大江健三郎「同時代ゲーム」

- 著者: 大江 健三郎
- タイトル: 同時代ゲーム
結構長くて読むのに時間がかかりました。これも四国の森を題材にした長編小説です。『万延元年のフットボール』(1967年)に始まり、『ピンチランナー調書』(1976年)を経る、大江健三郎の、〈森と再生〉をめぐる物語群は、『同時代ゲーム』でひとまず環を閉じる、とあとがきにはありますけど、この後もずっと彼は出身地である四国の森の伝説を書き続けています。
だけどこの『同時代ゲーム』が一番森にまつわる伝説を詳しく描いている小説だと思いますね。森伝説のための入門書とも呼べる内容ですが、発表当時に恐ろしく冗長で退屈な読み物と批判された過去を持つ作品でもあったりします。人類学を不器用に使用した高級なパズルにすぎない、という批判もあったようですけど、森の神話の全体像をつかめていないまま、今まで大江健三郎の書く長編小説を読んできたので、謎が解けたようなすっきりとした読了感も僕にはありました。
森とその谷間・在(村=国家=小宇宙)に生まれた双子の兄である「僕」が、メキシコからその妹に向けて(村=国家=小宇宙)に伝えられてきた神話と歴史を手紙にして書くという構造をとるこの小説。神話として語られる内容は、法螺話とも言える(と「僕」自身が小説内で述べている)内容を含んでいますが、「僕」の幼少の頃の(村=国家=小宇宙)での体験などと照らし合わせて、具体性を持たせながらリアルな事実として、読み手に感じさせる手法がうまいです。登場人物も多彩で、重層的に語られる物語が、読み進めるうちにひとつの世界感を読み手に抱かせますね。作家のスケールの大きさは、物語る世界の大きさによってイメージされるものなんですかね?とにかく、苦労して読むだけの価値はあると思いました。
ジャック・ケッチャム「隣の家の少女」

- 著者: ジャック ケッチャム, Jack Ketchum, 金子 浩
- タイトル: 隣の家の少女
スティーブン・キングが大絶賛している作家ジャック・ケッチャムの作品。Hugoさんのところで知ったのだけれど、残酷な話で読みたくないと書いてあった。確かにひどい話で、本の帯にも「これはヤバい!!最悪なことが起こります!あなたは最後まで読めますか!?」という風に謳っていたりします。「めくりたくないページもあった」というのはキングのあとがきにあった言葉だけれども、確かにきつい描写もあっりました。
話は主人公であるデイヴィッド少年の隣の家に、事故で両親をなくした姉妹メグとスーザンがやってくることで始まります。小川で美しいメグにデイヴィッドは引かれるという、ハックルベリー・フィン的な幕開けだけれど、すぐに隣家での不協和が始まり、メグは家主であるルースとその息子たちによって虐待されることになります。
ほとんどが、メグの悲惨な虐待の描写で占められている小説で、確かに人によっては最後まで読み通すことができないかもしれないです。女子高生コンクリ詰め殺人事件を連想しました。あと、読んだ人なら誰もが感じると思うけれど主人公であるデイヴィッドが、腑抜けで友達からもトンマと呼ばれたりする人間として描かれていることによる憤りでしょうね。「なんで、助けてやらないだ」と思わず言いたくなるけれど、彼はまだ10代前半の子供なわけで、余計な感情に悩んだりするわけです。昔からの友達がすむ隣家での行いを、親に密告することはできないなどといったことに。同時に話の舞台である町は、村的な小さなコミュニティーであり、誰もが知り合いといった空間であるにも関わらず、他人の家で行われていることに対しては干渉しないという風潮。こういった環境がメグを地下室に監禁して、虐待することを可能にしたわけです。
しかし、読んでいて思ったのは、前回の読んだ『老人と犬』の老人といい今回のメグといい、致命傷ともいえる怪我を負っているにも関わらず、案外普通に話したりするあたりが、ちょっとリアリティーに欠けているということ。それと、今回の作品はほとんど救いがないので、ダーク一辺倒が苦手な人は読まない方がいいと思う。
吉田修一「パーク・ライフ」

- 著者: 吉田 修一
- タイトル: パーク・ライフ
芥川賞受賞作という帯の触れ込みに引かれて読んでみました。いきなり村上龍の芥川賞選評を引用してしまう。
