シェイクスピア「ハムレット」
難解といったイメージがシェークスピアにはあったけれど、読んでみたらすんなりと頭に入ってくる内容の『ハムレット』。考えてみれば、当時の知的階級でない一般市民にも理解され支持される劇なのだから、話のプロット自体は、わかりやすくまとまっているはずだと一人で納得してみる。
妃と王冠を奪われた上で実の弟に殺された王は、死んでも死に切れない思いで、亡霊となって息子でありデンマークの王子でもあるハムレットの前に現れる。祖父を殺めて仇を取ってくれと頼まれたハムレットは、復讐を決行しようとするが、迷い悩み、その時機がやってくるのを伸ばし伸ばしに待っているという状態。祖父の悪魔のような本性を知ってしまっていることを彼に悟られないように、ハムレットは狂気を演じたりするが、その一見支離滅裂のように出てくる言葉は真理をついており、数々の名言を残すことになる。最後はデンマークの王室を壮絶な悲劇が包み込み、国の腐敗が終焉し、そこからの脱却という微かな希望の兆しを感じさせるようにして幕は閉じる。
小説ばかり読んでいるから、ほぼ前編通して会話だけで話を作り上げてしまうというこの作品の手法に、まず驚く。もう少し、情景描写というか舞台設定の説明などが細かく書かれているのかと思ったけれど、この作品は違った。まぁ、演劇の台本だから当たり前なのだけれど、会話文がかなり流暢で、頭にすらすらと入ってくるのは嬉しい。これは、「直訳こそ意訳である」というスタンスの翻訳者のおかげで、演劇として上演した時のことを考えて日本語を選んでいるためなのだろう。原文をそっくり日本語に起こしても意味がないといった論旨のことを述べてます、訳者は。このあたりは、詳しく解説に書いてあるので本書を参考にされたし。
ハムレットの人格は、優男というのが通説だったらしいけれど、そんなことはなくて、復讐のためにいきり立ち、迷い、さらには狂人とまで言われてしまうあたりに、人間味が感じられ、それ故に彼は読者に愛される存在であるとのこと、、ではないかも。何やら「ハムレットは『ハムレット』劇の解説者でもある」という不思議な説明もあるので、そう単純ではないのかもしれないが、つまるところ彼は内省と反省でもって内に篭るのではなく、現実的な復讐のために向かっていく時機を見計らっていたということなのだろう。その過程に「生か死か、それが問題だ。・・・」という有名な言葉も飛び出してくる。
深いことを書こうとすると実は何もわかっていないような気がしてくるし、まとまりのない感想文だけれど、とにかく話そのものは、案外わかりやすいので、皆さんも読んでみてはいかがでしょうか?わかったつもりにはなれるし、それだけでも十分いいかと。
三島由紀夫「沈める滝」


- 著者: 三島 由紀夫
- タイトル: 沈める滝
親の財産を持ち、容姿端麗でもある主人公の城所昇は、ものごとをすべてを「石や鉄」のように見なし、女を愛することはなかった。それでも同じ女と二度は寝ないという一風変わった条件の下、放蕩を繰り返すのは、昇の女に対する「即物的関心」が、そうさせていた。しかしある日、彼は自分の信念である「石や鉄」にそっくり当てはまるような女である顕子に出会う。似たもの同士の感覚を持つ両者、彼らは会うことを制限することで擬似的恋愛感を得ようと試みるのだが・・・。
ちょっと本に書かれたあらすじ風に書いてみました。内容を忘れてしまうので備忘録の意味もこめて。顕子と会いないようにするために、昇は会社の跡取にも関わらずダム工事のための新潟で山篭りすることを志願するという変わったことをします。半年近い山での越冬をすることで、顕子と会わない試み。そこで、田代や佐藤、それに瀬山という人物たちと寝食を共にするのだけれど、瀬山とのいざこざがこの作品の要になってます。最近、三島由紀夫:「会計日記」、学生時代の行動克明にや三島由紀夫:三島日記まるで家計簿 文筆生活可能か検証?という記事があったけれど、この瀬山という人物の最高の楽しみが、家計簿を家族に囲まれながらつけることだという風に書かれているから、案外三島自信が家計簿大好き人間だったのかもしれないです。
昇の言葉によれば、顕子を好きになった理由が「あの人は感動しないから、好きなんだ」ということで、まさに両者とも不感症の「石や鉄」の人間として描かれてるわけで、そんな両者の間に愛を生み出そうとする二人は錬金術を試みているような感じ。しかし、そこに金が見え始めると、昇の方が顕子のことを煩わしく感じるようになるという風に描かれている。これはドライな青年を描いた先駆的作品として読めるそうです、解説によるとね。半分ネタバレしてしまったけれど、それだけでは終わらない仕組みが、瀬山という人間によってもたらされるから、安心してください。
ちょっと疑問なのは、ダムを作るために昇は雪山で越冬するわけだけど、なんだか日常生活の延長と変わりなくて、サバイバルがほとんどない。これは作者が作品の構成をすっきりさせるために、意図してこのように書いているのだと思うけれど、せっかく雪山に閉じ込められた男たちを描いているのだから、もっと波瀾万丈があってもよかった気がします、まさに田代が言ったように「一人くらい殉教者があったほうがよかったんだ」という言葉のようにね。だいたい、大の男10人が半年以上も山に篭っているのに、性的な高まりに悶える場面がないというのも不思議な感じがして、逆に不気味だ。小林多喜二の『蟹工船』なんかは、その意味ではすごかったんだけれど。最後の方になると、いかにも純文学になってきて楽しめたから、まあ良かったのだけれど。
橋爪 大三郎「はじめての構造主義」

