綿矢りさ「蹴りたい背中」

- 著者: 綿矢 りさ
- タイトル: 蹴りたい背中
読了。昨日も書きましたけど、文藝の2003年秋季号に川上弘美を目当てでパラパラとページをめくっていたら載っていたので、ついでに読んでみました。というか絶対に読まないといけない理由もあったので(最後までこの記事を読めばわかります)。最初に感想を書いてしまうと、なかなかよかったです。文体がちょっと軽めなのは、物足りない感じもしますけれど、決して軽すぎるわけではなく、この作品が純文学に分類されていても問題ない気がしました。「少女漫画では当たり前の雰囲気やストーリーを文学に移したら、頭の固い世間知らずの文学評論家には受けてしまった」などと芥川賞を受賞した当時は言われていた記憶もありますが、たとえ少女漫画の焼き直しでも、それなりの価値はあると思います。漫画を読まない人も、本で17,18歳ぐらいの女の子の思考回路の中身をこの本を通して覗けるという意味で貴重なことだと思いますしね。
以下抜粋
2004-01-30
タイトル:かわいいぞ、金原ひとみさん
日経新聞に金原ひとみさんのインタビューが載ってますよ。
綿矢りささんより金原さん派だな僕は。何かかわいい写真だ。
そう言えば綿矢さんは計算されているとか、どっかの雑誌に書いてあった。
なんだっけ?忘れましたけど、キャラ作ってる的なことが書いてあった。
あ~、なんの雑誌だっけな。福田和也氏と誰かの対談だった気がする。
とにかく、頭使っているように彼らには映るらしい、したたか綿矢さん。
金原さんの作品は小説以前とか書きたい放題の内容だた。ふ~ん。
どうでもいいけど福田和也って森永卓郎となんかかぶるんだよな。
ひ~。
綿矢りささんは相当人気あるみたいですね。
このキーワードでだいぶ昨日のアクセスが上がってるし。
彼女の処女作である『インストール』は何故か世間で
話題になるより早く発売当日に購入した記憶があります。
話は正直あまり覚えていないんですが、確か女子高生が
小学生と二人でエロチャットをやるって話だったような、、?
全然違うかも。
そんことより「聖璽」でしたっけ?エロチャットをしにくる登場人物が
その本に出てくるのですが、名前もおいらと一緒だし浪人生であることまで
当時の自分と一緒という奇妙な一致にビビッタのを覚えておりますです。
(ちなみにおいらはエロチャットをやる趣味はありません。。)
まぁ、気持ち悪いな~っていう感想しか抱けなかった貧相な
感情の持ち主であったわけですが、何が一番気持ち悪いかって
言ったら、自分のことを「おいら」とか言っているやつですよね。
もうこれ使うのやめよう。某掲示板の管理人の影響が露骨過ぎるよね。
2004-01-16 権威は何処へ~~?
抹殺される運命にあると思われるかわいそうな二人。
だけど仕方ないよね需要ないんだもん。
面白くないんだもん。
人が振り向かないんだもん。
そうやって、今日の受賞者二人も廃れていくのだと思う。
ほんとガッカリだよ、村上龍のスケベオヤジ~~!
