然かもしれません。


更に人々の「自由」は、聖書の束縛からの自由という形にまで発展していきます。


こうなると建国者たちの意図とはおそらく完全に乖離してしまっているに違いありません。


つまり「聖書」対「合衆国憲法」という構図での葛藤に繋がっていく訳です。


この辺りは60年代後半に公開されたアメリカン・ニューシネマの代表作「イージーライダー」などで描かれるテーマにもなり、またごく最近では、ホモセクシャルの人々の婚姻がニューヨーク他の各州で法律上容認されるという、聖書に対する憲法の文言で表される精神の勝利とも言えるような事態にまで発展しました。


これを進歩と捉えるのか退廃と捉えるのかは、それこそ個々の価値観によって違ってくる問題でしょうが。


次回は欧米と日本における「政教分離」の似て非なると思われる面を考察したいと思います。


ここまで読んでくださって有難うございました。