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2005-12-07 18:47:54

大江健三郎 「さようなら、私の本よ!」

テーマ:書評

大江 健三郎
さようなら、私の本よ!
「チェンジリング三部作」の完結編となる本作は、エリオットの詩からの引用である「老人の愚行が聞きたい」という言葉がキーワードとなって、老齢に達した小説家と建築家からなる「おかしな二人組み」が世界の大きな暴力に対抗する装置を考えようと試みる。同時に作者である老作家の次なるレイト・ワークに向けての宣言書と呼べそうだ。
「読者があなたの著作を全て読んでいるとは思うな」と揶揄されたこともあるほどに、大江健三郎は自作品からの引用が夥しく、今回もその手法は踏襲されている。そして膨大な他者の作品からの引用に次ぐ引用。チェンジリング一部と二部は、それぞれセンダックとセルバンテスの作品を下敷きとしている。
そのスタイルを揺るがすような描写である自作の初版本やその他の膨大な蔵書を燃やす場面を挟んだ上で、本作品は「さようなら、私の本よ!」というタイトルが付いているのである。最終場面でわざわざ処女作品を引用することの意図は、並々ならぬ新しい予感への決意が伝わってきて身震いする。
「後期の仕事は矛盾を解消したり、円熟することではなくて、自分が抱えた激しい矛盾をしっかりつかまえて、それを深めていくこと」と話す作家は、ナボコフやベケットさらにはベートーヴェンの後期の作品を例としてあげ、彼らは危険な老人であったと語る。
親友の武満徹や義兄の伊丹十三の死を再び意識する年齢へと達しつつある大江健三郎を、彼らが突き動かしているのであろう、世界の矛盾を内包してしまいつつも、その対抗手段となるレイト・ワークに向けて照準を合わせている様子だ。作品とは裏腹に最初期へと回帰するように、サルトルの提唱したアンガージュマンの実践としての「九条の会」への参加に対する批判も、「老人の愚行が聞きたい」と言い切った強みがある。それは「静かに動き始めなければいけない」ことの体現でありRejoice」と叫ぶ日のための道筋となるかもしれない。
2005-07-12 19:03:50

平野啓一郎 『日蝕』

テーマ:書評
平野 啓一郎
日蝕


言葉使いが難解で、芥川賞の選考委員である石原慎太郎に「俺に辞書を使わせるな」と言っわせて怒らせた作品。魔女狩りに関する小説を課題で書くために読んでみたのだけれど、参考になるというよりも話そのものが面白すぎて、逆に課題の弊害になったぐらい。
社会環境論という授業で、魔女狩りの歴史についての講義を半期かけて習っていたせいか、『日蝕』にある内容が、ほとんどその中世の史実に基づいて書かれているということがわかった。史実っていうか、中世ヨーロッパ市民が魔女狩りという現象に至ってしまった集団的妄想の歴史といった方が正しいかな、当時の人々が抱いた心理的な動きと仕組みを土台にして書かれている作品だから、そのことを踏まえていれば、かなり興味深い作品として読める。妄想と現実がごちゃまぜの時代を選んでいるから、ある種幻想小説として機能していて、その辺りに娯楽の要素があるんだと思う。
堕落した僧侶、方端の従者に唖で白痴であるその息子、さらに寡黙な錬金術師とその異端ぶりに引かれる切支丹の主人公などと、もう登場する人物が怪し過ぎるわけで、自分なんかはそれだけで引きつけられた。解説によれば、使い古された記号的登場人物ばかりということらしいが、決して模倣であると批判的なわけでもなく平野啓一郎が示したこの小説の意義を、「古今で書かれてきたあらゆる探究の物語に正面から対決するのではなく、それをいわば肩越しに見つめ積極的な反復に身を任せることで文学を創出してゆこうとする姿勢である」と書いて評価している。(解説だからけなすはずはないけれどね)
まぁ、自分は平野啓一郎が影響を受けていることが認められるらしいバルザックとか泉鏡花に詳しくないので、純粋に初めて出会った物語として楽しめた。
なんでタイトルが日蝕なのかなっていう疑問は、前からずっとあったのだけれど、魔女狩りで捕まった両性具有者(アンドロギュノス)が焚刑に処される場面での、天変地異を起こすクライマックスで、その理由が明かされるわけで、ここでの両性具有者に起こる身体的異変はかなり見もの。月と太陽が直線状に並ぶ瞬間に、両性具有者が単体生殖を済ませて燃え尽きた後に金塊が出来るっていうのは、いかにも幻想的で、発想豊かだなと感心したよ。この辺りの展開力とか一般にどう評価されているか気になるところ。