(金原さんに関しては読んでないので失礼かもしれないけどね、
あと「蹴りたい背中」もしっかりとは読んでなかったりする、、。)
■追記1月17日
あ~ぁ、この日記大変だな。一日だけで数百人の方が
リンクで来てるし。余計なこと書いちゃったのかしら。。
というか非難しているというよりむしろ
この二人に対して出版界が不況脱出の起爆剤的な
効果を期待している、「っていうこのスタンス」が気に喰わないわけです。
選考委員の作家の方たちも、その意図を読んでいるはずだから、
受賞作なしにはできないという面もあるだろうし、
つまり「芥川賞」の存在意義を根底から覆すような
利用方法を出版業界の人間がとったことに怒りというか
わだかまりを感じるしだいです。
候補リストに20歳未満を3人入れている時点で
暗黙のプレッシャーを選考委員にかけているようなものだし、
それで作品を内容の良し悪しのみで吟味できるのかという点に関しては
甚だ疑問ではありますが、芥川賞も商業ベースに乗っかりたいんだろうな~。
だけど、権威っていうものを得るには歴史が必要なんですけどね。
もったいない使い方するわい。
あと島本理生さんが取れなかったのは、野間文芸新人賞を受賞してしまって
いるからだと思われます。20歳で野間文芸賞+芥川賞なんて
さすがにちょっとやり過ぎだよという考慮だと思ったり。
あともう一つ筒井康隆氏が低年齢化に対して
怒っているとか書いた記憶があるんですが、
平野啓一郎氏も「最後の変身」でそれとなく
批判的なことを書いていた気がします。
抜粋終わり
と、このようにボロクソ書いてます・・。自分でも読み返してみて信じられないですけど、今年の最初の方はかなり彼女たちの芥川受賞に対して怒っていたようです。賞の権威が下がるとかなんとか言って、かなり上の方から批判してるな~、何様だよ自分はって感じですけど。しかもこの記事に対しても批判があって笑えます。
また抜粋(edwardっていうのが僕です)
#k
『んま、若者2人には罪は無いわけで。』
# あや
『ご自分でもおっしゃってますが、しっかり読んでないのにそんな言い方は失礼ではないでしょうか?』
# edward
『すみません、掲載号持ってるので読みます。っていうこのスタンス。』
# 名無しさん
『綿矢りさがひざ小僧抑えて恥ずかしがるところで萌えてしまった。』
# 名無しさん
『Edwardってなんだよw』
# edward
『僕のミドルネームです(ウソ)これで登録したもので名無しでカキコすると→edward』
抜粋終わり
「っていうこのスタンス」とか書いてまったく反省してないんじゃん自分。結局、今回「蹴りたい背中」を読むことができたので、まともな書評を書けると思いますよ。
やっと内容について書きますけど、この主人公である「ハツ」という女の子は、「にな川」という男子と共にクラスの余り者なんだけれど、いつの間にか二人は「にな川」が大ファンであるというモデルの「オリちゃん」を通して仲良くなっていくという話です。「ハツ」がたまたま「オリちゃん」に街の無印店で会って会話をしたことがあるため、それを知った「にな川」が「ハツ」に対して興味を持つわけです。だけれど、この「ハツ」に対して興味を持つというのが、あくまで「オリちゃん」と会ったことがあり会話をしたことのある人間としてという意味であって、「ハツ」自身には彼はさして興味を持っていないことが徐々にわかってきます。この仕掛けが巧みで、小説としてうまく作用しているんだけれども、もしかしたら少女漫画では常套手段なのかもしれないとも思いました。
「にな川」は「ハツ」に興味ないし、「ハツ」は「ハツ」でタイトルにもなっているように「にな川」の背中を蹴りたいというサディスティックな感情をだんだん彼に対して抱くようになっていくわけで、18歳ぐらいの女子なら書くものは決まっていると安易に決めてかかりそうな「恋愛話」は登場しないです。「にな川」の部屋で二人きりにしばしばなる仲であり、恋愛ストーリー的な雰囲気が漂う話であるにも関わらず、そういった展開は最後まで影を潜めたまま出てきません。この辺りが、なんとも淡くて思春期のわけのわからないまま過ぎていく男子女子の日常をうまくとらえていると言えると思いますよ。
前作の「インストール」もそうですけど、この人の話は恋愛とか愛の方向へは物語が進行しないようです。ちょっと異形な心理を持った人間たちが繰り広げる話で、うまく型にはまらないようにはずしてきますね。なかなか巧いと思いましたよ。