「何かが常に始まろうとしているが、まだ何も始まっていない」という、現代に特有の居心地の悪さと、不気味なユーモアと、ほんのわずかな、あるのかどうかさえはっきりしない希望のようなものを獲得することに成功している
ということで、仰々しい感じで表題の「パーク・ライフ」のことだけを指しているのなら、ちょっと褒めすぎのような気もする。話は電車の中で知らない女に話しかけてしまったことで始まるわけだけれど、その後彼女となんとなく仲良くなってしまい、公園で昼休みを一緒に過ごすという村上春樹っぽい雰囲気漂う内容。スターバックスという固有名詞がしつこく出てくるのだけれど、別に話の上でこれといった大事な機能を果たしているわけでもなく、気まぐれでやっている感じがしました。春樹を模倣するための気まぐれ感なんだろうけれど、いまいちぱっとしないと思いました。「フランスパンにスモークサーモンを挟んで黒胡麻をかけて食べた」という描写なんかは、いかにも春樹的な「ぼく」がやりそうなことだけれど、どうも嫌らしい印象が残ってしまうよ。
それに対して、もう一つ収録されている話である「flowers」はかなりよかったです。都会に出てきた夫婦の話で、主人公である夫が配送会社で肉体労働に勤しむというプロレタリア文学のような内容。同級生であった同僚「永井」に八つ当たりする社長というパワーハラスメントが横行する不条理な世界で淡々と「元旦」という名の男の部下として主人公は毎日運搬作業に精を出します。しかも元旦は永井の妻を寝取ってしまうし、さらに嫌われ者である社長にもその女を紹介したりもしている。その上で、主人公、元旦、永井は酒を一緒に飲みながら生花をしたりする仲でもあったりします。
最後で大きな山場を向かえて、永井は不条理から脱するわけですが、村上龍の選評はこの作品の方が当てはまっている気がしました。
ちなみに吉田修一は文壇で一番のイケメンということになっているらしいです。
花村萬月「♂♀」

- 著者: 花村 萬月
- タイトル: ♂♀(オスメス)
花村萬月を読んだのはこれがはじめて。表題を「オスメス」と読むのは便宜上のことで、本来は「♂♀」という記号のまま読み取ってもらいたいと花村自身が言っており、そう話すだけのことはある内容であった。ひたすら性交の描写が続く作品で、出だしから45歳の作家である主人公がハーフである女沙奈と変態じみたセックスをしている。いきなり山場を読まされている気がして、後が続くのかと思ったけれど、そのままのテンションでひたすら性描写が女を変えて続く。
恒常的に性交場面が続くから、いささかつらくもなってくるけれど、主人公の内面も語られていてそれなりと奥深さも一応ある。フェチズムを持たないと考えている主人公であったけれど、ある日沙奈と合体に勤しんでいるときに啓示を受ける。「性の自由と殺人の自由が類縁関係にある」というもので、彼はこれを証明するためにカニバリズムに走る。この後に続く話は結構グロテスクで、読んでいてもちょっと気持ち悪いけれど、性交がひたすら書かれる中で趣向が変わることによって、倦怠気味な気分を解消してくれる役割を果たしていていいと思う。
あと途中で主人公が、美人OLをトカレフで撃ち殺すという妄想があるんだけれど、そのときの女に対する言葉攻めが、サディスティックなやりとりでイヤラシイ。しかもどことなく無機質で安部公房が書きそうな会話描写だと思った。
それにしても、主人公が女に対して暴君のように振舞う小説を読んだのは、これがはじめてかもしれない。安部公房の主人公は、取り巻きの変態に狼狽するような人間だし、大江健三郎の主人公もやっぱりインポ的な暗さがある。というかこんなマッチョな人間が主人公だと、普通は小説として成り立たない。スーパーマンが敵を倒すという構造のヒーロー者を期待する純文学読者は、あまりいないだろうしね。
で、なんで自分がこの小説を読んでいて楽しかったかといえば、主人公の男が女を丸め込んで性交に持っていってしまう話術というか技術に対する自負が、宮台真司の女子高生に対するそれと似ているように思えたから。「親身になって彼女たちと会話すれば、心を開く(というか脚を開く)」みたいなことを宮台は言っていた気がする。彼もこの小説に書かれているような話法でもって、女子高生を切りまくったのかな、などと思いながら技法に酔いしれて読んでいたよ。とにかく野獣系な小説だった。
村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」