2005-07-09 19:18:59

佐藤 友哉 『子供たち怒る怒る怒る』

テーマ:書評
佐藤 友哉
子供たち怒る怒る怒る

課題図書なのに提出期限が過ぎてから読み終わりました。なのでここにいつも通り感想を書く。たぶん福田和也はこの人を、ある程度評価しているんだろうね、だから課題図書になったんだと思う。こう書くのも、自分はあまり良いとは思えなかっからだけど。というのは、テンションが高すぎる、というか内容が全編通して血みどろ過ぎ。こういった連続的な刺激が永遠続くような小説じゃないと、最近は売れないのだろうか?と柄でもなく世の中を憂いたくなるほど。と言っても、純文学で売っているわけではないから、読むこちら側の心構えに問題があったのかもしれない。

出版社 / 著者からの内容紹介
僕たちはいつまで我慢しなくちゃいけないんだ? 理不尽を抱え続けなくちゃいけないんだ? 新世代文学の先鋒が描き出す、容赦ない現実とその未来。


ってあるんだけれども、肝心な理不尽を描いてないから、どうも内容が薄くなってしまっているといった印象。表題の『子供たち怒る怒る怒る』なんて、親の暴力と差別と近親相姦というトラウマの記号を子供たちのバックグラウンドにぶち込んだだけの作品で、ただただ暴力に溢れているって感じ。この辺の希薄さが、同じエンタメ系でも純文もまたいでいると言われる舞城王太郎とは違うと言えるかな。子供をモンスター扱いしたいにしても、もうちょっと人間性がないと、読んでいてつらい。

相変わらず好き嫌いが別れる本だな、と。
ファンには必須ですが、初めて佐藤友哉を読む方にはススメられません。
まずは「フリッカー式」から。


と、アマゾンのレビューにはあるので、次に読むことがあったら忠告に従ってみます。

2005-06-06 19:10:42

舞城王太郎 『阿修羅ガール』

テーマ:書評
舞城 王太郎
阿修羅ガール

なんだか人気の覆面作家、舞城王太郎。エンタメと純文学の両方を跨いで創作活動中けれど、今回の作品は三島由紀夫賞を受賞しているから、一応純文より?福田和也が押して見事受賞となったらしい。
で、内容はというと、最初のあたりは宗田理の作品を青年向けに過激にしたような感じかなという印象を受けた。正直この女子高生風な語り口で全編書いてるとしたらツライなと思ったけれど、第二部のラッセ・ハルストレム監督の「やかまし村の子どもたち」、「やかまし村の春・夏・秋・冬」にインスパイアされたという「森」からは急に村上春樹テイストになる。平易な書き方で、かつ内容が空想的世界という『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』的な感じ。
というか今、この話の内容を簡潔に書こうと試みたけれど、案外情報量の多い話というかプロットが多くて、まとめづらいことを発見。主人公の語り口調に騙されそうになるけど、実は結構入り組んだ話だったりする。
それでもがんばって重要であると思われる主題を考えると、「精神世界に踏み込んでくる他者による自己統一性の崩壊」、「対岸(崖)の死の世界」、「悪の改心」、みたいな要素がメタフォリカルと直接的な言葉によって綴られている。とまで書くと大げさかもしれないけれど、ひたすらセックス、フェラチオそれにウンコの描写に終始している作品でもないということ。他の作品も読んでみようかな、という気には一応なりました。

2005-06-02 17:38:49

村上龍「半島を出よ 上下巻」

テーマ:書評

 

著者: 村上 龍
タイトル: 半島を出よ (上)
タイトル: 半島を出よ (下)

ここで もう一回書くかもしれないと書いたので、ちょっと付けたしの書評。 
 やはり分量がある作品なので、語りきるのは難しい作品だとは思う。それでも大きな疑問として残るのは、北朝鮮に対する危機感を煽りつつも、結局はアウトローな青年たちの集団によって日本が救われてしまうという設定で、日本が北朝鮮に占領される恐怖を語りたいのか、それともアウトローな青年たちについて語りたかったのかという、微妙なあいまいさが自分には気になった。