- 著者: 橋爪 大三郎
- タイトル: はじめての構造主義
構造主義ってなんだろうということで、入門書を探していたらこれがすごい勢いでこの本が目に飛び込んできたので、読んでみました。レヴィ・ストロースを中心に、構造主義とは何かを考えていく本、なかなか評判の良い入門書のようで、わかりやすかった。
「近親相姦の禁忌」の話とかは、かなり面白くて、どうして世界的にタブー扱いされてきたかについての考察が書かれている。フェミニズムの立場からしたら許せないような考え方かもしれないけれど、ストロースによれば「親族は女性を交換するためにある」ということで、だから近親相姦は許されないのだそうだ。簡単に親族内の女性と交わらないことで彼女たちの価値を高め、他民族との物々交換的な発想で彼女たちを嫁がせ、地域の平和を保つみたいな感じらしい。
あとは、ストロースの専売特許的な学説である「神話学」。主体と客体を離れて、神話の中から不変に保たれているものを見つけ出すことこそが、構造を見つけ出すことだと書いてある。抜粋すると「レヴィ・ストロースは、主体の思考(ひとりひとりが責任をもつ、理性的で自覚的な思考)の手の届かない彼方に、それを包む、集合的な思考(大勢の人びとをとらえる無自覚な思考)の領域が存在することを示した。それが神話である。」ということだそうで、なんとなく心理学や精神分析に近い感じがする。そう思ったら、レヴィ・ストロース自信が「構造主義の三人の愛人」と呼ぶ源泉を示していて、マルクス主義、地質学、それに精神分析がしっかり含まれていた。
あと、感動的な話は「野生の思考」というやつ。これはすごい。ヨーロッパの現代数学が二千年かけて考え出してきた公式を、「未開」と呼ばれる原住民たちが自分たちの社会の営みのために、その公式を生活の中に昔から適用していたという話。こういう凄みのある事態がたまに世界各地の未開地域にはあるから、「野生の思考」の集合体のようなものである神話を無視することは出来ない、と話はつながっていく。
先日、村上春樹の『海辺のカフカ』の主人公の主体性のなさについて書いたりしたけれど、考えてみたらこの構造主義の話を実践したような作品だったのかもしれない。勉強不足であんな感想文を書いてしまったということになるのかな、こちらとしては。いや、小説なんかは読者が感じたままでいいとは思う、いくら作家が勉強していても、読者に訴えかけてくる作品でなくては、彼らの試みは徒労に終わっていると言っていいんだと思うだけどな。
ああ、あとラカンはやっぱり難解なんだなと。作者である橋爪大三郎も「彼の書くものは難解をきわめている。「エクリ」が主書だが、難しくて、何を言っているのかよくわからなかった。翻訳のせいもあるけれど、フランス人でも歯がたたないというんだから仕方がない」なんて言っているぐらいだし。ラカンの解説本も持っているけれど、あれ自体が難解だもんね。
最後に、数日前の朝日新聞の天声人語にレヴィ・ストロース(96歳)の話がチョロリと出てたよ。久々に仏メディアに登場、今後の予定を問われ「そんなこと、聞くもんじゃないよ。私はもう現代社会の一員ではないのだから」と答えたそうです。
村上春樹「海辺のカフカ」上・下巻