- 著者: 村上 春樹
- タイトル: 中国行きのスロウ・ボート
これは村上春樹の初の短編集。83年に書かれたもので『羊をめぐる冒険』のすぐ後に書かれた作品なので、羊男とかも出てくる短編が収録されている。印象としては、後に連なる長編のための試作品的な感じもするし、息抜き的な作風でもある。
その羊男が出てくる「シドニーのグリーン・ストリート」という話だけれど、これは童話みたいな雰囲気で、文体も飾り気の全くない作品。素人が書いたものなんではないかと疑われかねない文章で、内容もかなり突飛だけれど、案外うまくまとめている。福田教授も言っていたけれど、村上春樹は現実離れした話でも、それなりに読ませてしまう辺りがプロとしての手腕なんだろうね。たまには、こういった話を読んでゆったりとした気分に浸るのもいいもんだ。
あと「ニューヨーク炭鉱の悲劇」という話は構成がかなり変わっている。雨の日に動物園に行く友人は、黒い背広と靴を持っていて、主人公は彼から葬式の日にそれらの衣服をよく借りていた。そんな彼はある日、小さなパーティーに行って人を殺したという女に出会う。最後に唐突に炭鉱に関する場面が登場して話は終わる。脈絡が全くなく、考え付いたものを並べていっただけのような作品だけれど、実際村上春樹は思いついたプロットを考えながら展開させていく手法で小説を書くらしく、大筋があって物語るわけではないらしい。この方法は失敗したら、収集がつかなくなると思うのだけれど、彼はそれで成功しているんだから色々な書き方があるもんだと感心する。だけど、この短編の場合は成功しているんだかよくわからないけど。
正直に書くと表題になっている「中国行きのスロウ・ボート」と「シドニーのグリーン・ストリート」以外は、ちょっと散漫とした印象の短編集だった。
ジャック・ケッチャム「老人と犬」

- 著者: ジャック ケッチャム, Jack Ketchum, 金子 浩
- タイトル: 老人と犬
読了しました。スティーブン・キングが絶賛している、ジャック・ケッチャムの作品でHugo Strikes Back!さんがmixiで触れてたので興味を持ち購入しました。どこにも売ってなくて結構探し回ったら実家の一番近い本屋で売っていたという。他にも『隣の家の少女』も売っていたから、湘南台に帰る前に今日買っておこうと思う。
それでこの作品の内容だけれども、老人の飼っていた犬が少年たちによって銃で射殺されることで始まる。いきなり不条理を突きつけられて、読んでいるこちらが面食らっているうちにも話はどんどん進んで、アメリカらしく裁判をしようとしたり、ニュース番組に出演して事件を市民に訴えようとしたりで復讐のために燃える老人だけれど、犬を殺した少年の父親がなかなかのやり手で、彼らと老人との対決が全編を通してスリリングに描かれてる。
中盤で老人が訴訟に持ち込むために戦略を練ったりするわけだけれども、やり手の少年の親父が先手を打ったりして、老人を不利な方向へと仕向けるあたりは、いかにも訴訟大国のアメリカらしい感じで、そのまま心理戦が続くのかと思ったら、後半は銃で対決する場面が描かれてます。不条理に黙っていられないのがアメリカ人なんだろうと思わせる部分。
それにしても、犬が無意味に射殺されるという設定は不条理そのもので小説らしい感じだけれど、銃で少年一家に復讐するまでに話が発展してしまうあたりはすごいと思う。少年とその親父は、成金で少し歪んだ家庭として描かれていて、何をしでかすかわからないといった雰囲気だったけれど、老人もここまで過激に描かれることになるとは思わなかった。純文学ならその後の老人を淡々と描いていったりするのだろうけれど、この小説はミステリーにジャンルわけされるだけあってエンターテイメント的な話の展開をする。それでもただ過激な描写によって成り立っている小説なわけではなくて、心理描写や幻想的なイメージも度々登場するから、一概にも娯楽小説とよぶことはできないと思う。
この辺りはあとがきで中原昌也も触れていて、ようするに「洗練された読み物」と評している。この指摘は純文学と娯楽小説の垣根をあいまいにしたと言われることもある安部公房にも似た立ち居地だと思う。とにかく面白いから、一読あれ。
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村上春樹「アフターダーク」

- 著者: 村上 春樹