 話の流れとしては、日本が占領されることなくなんとか助かる方向で終わらせるという構想が最初からあったのだと思われる。そのまま占領されてしまっては、話としても動きがなくなってしまうから、ドラマが発生しないしね。それと同時に、現代を生きる日本人読者の危機感を喚起したかったのだろうから、当然日本の政府や官僚たちは無能であり、内閣危機管理の現場は機能マヒに陥っている状態として描かないといけない。すると、誰が北朝鮮の反乱軍であるコリョを退治するのかという大きな問題が生じてきてしまう。警察、軍それに日米安保を頼りとしていた肝心のアメリカ軍すら、積極的な行動を示さずに、ちゃくちゃくと福岡が日本から切り離されようとしていて、世界に独立国家として認められ始めようとしている。その流れをどうにかして止めるための反乱軍に戦いを挑む存在が、ストーリーの展開上どうしても必要であったはずで、それを村上龍は酒鬼薔薇聖斗などに代表される日本に社会問題を引き起こした少年犯罪者たちに託したことになる。彼らなら社会から疎外されているという鬱屈したストレスによって、反乱軍たちに立ち向かえるという風に考えたんだと思う。彼らの異常性はテロリストにも屈しないといった感じが、少し無理があるにしても。


 どの青年たちも少年時代の暗い記憶を引き摺っていて、そういった異常な人間たちがイシハラと呼ばれる男の下に集まって暮らしている。社会的な孤立感に苛まれるようにして、彼らは居場所を求めてイシハラが住んでいる取り壊されなかった幾つかの倉庫に集まっていた。その中に毒蛙に憧れを持つ少年がいて、彼は「オリに入れた動物を見て、一方的にかわいいと思う」ような人間の感情に対して反感を持っている。その思想は青年たちの集団を象徴する考え方でもあり、誰にも強制されずに、自分が必要であると思うことをやるべきである、といった考え方を皆持っている。この思想が本作品では重要なテーマとなっているために、本の装丁に蛙が使われているらしい。しかし社会的な束縛から自由になって生きることを求めている彼らが、福岡を占拠しようとしている反乱軍を「敵」として認識するという流れは、読んでいて不思議な印象を持たざるを得なかった。イシハラが思ったことは、彼らの集団の道しるべとして引き継がれるのだけれど、何故イシハラ自身が、「コリョたちは敵だよ」と思ったのかは、微妙に明かされていなかったような?(ちょっと手元に本がないので、わかりませんけど)


 どちらにしても日本の危機管理に対する警鐘を促すのを目的としているとする話なら、日本の社会に適応できずに犯罪に走らざるを得なかった人間やトラウマを抱える少年たちによって、反乱軍が滅亡されてしまうという設定は、なんだかご都合主義だなと感じる。村上龍は会話文に括弧を付けないのが特徴であるらしくて本作品も使われていない。だけどたぶん唯一の例外があって、最後のイシハラの台詞には「それは自分しだいだ」(正確じゃないです)みたいな感じで書かれているから、社会的な強制ではなくて自分の意思判断を重要視しろといった内容が込められている感じのこのメッセージは、村上龍の語りたい重要な事柄の一つであったのだと思う。だけど、冷静に考えれば、自分の好きなように生きることを重要視する集団のことをドラマとして描きながら、一方では非常事態に遭遇している日本政府のことを「無能だな~」といった感じで描写するのは、どこか一環した構想としては成立していないように感じられる。結局、危機感だけは煽るだけ煽っておいて、その対応策は小説的な技法でうやむやにされている。政府なんか頼りにしないで、テロが起こったら、もう好きなように生きるしかない、とでも言いたかったのかな?危機感だけを感じて欲しかったのなら、大成功と言えるかもしれないけれど。

2005-05-19 22:11:34

ウィリアム・フォークナー「サンクチュアリ」

テーマ:書評
著者: フォークナー, William Cuthbert Faulkner, 加島 祥造
タイトル: サンクチュアリ

ウィリアム・フォークナーの名を知らしめた作品で、センセーショナルな内容が話題になった。性的不能者でギャングであるポパイは、犯罪の限りを尽くすのだけれども、グッドウィンという男が代わりに捕まってしまい、その冤罪を晴らそうと奮闘するホレスというように、アメリカを舞台にした一種の裁判ものとして読むことができる。しかし、どちらかというと、裁判の過程が詳しく書かれているわけではなく、主人公的人物を定めることなく、犯罪地区の群像劇を描こうとした作品のように感じた。