- 著者: 村上 春樹
- タイトル: 海辺のカフカ (上)
- タイトル: 海辺のカフカ (下)
文庫本になったので読んでみることに。何故か今回はあまり世界観に入り込めなかった、というより、そろそろ一連の村上作品に共通する主人公の主体性のなさに飽きてきた感じがする。それにこの作品は構造が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の二番煎じ的でなんだかオチがわかってしまった。回りの人々の流れに巻き込まれて勝手に物語が進んでいくというのはいつもと同じで、さらに今回はあまりに現実離れしたキャラクターや状況に、僕は読んでいてつらく感じた箇所も結構あった。そういう手法が村上春樹の持ち味と言えるけれど、この世界観に入り込めなかった場合は、読者としてはどんどん突き放されていく感じに陥るだなということを知ったかも。それに、現実を超越しているキャラクターの登場は、ちょっと話としてずるい感じもする、予定調和的で。
毎作品、暗くて閉鎖的な箇所に主人公が入って行って苦悩したりするというのはどうなのだろうか?井戸の底とか真っ暗なホテルとか、今回の真っ暗な森の中など。考えるに、村上春樹が健康的な生活をし過ぎているから、主人公が引きずる影を描くために、象徴としての暗さを演出する場所が作品の中にどうしても必要になってくるのかもしれない。それと、やはり書きやすいパターンなんだろう。
あと、とうとう気がついたのだけれど、村上春樹はかなり几帳面で神経質な人格を持っているのではないかということ。日本の文壇からも独立してアメリカでノホホンと暮らしているイメージがあったけれど、どうやら違いそう。クリーニング屋に服を持っていったりする話、髭剃りや熱いシャワーの描写、コーヒーをいれるとかの場面は必ずといっていいほど彼の作品には出てくるけれど、これは作家自信の日常生活に対する几帳面さが滲み出ているのだと思う。なんだか彼自身が作った時間的な制約に基づいた生活をしているのだろうなと感じるのは、登場人物のそういった日常的な細々とした動作が嫌に執拗に描かれていて、こだわり過ぎているように読めるため。それと、章ごとに交互に場面をきっちり振り分ける書き方も、いやらしいと言えばいやらしい、もうちょっと自然にやれないものなのかな。
少し春樹作品に飽きてしまった感があるので、このような否定的な感想文になってしまったけれど、ナカタさんとかホシノくんとか、それなりに印象に残っている。ホシノくんをもっと最初のほうで登場させて悪い人として描いてたら、ナカタさんの仕事に自主的に協力していく場面なんかは涙物になったかもしれない。あと、さくらをもう少し登場させてあげてもよかったかも、エディプスの神話的な予言になぞらせるために出てきただけの印象が残るし、やられるだけみたいだなと。
大江健三郎「憂い顔の童子」

- 著者: 大江 健三郎
- タイトル: 憂い顔の童子
大江健三郎の文体はよく難解と批判されることが多いけれど、自分はあまりそのように感じてこなかった。だけど、この作品に関しては、ストレートに意味が入ってこない感覚がして、そう言われるのも頷けるような気もした。難解な単語が多いわけでもないのに、意味がつかみにくい文体。故に話も、それなりにしか理解できていないような感じもする。下手なことを書くのも嫌で、このエントリーを書くのがためらわれるけど、一応読んだ日の備忘録としての機能もあるので。
とにかく、これは三部作の二部にあたる話で、前作の『取り替え子』の続編という位置づけ。本来なら期間がだいぶあいているので、もう一回、前作から読みなおした方がいいのだけれど、三部作の完結編である『さよなら、私の本よ!』の連載が始まったということで、急遽この二部を読み始めた。
内容は大江健三郎の分身である主人公の長江古義人が、母の病気を期に、故郷へと戻ることから話がはじまり、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を下敷きにして物語は進んでいくという構造。下敷きといっても、長江の作品の研究家で、『ドン・キホーテ』も研究してきたローズという外人と同居するという生活の中で頻繁に『ドン・キホーテ』の話が挿話的に長江、ローズの会話の中で参照されるという仕方。そして長江の「人生の終わりを意識しての生きかた」が苦渋と共に描かれている。生まれ故郷の地元の人たちとのトラブルや、『取り替え子』をめぐってのある評論家による指摘に、長江が激昂したりと、印象に残るシーンが多いものの、話はいろいろと入り組んでいる。最後には、全共闘の再現デモに加わり頭部を負傷して意識不明に陥るという状態で終わる。
何が話を難しくしているかというのは、文体もさることながら、その引用されている文献や大江自信の作品の数の多さであって、それぞれが単独で難解な作品であるものを引用するから、重層的に難解になってくる。『ドン・キホーテ』を読んであると、『憂い顔の童子』の理解を深めると他のサイトに書いてあったけれど、あの作品だけでも6冊あるから、相当の時間が必要。他にも大江健三郎お得意のウィリアム・ブレイクなども当然ながら出てくるけれど、この人たちに関しても僕は知識がゼロ。とにかく、これらの引用されている作品を近いうちに読んでいきたい。それから、三部作を読み直して、考え直してみようかと。ダンテの『神曲』もあるしな~。
三島由紀夫「潮騒」