- タイトル: アフターダーク
読了。村上春樹の最新作ですけど、もう出てから結構経ってるから読んだ人も多いと思う。前作の『海辺のカフカ』を読んでいないので、最近の彼の作品変遷がわからないけれど、僕が前回読んだ『ダンス・ダンス・ダンス』と似ている部分も多々ありました。そういえば『海辺のカフカ』はM2で宮台真司に酷評されていました。宮崎哲弥が小説をほとんど読まないで漫画ばかり読んでいるというのは驚きだけど。
話は夜の12時少し前から始まり、次の日の夜明けである朝の7時までを連続的に描いていくという設定です。「ぼく」という一人称が登場せず、第三者の視点から人々の夜の営みを追っていきます。登場人物はあまり多くないけれど、いわゆる群像劇で、村上春樹もよく公言している「ドストエフスキーみたいな総合小説を描きたい」という言葉を実践するための第一歩的な作品だと思います。中篇なので実験小説にとどまる範囲ですが、次の作品はこのスタイルを生かした長編になるんだろうと予想されますね。
例によってエリとマリという一字違いの姉妹が登場してきます。姉のエリは美人だけど堅苦しい生活を送ってきたせいで、自分の不在に悩み病気でもないのに2ヶ月間もの間眼を覚ますことなく眠っているという設定で、妹のマリはなかなか自由気ままな人生を歩んできたような19歳の少女です。真夜中の「デニーズ」でマリが時間つぶしのために本を読んでいると、高橋と名乗るエリと同級生であった男が登場します。この場面はエドワード・ホッパーのこの絵を連想させるもので、他のシーンですが実際に彼の名前が出てくるので、村上春樹はホッパーの絵にインスパイアされて今回の作品を書いたのかもしれません。
その後は姉妹の一夜の生活が交互に描かれていきますが、姉が登場する場面は現実世界から少し乖離したものとして描かれています。村上春樹の作品によく登場する一人きりの危険な精神世界のようなもの。マリが高橋に最後の場面で打ち明け話をするんですけど、『ダンス・ダンス・ダンス』のようにエリベーターが登場します。地震か何かで、エレベーターの中に閉じ込められてしまった姉妹が抱き合って助けを待ったというもので、そのときに二人が溶け合って融合するような精神的統一感に包まれたというものです。この辺りは、村上作品に多く登場する対となる女性たちの役割を解くヒントとなるような気がします。つまり、本来は一つであったものを二つに分離して描くことで小説全体に厚みを持たせる効果があるのではないかと。
あと、『ダンス・~』との類似性を他にもあげておくなら、「デニーズ」から場面が変わった後にマリの大方の行動が描かれる場所として、「アルファヴィル」というラブホテルが出てきます。
というわけで今回の作品は、いつもなら「ぼく」を取り巻く登場人物たちである「姉妹」にかなりスポットが当てられたもので群像的に描かれてはいますが、他の人物たちの心の描写などがいまひとつ不十分なもので、村上春樹が目標としている総合小説には至っていないと思いました。例えば先ほどの高橋や他の登場人物である「コオロギ」という女性のバックグラウンドが語られる場面があるわけですが、かなり唐突過ぎて無理やり付け足したようなものとしか思えず、逆に浮いてしまっていたりします。伏線を張ったまま放置して物語が終わってしまった感も否めません。まあ、多人数の物語を描ききるには分量を考慮するとこれぐらいが限界だと思うので、次は『ねじまき鳥クロニクル』ぐらいの長編で、多くの人の人間模様を描いてもらいたいです。
ちなみに宮台真司の『海辺のカフカ』の書評はボロクソで、そうなのかなと思わせる部分もあったので、この作品を読んだときに一緒に彼の評価についても触れられればと思います。
金原ひとみ「蛇にピアス」

- 著者: 金原 ひとみ
- タイトル: 蛇にピアス
読了。第130回芥川賞受賞の作品で、綿矢りささんとともにだいぶ話題になりました。ネット上にある他の人の書評を読むと、結構ボロクソ書いている人が目立ちましたけど、僕はなかなかよかったと思いました。主題であるスプリットタンや刺青に目が行き勝ちですけど、登場する人物はうまく描き分けられています。それにスプリットタンはしっかりと主人公の心理描写を語る上での重要なバロメーターとして作用しているもので、単にゲテモノ趣味で登場する類の単語ではないです。この辺りはもっと評価されてもいいのではないでしょうか?