このグッドウィンという男には女と赤子がいて、二人の話がなかったら、『サンクチュアリ』は金儲けのためだけの過激な話になりかねなかった、と解説に書いてあるのだけれども、確かに彼らの姿はロシア小説に登場する女たちのような悲壮感が漂う人物たちで、作品に深みを与えている感じはする。他の人物たちの描かれ方は、当時の型にはまったような人物像である、みたいなことらしいけれども、当時も何も知らない自分にとっては、それなりに面白く読めた。だけど、場面がポンポン飛ぶので、それなりに集中していないと案外筋が読めなくなったりする話ではある。アメリカの州の位置関係がわかっていないので、誰がどこに住んでいたという設定だっけ?と戸惑ったりする。それと問題の衝撃シーンである、ポパイがテンプルを玉蜀黍の穂軸でレイプしたという部分は、明確には読み取れなかった。読み飛ばしたのかな?


ちょっとネタバレの話になるけれど、上記のとおり裁判の話を克明に書いているわけでもないのにホレスが裁判に敗れて、泣くことになるという展開が、いまひとつという感じを抱いた要因かもしれない。ポパイにグッドウィン、それにテンプルといった人間の話と裁判の話のバランスが微妙なので、どちらにも感情移入しにくかった。テンプルの男であったガウァンも突然フェイドアウトしてしまうし、ポパイの生い立ちも最後に蛇足のようにして書き連ねてあったりする。もう少し、早い段階でポパイの説明をしてくれたら、彼の行動を理解できたのかもしれない。謎として最後まで引っ張っていたのかもしれないけれど、自分には遅すぎる感じがした。


あと、デイビッド・リンチが映画化したら、面白そうな話だなという印象。自分の中でポパイが、『ロスト・ハイウェイ』に出て来たカウボーイ風の男に被るという理由だけなんだけれどね。実際に映画化されたものに、「The Story of Temple Drake」1933(米) 監督:ステファン・ロバーツ と「Sanctuary」1961(米) 監督:トニー・リチャードソン の二つがあるみたいです。

2005-05-14 17:18:22

エルフリーデ・イェリネク「ピアニスト」

テーマ:書評
著者: エルフリーデ イェリネク, Elfriede Jelinek, 中込 啓子
タイトル: ピアニスト

オーストリアの女性作家であるエルフリーデ・イェリネクの自伝的作品。2004年度にはノーベル文学賞を受賞している。イェリネクの情報はネット上でも少ないようで、『ピアニスト』に関する書評もほとんど見あたらなったので、作者の紹介文を本書から抜粋しておきます。


Elfriede Jelinek

1946年オーストリアのシュタイアーマルク生まれ、ウィーンで育つ。四歳からフランス語、バレー、ピアノ、ヴァイオリン、ギターなどを習う。ウィーン大学で演劇学と美術史を専攻するが、父の重病と死、母の要求過多の教育志向のため、精神科医のセラピーを受ける。その後、技法を凝らした長編小説や挑発的戯曲を発表する。1998年ドイツ最高の文学賞ピューヒナー賞を受賞、また、1989年発表の『したい気分』はベストセラーになるなど、現在、もっとも注目されている作家。


本書も、ピアニストを断念したエリカ・コーフートという女性が主人公の話で、母親の要求に従属するような生活が描かれている。ピアノを教えることを仕事としているエリカは、それでも教え子であるクレマーとの奇妙な恋愛関係のような状態になる。奇妙というのは、二人の関係が複雑で簡単には恋愛とは呼べる間柄ではないからで、これは36歳であるにも関わらずエリカが母親から未だに完全には自立していないことに所以する。母親はいずれエリカがピアニストになり世の中に認められるであろうという幻想を捨てきれていなく、男と遊ぶなと言わんばかりの母の考え方にエリカは少なからず影響を受けている。母親と二人きりの長い暮らしのために世間離れしてしまった彼女は、男性に対する要求もおかしくなっていて、クレマーへの傲慢な態度は彼を焦らす。その関係は、最終低に逆転する展開になるのだけれど。