- 著者: 三島 由紀夫
- タイトル: 潮騒
神島での男女のストレートすぎる恋愛を綴った話。『金閣寺』、『仮面の告白』などと比較すると、かなり文体も平易で読みやすいし、変わった出来事や特徴がある人間が出てくるわけでもない。暴力や性に関する事柄も、ほとんど出てこないことからもプラトニックを貫き通した感のある作品。三島が30歳を手前にして書き上げた作品にしては、青春臭すぎるけれど、これは解説を読んでみれば、ローマ時代の古典作品である『ダフニスとクロエ』を下敷きに、日本を舞台に焼きなおしをするという手法が、この純愛物語には試みられているとのこと。あわせて読んでみるといっそう面白いらしい。
話は海女さんに恋した漁夫の淡々とした日常を描いている。あまりに純朴で、島の住民からも、白痴であると囁かれたりする主人公の新治だけれど、肉体の逞しいさの描写とかは、いかにも三島が好む男色的なエロティズムが漂ってる。それでも新治には自我がなさ過ぎて、読んでいる側としては共感しにくいかもしれないけれど。いつも、相手に対してにっこりと笑って見せるというのが、島の好青年らしと言えばそうなんだけれど、僕なんかはある種の気持ち悪さも感じた。だけど三島は、その偽りのない主人公の姿を描くことで、清廉であるということが人間の美徳であることを表現したかったのかもしれない。
谷崎潤一郎「細雪」上・中・下巻

- 著者: 谷崎 潤一郎
- タイトル: 細雪 (上) タイトル: 細雪 (中) タイトル: 細雪 下 新潮文庫 た 1-11
先日の旅行先にも持っていった読んでいたので、ここ3週間ぐらい掛かって読了したということになる谷崎潤一郎の長編小説。鶴子、幸子、雪子、妙子の四姉妹の生活を描いた本作品は、一応三人称で書かれているものの、次姉の幸子が実質的な主人公であって彼女の視点から物語は進んでいきます。関西の蘆屋に住む幸子以下の姉妹たちとは別に、本家として鶴子は東京に住んでいるけれど、物語の大半は蘆屋の三姉妹の数年に渡るどたばた劇が占めています。結局、問題は何かと言えば下の姉妹たちである雪子と妙子が、いい歳であるのに結婚できずに売れ残っていることであり、彼女たちの縁談や自由結婚の世話をする蘆屋の幸子が、本家と分家の姉妹たちの両方の言い分を聞いて板挟みになりつつも婚約を結ばせるために奮闘するというのが、話の大まかな構図。
時代が少し古いこともあり、さらには四姉妹の家系は蒔岡家としてそれなりに知れた家柄であるため、形式や世間体といったことを、現在では考えにくいほどに気にする傾向があります。その煮え切らない細々した本家と分家のやり取りなどが、実はこの作品の醍醐味であると思うわけですが、発展性のない雪子の態度とかは読んでいてもしかしたら嫌になってくるかもしれません。しかし逆に言えば、失われてしまった日本女性のおくゆかしさとは、どんなものであったのかということを体感することが出来ると思います。
ちなみに映画化された『細雪』で雪子を演じたのは、なんと吉永小百合。やはりこの人しかいないのかもしれない。というのは作品中でも、何度も強調されているのだけれど、この四姉妹はかなり美人で、歳よりも代ひとつ若く見えるというのが特色であるから、形容の限りを尽くして称えている姉妹訳、殊に雪子に関しては、それ相応の女優をつけるしかなかったのかも知らん。
伊丹十三も出ているのには驚きました、見るしかない。
J.D.Sslinger『The Catcher In The Rye』