ともあれ、この作品は村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を連想するとよく指摘されているようですけど、「蛇にピアス」の方が物語の流れはしっかりとしています。主人公のルイがアマという男のスプリットタンに引かれて、彼女もピアスを舌に付けることから話は始まります。アマの友人であるシバという男の経営する「Desire」という店で彼女は舌にピアス付けてもらい、さらには刺青まで入れてもらう。
アマのスプリットタン、刺青に憧れてルイは「Desire」で同じことをしてもらうわけですが、店主であるシバが求めたのは代金でなくて、セックスであったわけです。憧れの男のステータスを真似るために他の男に身体を許すとい箇所にせつなさを感じてもいいような気がします。ルイ自身の心理描写としてそのような内容は書かれていませんけど、実際そいう展開を見せるわけです。というのも最初ルイはアマのスプリットタンや刺青に憧れていただけであって、決して彼のことが好きなわけではなかったのです。しかし、舌にピアスを開け、スプリットタンに向けてその穴を拡張するためにゲージの大きいピアスを入れていくごとに、彼女はアマその人にだんだん引かれていくようになる。そしてアマが失踪した時になってはじめて、何故彼女がスプリットタンや刺青に固執していたかといった心理的背景が明らかになるわけです。
アマの失踪理由はこの作品の山場ですから書きませんけど、その時のルイの落ち込みようからして、もう彼女はピアスや刺青などは関係なくアマその人を求めていたことがはっきりと認識されることになります。それは結局スプリットタンにすることを最後の最後で放棄してしまった彼女の態度にも明確に見て取れます。
このように、主題として描かれているグロテスクな内容の裏にはしっかりとした人間ドラマが描かれていて、そこを読み取ってあげないと奇を衒っただけの小説だと判断することになってしまうと思います。ちなみに最後の場面で麒麟と龍の刺青に描かれていなかった瞳を入れるというのは、これからの二人の死を意味しているような気がしました。描かれていないけど無理心中とかしそうだ。
ドストエフスキー「地下室の手記」
著者: ドストエフスキー, 江川 卓
読了。これは世界文学の頂点とも言われる「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」といった作品群を後に生み出すことになる序章的な内容を含むもので、ジッドは「ドストエフスキーの全作品を解く鍵」と評しています。
内容はある小官吏の独白という形式で書かれた手記で、大きく二部構成にわかれています。第一部は、彼が極端な自意識過剰ゆえに自分の作り出した「地下室」という概念に閉じこもって、合理的主義に基づく世間の人間を徹底的に批判するものです。後半は彼が「地下室」にこもってしまう以前の体験が描かれています。
この前半は、新潮文庫の筋書きを抜粋すると「理性による社会改造の可能性を否定し、人間の本性は非合理的なものである」ことを主人公がひたすら独白するもので、端的にこの内容が表れている作品内の文章は「人間に必要なのはつねに合理的で有利な恣欲であるなどと、どうしてそんな想像しかできないのだ?人間に必要なのは---ただひとつ、自分独自の恣欲である」という部分だと思います。この「恣欲」という単語は「気まぐれ」とも訳されていて、合理的にすべてのものが統括される世の中においても、人間は意志に反して「気まぐれ」の選択を犯さずにはいられないと主張しています。
「ところが恣欲のほうは、全生命の、つまり、上は理性から下はかゆいところをかく行為までひっくるめた、人間の全生活の発現なのだ」と述べると同時に「欲望も意志も恣欲もない人間なんて、オルゴールの回転軸についているピンもいいところじゃないか?」と問いかけています。
このように合理的な世界を否定しつくして、人間の本性に非合理の影が潜むことを語っています。ロシアの思想家シェストフはあとがきによると「この作品を境に、ドストエフスキーは処女作『貧しき人びと』以来持ち続けてきた人道主義、さらに広くは理性や人間への信頼を突如として喪失し、永遠に希望の消え去ったところで、しかも生きていかねばならぬ(悲劇)の領域に足を踏み入れたのだと断定した」そうで、ドストエフスキーを実存主義の先駆者として捉える考え方もあるようです。しかし、現在においてはその見方に対して否定の向きもあるようですが。