病的なんだけれど悲しい女性の話だなというのが、この作品に対する感想。こういった家庭の中の闇みたいな世界は、現代の日本にも当てはまりそうだけれど、明確なピアニストという目標とその断念、それにも関わらず続く母親の高い要求という内容からすると、受験戦争加熱時代の頃の方が似ているといえるかも。まあ、家庭の闇そのものよりも、エリカ自身の心の闇という内容にこの小説は重きが置かれているけれど。どちらにしても、両方の関係がエリカに悪循環をもたらしているのは確かだと思う。そして彼女の心の闇であり病的な部分が端的に現れているのが、快楽を得るために自分を傷つけるという癖。これは存在の確認といったような目的のために行われるのではなく、男性との性的な関係を封印している故にはじめた奇行であるようだ。


とにかく、ドイツ語で書かれた原文をドイツ人が読んでもわからないという小説を、さらに日本語に訳して読んでいるため、表現がわかりずらい箇所が大量にあった。頭をフル活動させてないと、三行読み進めるうちに何の話かわからなくなる感じ。しかも全体的に難しいから、集中力がすぐに途切れるはで読了するのに時間が掛かった。それと、やっぱりこの訳は原文が難解なものであることを考慮してもやはり問題あるのじゃないかな、という気はした。色々他にも作品について思うことはあるのだけれど、考えがまとまらないのとしっかり読めていないと感じているので、終わり。





2005-05-09 19:00:11

近松秋江「黒髪」

テーマ:書評
著者: 近松 秋江
タイトル: 黒髪・別れたる妻に送る手紙


『別れたる妻に送る手紙』の方は未読なのだけれど、『黒髪』は読んだので。

この話は、つまり主人公である男が、好きな女のことを追いかけて、数年に渡って会いに行ったりするという話。仕事の話が出てくるでもなく、のんべんだらりと自分の好きな女のことだけを考えている毎日が、綴られている。これは、作者である近松秋江自身と重なる人格であるらしく、正宗白鳥によれば「人間としては嫌いだった。無責任だし、あいつとは事を共にするべきじゃないと思っていた。けれども、書いたものはいいですよ」という感じの人だったらしい。


話が好きになれるかなれないかは、かなり人によって違ってくるのではないかと思われる。いつまでたっても、男は女に騙されているのがわからないらしく、彼女の姿ばかりを追いかけているため、短気な人なら、何をやっているんだか、と思わずにはいられないと思う。しかし、実はわかっていて騙され続けている感も、この主人公は感じられて、売笑を商売にしている女を好きになってしまっているため、他のどんな男と会って関係を築いているのかは定かでないのに、それを「強いて自ら欺くようにして、そういう不快な想像を掻き消し、不安な思いを胸から追い払うように努めていたのであった」ということであるから、そういった自分を騙してでも人を追い続ける感覚に共感できる読み手なら、感情移入も容易にできるだろうし、かなり好きな小説になりうると思う。

2005-04-30 01:46:20

カフカ「審判」

テーマ:書評
審判
著者: フランツ・カフカ, 本野 亨一
タイトル: 審判

フランツ・カフカ の『アメリカ』、『城』、『審判』という長編三部作の中のひとつである本作品。読み終わってから既に数日経っているのに書評を書いてないのは、時間がなかったのもあるけれど、なんというか、しっかり読めている気があまりしないから。なんと言っても、本編終了後に掲載されている幾つかの未完の章に関しては、大学の退屈な講義中にちょこちょこと読んでしまったので。感覚で物言うしかないのはいつものことだけれど、これはその感覚すら寄せ付けない凄みを持っている感じ。


銀行員であるヨーゼフ・Kが、罪状もないままに逮捕されるという朝の出来事から始まるこの話は、やはり現実的世界観での不条理を描いている『変身』にも通じると思うのだけれど、設定が突飛過ぎないところに嫌らしさがあるというか、不気味さが潜んでいると思う。どこまで話が続いても、何故彼が逮捕されるに至ったかという理由が、ヨーゼフ・Kに明かされる気配はないし、いつの間にか主人公の彼自身が、罪状そのものよりもどうやって訴訟を乗り切るかということに関心を抱き始めているように話は進んでいる。