- 著者: J.D. Salinger
- タイトル: Catcher in the Rye
この本は、もう2年ぐらい前に買ったのだけれど、半分ぐらいまで読んで放置していました。なぜ読む気になったのかと言えば、旅行に行って英語を使う機会があったため、会話文をもっと勉強したいなという気になったからです。内容は、既に村上春樹訳で読んでいたので、だいだいわかっていましたけど、すっかり忘れてしまっていたエピソードなどもあって、それなりに楽しめました。主人公の妹が、なかなか重要な役割を果たす話で、彼に唯一好きなことは何かと問う場面で、それに迷った挙句に答える主人公の思想が面白いです。"If a body catch a body comin' through the rye"という間違って覚えている詩を引用して"I'd just be the cather in the rye and all"と答えるわけです、そしてこれが作品のタイトルになっている。それにしても、たくさんの子供がライ麦畑で遊んでいて、崖から落ちそうになったら、それを捕まえるという役をしたいという主人公ホールデンの考えは、美しい感じがするな、純粋で。今ならロリコンと直結しそうな話だけれど、妹好きだし。だけどね、なんだか美しい話なんですよね、この作品は。
阿部和重「無情の世界」

- 著者: 阿部 和重
- タイトル: 無情の世界
本当は旅行に持っていくはずだったのに、読んでしまった本。本屋に行ったら、芥川賞を受賞したこともあり、文庫本になっている作品が揃っていました。『シンセミア』も文庫化してほしな。
『トライアングルズ』、『無情の世界』、『鏖』の三作品が収録されています。『無情の世界』に関しては、なんだかずるい終わり方をしている、話の展開は面白そうな予感があるにも関わらず、あの終わらせ方は結構ひどいと思いますよ。夢オチにも勝るとも劣らない感じですね。僕個人としては夢オチが嫌いなわけではなく、むしろ好きな方ですが、それでも夢の中で話がそれなりに完結していることが最低条件だとは思ってます。この作品の場合だと肝心な場面を描いてないから逃げに近いと思いました。これは『グランド・フィナーレ』の選評でも村上龍か誰かが似たようなことを指摘していて、あの作品だと戦争の話題で子供達が死んでいるみたいな描写によって、世界と人間の残酷さを補足しようとしていて容認できないと言ってました。つまり、話の流れでそのことを読者に感じさせるという筆力がないと。まぁ、こんな風に感じるのも結末を知りたく感じさせる話であるわけなんですがね、それだけに残念。
『鏖』に関しては、解説にも書かれてましたけれど、映画の『パルプ・フィクション』そのもですね。レストランの場面での大乱闘のあたりの展開は読んでいて爽快でした。
今日の朝6時に旅行へ出発するけれど、寝るか徹夜するかかなり微妙なところ。とにかく、行って来ます。
三島由紀夫「音楽」


- 著者: 三島 由紀夫
- タイトル: 音楽
三島由紀夫の作品群でも異色作と評されている『音楽』。精神医の汐見和順が、フロイトによる学説などを駆使しながら弓川麗子の治療をしていくというもの。三島自身も一時フロイトやユングに親しんでいたらしいことが、澁澤龍彦の解説に書かれています。サスペンス的で推理小説のような、少し娯楽志向な内容で、三島の遊び心が見られるというような解説だけれど、かなり個人的には面白かったです。「音楽」が指し示すものは本編の中で意味合いが二転三転しますが、最終的には麗子の「オルガスムス」を表すものであり、これが聴こえないため彼女は色々と悩むわけだけれど、この女がかなり曲者で、精神的なダメージによる葛藤から虚言癖を持っておて、治療者である汐見をかなり手こずらせます。最終的には、ある決定的な事件の記憶を彼女が封印していたことがわかり、それを隠蔽するための言動や行動の数々であったことがわかってきます。
エディプス・コンプレックスやフロイトの「言い間違い」学説などを駆使していて、精神分析にかなり三島が傾倒していた具合が伺える作品だけれども、それらの学説に対する批判的な態度も汐見は見せることがあって、これは作者の本音が出ている部分でもあると澁澤は言ってます。とにかく彼の解説が秀逸だから、引用しまくってしまいました。