というわけで、罪滅ぼし終了。金原さんも読まないと。
川上弘美「センセイの鞄」

- 著者: 川上 弘美
- タイトル: センセイの鞄
読了。川上弘美の本は始めてなのだけれど、ちょっと惹かれる題だったので買ってみました。夏目漱石の「こころ」でも意識しているんじゃないかなと思わせるタイトルです。そんで読んでみたら、冒頭も似たような出だしでした。しかし、文章は当然現代風。ネットで調べてみたら、結構彼女のインタビュー記事が発見できたんだけれど、芥川賞も取っているから、固い文章を書くのかと思いきや、そうでもなかったです。ちなみにこの「センセイの鞄」で谷崎潤一郎賞を取っています。
内容は高齢であるセンセイこと松本春綱に、彼の教え子であった主人公の大町月子さんが恋をしてしまうというもの。飲み屋でたまに会っているうちに、会話をしだすようになって、いつの間にか連れ立って旅にまで行く仲になってしまう過程を四季の移り変わりとともに描写しています。独身女のホンワカ生活に突如現れたセンセイが、彼女の感情を少しずつ揺さぶり、最後は付き合うことになるんですけど、とにかく酒と食べ物が大半を占めていると言っても過言ではない小説です。川上弘美自身が食べ物の描写が好きらしく、読んでいると腹が減ってくる小説でもあります。
だけど読んでいて、何か知っている話だなと思ったらこのテレビ版をちょっと見ていたからでした。それに気が付いてからは、どうしてもキョンキョンのイメージが染み付いてしまった主人公のツキコさんでしたけど、飲み屋が主な舞台のためか彼女は頻繁にトイレに行くわけですよ。村上春樹の「やれやれ」みたいな頻度で「用を足すと、気が楽になった」みたいな描写が結構多くでてくる。だけど、この時だけはキョンキョンが用を足しているイメージを抱くのがいやで、どうしても川上弘美の姿を引っ張りだして読んだりしてました。まぁ、読み進んでいくうちに、ツキコさんは誰の姿からも独立した人物像になりましたけど、どうしても「用を足す」という書き方から感じる臭気を頭から追い払うことが出来ないでいたら、いつの間にかセンセイにその臭気が染み付いてしまって、彼が臭い老人のイメージになってしまいました。我ながら、とんでもない読み方だと思うけど。
最後の終わり方は大方予想が付いたけれど、ホロリと来てしまうんだな、これが。谷崎潤一郎賞を取っているから、彼の作品と比較するけれど、谷崎的な男女の騙しあいというものはゼロに近いです、この作品は。強いて挙げるなら同窓会で再開した同級生とちょっとした仲になりますけど、彼の存在のおかげでセンセイとの接近がさらに深まるといった具合で、かなりストレートな話だと思います。その分短いラストがいい味を出しているとも言えると思いました。
ちなみに実家に帰ったら、川上弘美特集号の文藝があった。結構どうでもいいインタビューも載っていたりするけど、昔の彼女の写真とかも大量に載ってた。結構自信あるんだろうな。それと、この号に綿矢りさの「蹴りたい背中」があったので、つでにそれも読みました。次の書評は彼女で決定。
川上弘美のリンク集
BOOKアサヒコム
ほぼ日刊イトイ新聞
作家の読書道
ググルとたくさんでてきますので。
トーマス・マン「トニオ・クレーゲル、ヴェニスに死す」

- 著者: トーマス・マン, 高橋 義孝
- タイトル: トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す
読了。高橋義孝氏の訳による「トニオ・クレーゲル」と「ヴェニスに死す」の二つの短編を収めた新潮文庫版です。福田和也先生の小説課題が出ていたので、ここ一週間はあまり本を読めなかったですけど、昨日やっと完成したので、読みかけだったトーマス・マンを読み終えることができました。だけど、ちょっと時間を置いて読んだせいか「ヴェニスに死す」の方はイメージがぼやけてしまいました。
本編の解説ですけど、この二つの話は両方とも芸術家がその生き方に迷い苦しむというもので、解説を引用すると、トーマス・マンにとっての芸術家の定義とは、『感性と理性、美と倫理、陶酔と良心、享受と認識といった相反する二つのものに板ばさみの状態に会っている人間』らしく、故にどちらかの心境に傾くと、その傾向に抑止しが掛かり、心の葛藤となって苦しむことになるとマンは考えていたんだと思います。この美とか陶酔っていうのは、当然恋愛的精神のことで、「トニオ・クレーゲル」、「ヴェニスに死す」の両作品とも、最後は恋愛に走った芸術家の償いと取れる場面で終わります。前者は主人公が友人に恋愛に目覚めたことを報告して許しを請うもので、後者は恋愛に走った故に主人公は死んでしまうわけです。