Kの生活の中心である銀行においては、彼が訴訟を起こされているという事実が知られていない。そればかりか、逮捕されている身でありながら、Kは出社することを許されているという不思議な境遇に置かれることになる。成績優秀で支店長代理をも脅かすKではあったが、なんと言っても裁判中の身であるため、彼との顧客争奪戦からの離脱を余儀なくされる。そして、Kの裁判における助役となる弁護士、法廷画家などの人間たちとの、交渉を進めていくのだが、どうも彼らの話も釈然としない。当然ながら彼らの話は、読み手の側からしたら現実的な世界にそぐわない詭弁とも映るものであるが、小説内の世界においてはそれが成立してしまっているからこそ、不条理となりえる。そして、この無限に続いている不条理の連続は、作者であるカフカ自信の境遇そのものを反映しているとは、必ず言われる話でもある。


そう考えると、やはり彼の模範的な勤務は、この作品におけるKの銀行に勤める態度と似たものであったのであろう。実直に仕事はこなすけれども、Kのように何か煩わしくも関わらずにはいられない事柄として「訴訟」、それこそがカフカにとっての作品の創作であり、そこには罪状が存在しないように明確な目的意識はなかったのかもしれない。とにかく書くことだけが、彼に課せられた訴訟の手続きであったのだろうとも思えた。そんなことを考えながら読んでいると、カフカの悲痛な叫び声が聴こえてくるようで、ゾッとせずにはいられないのが、この作品の持ち味であるとも言える。


ちなみにカフカをめぐる作家たちの言葉 というのがあって、サルトル、カミュ、マルケスに安部公房と名前を聞くだけで、文学好きにはたまらないような人たちのカフカに対する一言を見ることが出来ます。安部公房はいかにもカフカ的とは誰もが思うけれど、実はルイス・キャロルの影響が大なのではないか、と言っていたのは誰だったかな?だけど、上のサイト製作者は頭木弘樹という方で、一般の人であるけれど、カフカの翻訳を書いてしまった偉人。
2005-04-22 19:35:31

三島由紀夫「美しい星」

テーマ:書評
著者: 三島 由紀夫
タイトル: 美しい星

 

 三島由紀夫がSF的な世界に挑んだ、彼の作品群の中でも異質な作品。しかし、いわゆるSFでないことが読み進めるとだんだんわかってくる。父、母、兄に妹という四人からなる家族を中心とした話であるが、彼らが異質なのは、それぞれの故郷が火星、水星、木星、金星であるということ。人間の体を持ちつつも、彼らは地球人ではなく、宇宙人なのである。一般的な家庭が、突如として自分たちが宇宙人であるということを発見したのは、「空飛ぶ円盤」を各々が目撃したことによる。一家が宇宙人であることの自覚に目覚めた日から、彼らの目的は地球人を破壊と滅亡から救うこととなった。核や水爆の恐怖から地球人を救い、全世界の平和を実現するために、父の重一郎をはじめとする宇宙思想が展開する。

 

 この話で大きな中核をなすのは、重一郎をはじめとする地球平和を救済と考える一派と地球人の滅亡を救済と考える太陽系外から来たことを主張する羽黒一派の闘争、そして妹で金星人である暁子の妊娠の話である。前者は人類の行く末を核や水爆をめぐって議論する重一朗と羽黒助教授の場面が、手に汗握る展開を見せる。これは三島由紀夫の創作ノートによると、「ドストエフスキー的会話」と書かれているそうで、解説にも『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の場面を連想させるものであると書かれてある。

 

 妹の妊娠に関しては、金星人であるゆえに「処女懐胎」を主張するのだが、これは人間の俗世を軽視する態度を取る暁子ならではの発想であるように思われ、このあたりに実は宇宙人であることが、一家のただの空想に過ぎないという風にも読める小説としての工夫があるような気がする。重要なことは、彼らが小説の設定上、本当に宇宙人であるか否かの問題ではなく、人類のあり方をめぐって宇宙人という客観的視点からの議論によって導かれた問いかけそのものであるはずであるが、ちょうど最近ネット上でこのような記事を見ていたので、こういった精神状態に一家が陥っていたのだろうかななどと考えながら読んで、さらに楽しめた。狂気の受験戦争に疲弊した家族を描いた映画『家族ゲーム』を思い出したりもしつつ。ちなみに、この宇宙人としての視野を三島が取り入れたことが評価されるのは、解説者によれば上記の通り俗世にとらわれない超越的視点から地球人の生存と滅亡を評価することに成功している点であるようだ。

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