後半は、主人公の男が大男に道を譲らず肩をぶつけ合ったことで威厳を回復する話や、主人公が彼の仲間に対して辱められてことに対する怒りをぶちまけ、その関係からある若い娼婦リーザと知り合った話が綴られています。これらの途上人物は後の作品に登場する人間たちのプロトタイプとも呼べるものらしく、このあたりが「地下室の手記」が全作品の鍵と言われる所以でもあるようです。ちなみに僕は「罪と罰」と「二重人格」しか読んだ事がないので、なんとも言えませんが、確かにリーザなんかは「罪と罰」に出てくるソーニャと同じ娼婦だし、性格も純真で無垢な感じです。ちなみに「罪と罰」を読んだときは、女性陣が異様にヒステリックなんだけれど心は清くて、なんだかいかにもロシアっぽいなと思いましたけど、「地下室の手記」では主人公の男がかなり癇癪持ちです。まあ、それ故に自分の殻に閉じこもるわけですが。
というわけで、200ページほどしかない作品なので、前半は思想ばかり語られてきつい部分もありますけど、後半はかなり読みやすく、あっという間に終わってしまいます。しかし、ドストエフスキーの入門編ではないような気がしました。主要作品を読んだ後の方が、面白く読めるのかもしれません。
安部公房「緑色のストッキング」
読了。これは安部公房の戯曲で、新潮社から出版されている文庫には収録されていなかったはずです。というわけで、僕の大学の図書館にある安部公房全集の25巻を借りて読みました。福田和也先生の小説課題で女性の脚の描写が必要になり、安部公房の作品に「緑色のストッキング」というタイトルの作品があったなと思い出して参考にしようと借りたわけですけど、結局使いませんでした。忙しくて読んでいる暇がなかったです。で、うちの大学の図書館は返却期限である2週間を越えると、延滞料として毎日10円ずつ加算されていくんですけど、何も読まないで返却するのももったいないので大急ぎで昨日読んでみました。ちなみにこの作品は読売文学賞を受賞しています。あと新潮文庫の「R62号の発明・鉛の卵」に収録されている可能性もどうやらあるみたいです。
僕はストッキングをはいた女の脚の描写を読みたくて借りたわけですが、この作品はまったくそういった場面がないため、結局小説課題のためには参考にならなかったと思います。それにさすが安部公房の作品だけあって、予想した内容の斜め上をいくような話でしたよ。
この「緑色のストッキング」というのは、下着泥棒である主人公の男に彼の息子の婚約者がプレゼントしたものなんです。もう、この発想からして理解不能な世界が始まってますけど、主人公の男は下着を盗んで捕まるという恐怖に囚われ自殺を図ります。しかし、医者たちに助けられて命はなんとか助かります、草食人間になるための手術を受けるという条件と引き換えに。しかも仕事も何もしなくてよくて金も毎月払ってやるから、実験台になってくれと医者たちに迫られる。男は下着泥棒である罪滅ぼしのために家族へ貰ったお金を送金できることを思いつき、草食人間になるための実験を承諾します。
その後、医者たちの学会発表に向けて、男は病院で軟禁状態になりますが、金が送金されることを訝しく思った家族である男の嫁、息子そしてその婚約者が男の居場所を突き止め、彼の部屋へと侵入します。そこへ医者たちもちょうど現れ、全員が舞台上で鉢合わせることになるわけです。どうにかしてでも草食人間として男を発表して、食糧問題を解決したいと考える医者と、下着泥棒をするのも手伝ってやっていいからとにかく家に帰ろうと主張する嫁との言い争いが始まります。この間にも息子と婚約者や助手と看護婦などが、シュールな会話のやり取りをしますが、結局最後は男が草食人間となるための初めての食事を始めます。しかし、そのあまりの不気味な光景に皆戸惑い、そうこうしているうちに男がどこかへ消えてしまっていた、という終わり方をします。
もう、シュール度のかなり高い作品だと思いますけど、このわけのわからなさが最高なんですよね。しかも戯曲だからほとんど会話だけで書かれてるため、独特な臨場感がありました。安部公房の会話形式というのは、なんだか言葉遊び的なものを感じる。会話というより、物事を逆の視点から指摘するといった揚げ足取りの応酬で、迷路的なものです。設定自体が複雑怪奇なのに、会話も何を話しているかわからないという形式だから、読んでるほうとしては彼の作品を完全に理解したと断言することは不可能だと思います。
同じ病院を舞台にした夢野久作の「ドグラ・マグラ」も戦後三大奇書に数えられていて、人を混乱させる小説として知られてるけれど、安部公房の作品はああいったわからなさとは違うんですよね。というよりも、「ドグラ・マグラ」のように無理に異変に対して理由付けをしようとしないから、読んでいて突っ掛かりがなく、シュールさそのものを楽しめるわけです。まぁ、安部公房自身にとっては、どの話も彼独自の理論に基づいて書かれているのだろうから、こんな書き方したら「君は何もわかっていないな」と言われると思いますが。何で死んでしまったんだよ。
しかし、あまり安部公房を読んでいると頭がおかしくなる可能性も、
新潮文庫の安部公房は大健闘!googleキャッシュなのでお早めに。