この主人公が誰に恋心を抱いたかというのも面白いんですけど、「トニオ・クレーゲル」の方は初恋の女の子に大人になって再会することで愛が復活するもので、「ヴェニスに死す」では旅行先で出会った少年なんです。で、何で面白いかというと、情熱に溺れて身を滅ぼす芸術家の最後の悲劇を描くために、その伏線が案外ちゃちかったりするんです。幼年期の初恋の時期が唐突に終わってしまったり、最後に主人公が死ぬためにコレラが町に蔓延していたりと、結構読んでいて安易だなと感じました。カミュの「ペスト」とか読んでしまっていると、伝染病系の話は大抵のものが安っぽく見えてしまうのかもしれませんけど。まあ、話は病原菌ではなくて芸術家の情熱への堕落ですからね、いいのかもしれない。
それと小説内に芸術家と作家についての言及が載っていたので、書き写しておきます。
「トニオ・クレーゲル」より
『誠実で健全で尋常な人間というものはけっしてものを書いたり演じたり作曲したりするもんじゃないことをそういう無邪気な人たちが万が一にも知ったならば、まあどんなに驚くだろうと考えると、顔が赤くなるのです。』
「ヴェニスに死す」より
『すばらしい文章を書くということは虚偽であり阿呆のする業なのだし、われわれの名声と輝かしい身分とは茶番にすぎないのだし、われわれにたいする世間の信頼は世の中でもっとも滑稽なものなのだ。』
森鴎外「舞姫」とミス慶應コンテスト
青空文庫 舞姫 切込隊長のブログを読んでいたらこんな記事がありました。「ミス慶應コンテスト」をネットでやっているらしい。私の大学のミスコンの話であるけれど、このアリエンティ・サラ女史の写真を眺めていたら、森鴎外の「舞姫」を読みたくなってきてしまったので、今回はありがたくもネット上の青空文庫でただで読み返してみました。
これは鴎外の最高傑作のひとつに数えられる作品ですが、彼自身の体験したフィクションに近い物語でもあります。主人公の太田豊太郎がドイツに出張した際に、ダンサーであるアリサという少女に恋を抱くというもので、アリサは子供を授かり妊娠して二人は幸せなひと時を過ごすものの、結局豊太郎は立身出世を選び、日本に帰ってしまうというあらすじだけだと、かなり白状に聞こえる内容です。
しかし、読んでいるときにはそのように感じさせない豊太郎の心の葛藤などがうまく書かれており、相沢謙吉なる友人の友情とツテとのおかげで、ドイツで少女に現を抜かし堕落しかけた心から勉学と出世の道へと舞い戻り日本への帰国を果たすための航海につくわけです。それでも少女に対する罪悪感からは抜け出すことができないのは当然のことであり、彼が日本に帰国するのを知ったアリサは精神に異常を来たしてパラノイアになってしまう。同時に豊太郎のことを思うあまり、日本に積極的に戻すために働いてくれた相沢に対して、ある種の憎みを抱いてしまうという描写で終わります。
やはり豊太郎に非がある話だけれど、なんとも壮絶な心の葛藤が読んでいるものを引き込むもので、読了後は物悲しい気分になれます。森鴎外自身の体験にはこの続きがあって、少女が彼を追って日本まで来てしまうのですが、鴎外の家族の説得によって帰っていったそうです。
まぁ、アリエンティ女史を見てアリサのことを思い出したわけでけど、国籍が違うんですよね、この二人は。イタリアとドイツ。それにどう考えても貧乏であるとは考えられないアリエンティ女史だけれど、結構容姿に関しては両者似たものがあるのでないかと思えたりする描写も本文にあるからよしとしときます。最後はパラノイアか、悲惨だ。
それにしても隊長はひどい。「個人的に、ミス慶應として相応しい資質というものを設定してはいる」の2番目の要綱に「慶應の現役塾生である。ただし湘南藤沢キャンパス(SFC)は認めない」という衝撃的な項目がある。やはりSFCは慶應じゃないという考えが三田、日吉の一般的総意であるようだ。どうでもいいけどさ。
アンドレ・ジッド「狭き門」
amazon狭き門アンドレ・ジッドの「狭き門」を読了しました。これも読んだ理由は大江健三郎がらみで、彼が宗教とくにキリスト教と距離を置いている理由として「狭き門」を読んで恐怖を感じたかららしいです。というわけで、どんなものかと覗いてみました。
話はよくある長い婚約話で、長すぎるために恋愛感情がなくなってしまったというもの。主人公のジェロームは従妹のアリサのことを好きになるんですけど、まだ若すぎるといういう理由で婚約せずに適齢期を待っていたものの、いざその話をアリサの持ちかけると、彼女はあまり乗る気でなくなっていたという、悲劇的な内容でした。
で、このままずるずると進んでいくのかと思い、結構退屈だなとか思ってました。どの辺で大江がキリスト教に対して危険を感じたのか理解できなかったのですが、ジェロームの婚約を拒んだあとにアリサが死んでしまういます。それで最後の章では、なぜ彼女が婚約というか、ジェロームと結婚することができなかったのかという理由が彼女の残した日記によって明かされるわけです。
まぁ、簡単に言ってしまうと、ジェロームが神よりもアリサを愛してしまっているということが問題だったようです。アリサの日記を引用すると「神よりわたしを愛し、しかもわたしは、あの人にとっての一つの偶像になってしまい、あの人が美徳へ向かってもっと深く歩み入ろうとするのを引きとめている」ことが問題だったわけです。それで、当初は神に限りなく接近するための日記であったのに、最後にはこの日記を「自分にはこれをジェロームに渡すことなく処分する権利がなく、これはジェロームのためだけに書かれたものだというように思われてきた」と書いています。
なんという悪女でしょうかね。ジェロームはいまだにアリサのことを好きであるにもかかわらず、こんな日記を読んだら、逆に神をうらむようになりはしないでしょうか?さらに彼女の面白い心理として犠牲が必要であるという要素があります。彼女の妹であるジュリエットがジェロームのことを好きになってしまい、彼女は自分を犠牲にして二人を結婚させようとも思ったわけですが、蓋を開けてみると、ジュリエットはまったく他の男と結婚してしまった。それをアリサは自分の日記にこう書き付けています。「・・・彼女がその幸福をわたしの犠牲の外に求めたこと、彼女が幸福になるためにわたしの犠牲を必要としなかったことによって、わたしの利己主義の気持ちが逆にひどく傷つけられたように思っていることがよくわかると」宗教を叩き込まれるとこんな感覚の持ち主になるんでしょうか。ファナティックすぎる気もするけれど、確かに危ないものであることもよく理解できた作品でした。
で、ジッド自身は二十二歳のころにキリスト教と決別したということです。その理由はあとがきにもありますけど、それを引用すると「肉体の純潔を保とうとすることが、創造の奔放自在を誘発して、かえって魂を不潔にするとこになった。神に従うことが、魂の均衡を破って、不安を自分に与えることになった」ということで、まさにアリサみたいな状態に陥ってしまったようです。
サルトル「水いらず」
サルトルの「水いらず」を読了。これは短編集で、表題となっている「水いらず」の他に「壁」「部屋」「エロストラート」「一指導者の幼年時代」が収録されています。なぜサルトルを読んだかといえば、大江健三郎が彼から影響を受けていると言われているからです。まぁ、本人もサルトルには思い入れがあるみたいなことを言ってますけど。で、この作品集の中で面白かったのは「壁」「部屋」「エロストラート」でした。「壁」なんかはかなり大江チックな雰囲気が出ていて、読んでいて幸せでしたよ。囚人として死刑が目前に迫っている主人公と二人の男たちの話で、彼らの精神状態が異常を来たし始める様子が刻々と書かれています。それを観察するために同室に居座る医者とか、かなり設定的に嫌らし人物を登場させたものだと思いました。その嫌らしさが、いい味を出していたりするわけですけどね。なぜ彼が捕まっているかというのは、軍部の探す人間の居場所を主人公は知っていて、それを軍が聞き出そうとしているわけです。でも彼は口を割らない。その頑固さの思考の過程が、サルトルの思想につながっていると思いますけど、解説によると本当の思想はそれ以後の作品に描かれることとなったらしいです。
逆に読んでいてつらかったのは「一指導者の幼年時代」で、これはあとがきを参照すると「無限の可能性を持って生まれた人間が、ある宿命をみずから仮構することで、いわゆる大人になる、その過程を描いている略。ある意味では、これはファシズムの心理分析だと言える」作品だそうです。
この作品は心理的な飛躍のある動きの過程を描写しているせいか、文章が読みにくいわけです。訳が悪いのかなと思いましたけど、あとがきに「描写を捨てて、極度にかわいた、無愛想な、飛躍の多い文体を採用している。役者は、あえてその文体を日本語で模倣することを試みた」ということで原文もこんな感じらしいです。
「実存は本質にさきだつ」という有名な実存主義が展開されるのは、このあとの長編小説である「嘔吐」に描かれているということらしいです。「嘔吐」は持ってますけど、一回断念しているので、サルトルの参考書を読んだあとにまたトライしてみようかと思ってます。
福田和也先生の批評
村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス下」
読了しました。これは「羊をめぐる冒険」の内容を少し引きずっていて、羊男が再び登場します。ホテルが「いるかホテル」が舞台の話ですが、なんせ「羊をめぐる冒険」を読んだのがだいぶ前なのでそちらの切り口からはあまり言及できませんけど、ホテルというのはスティーブン・キングの「シャイニング」からの影響が色濃いと思います。村上春樹自身がキングのファンであると公言していますし、「羊を~」では確か雪山のロッジという場面が出てきたと思うんだけど、その辺りは完全にキングの作品からの借用だと思います。それと「ダンス~」にはアメとその娘であるユキという親子が登場しますが、村上春樹は名前の対になった女性を登場させるのが好きですね。「ねじまき鳥クロニクル」の加納マルタ、加納クレタ姉妹とか「1973年のピンボール」での双子の女の子とか。これも「シャイニング」に登場する奇妙な双子の影響があるような気がします。
「ダンス~」では真っ暗な階がホテルの中にまれに出現して、そこに主人公「僕」が、迷い込んでしまうという場面があるのですが、これは他の作品でもたまに登場するイメージですね。これに対しては春樹自身が「作品を書くためにはあっちの世界に行く必要があって、それは危険な仕事だ」的なことを言っていて、関連性があって面白いと思います。だけど、ちょっと手元にその本がないので、正確になんと言ったのかは忘れました。そんな感じだったと思うけど今度調べておきます。
あとバットで人を殴るという一文も案外出てきたりして残虐性の一面がうかがえますね。なんといっても「ねじまき~」での壮絶な処刑シーンを描いた人ですからね。あれのもとネタは、たぶんカフカの「流刑地にて」だと思います。
関係ないけど、村上春樹が森達也のドキュメンタリー映画である「A2」について話しているページを見つけたので貼っておきます。
村上春樹「映画『A2』をめぐって」
村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス上」
読了しました。といってもまだ上巻だけなので総合的な書評は書けませんけどね。久々の春樹作品を読んだ範囲で語ると、例によって女の子がどこからともなく現れて「僕」が冒険に巻き込まれていくという形式です。しばらく春樹を読まないと、僕の場合彼の作品がとっつきにくく感じるようになってしまいます。特に大江とか三島とかを続けて読んでいたりすると、文体がなんとも軽い感じがするわけです。だけど読み進めるうちに、徐々に引き込まれているのが、彼の作品の特徴のような気がします。なんとも切ない「僕」の拙い思考の連続(「わからない」が口癖のような感じ)にずっと浸っているうちに、主人公と同化して、いつの間にかクールな青春野郎になっているという。こういった感覚は今のところ村上春樹の作品でしか僕は体験したことがないです。
あと大笑いしてしまったフレーズをここでひとつ
「ここの店のレタスがいちばん長持ちするのだ。どうしてかわからない。でもそうなのだ。閉店後にレタスを集めて特殊な訓練をしているのかもしれない」
すばらしいと思います、この発想は。
大江健三郎「日常生活の冒険」
この小説は大江作品群の中でも中期に書かれたもので、彼自身が世間からの批判を浴びて、ヒポコンデリーになってしまうという構想から生まれた若々しさの残る作品です。たぶん後期の作「取替え子」同様、伊丹十三をモデルにしたと考えられる「斉木犀吉」なる人物が登場することからも、ヒポコンデリーに陥って作品を全く書けなくなったという設定も事実に即しているんだろうと思います。
それで斉木犀吉が、その欝になって何もやる気の起きない「ぼく」こと大江氏を、日常生活の冒険を求めて東京、四国、ロンドン、パリと飛び回る話です。
実は読んでいて、斉木犀吉が伊丹氏をモデルに描かれているというのは全くわかりませんでした。伊丹十三が作品に描かれているほどに活発な人間だとは思えなかったからですが、大江健三郎にとってはそいう存在だったんでしょうかね。二人とも松山の田舎で詩を読みあっては議論などをしていたらしいです。
ここに詳しく彼らの関係は載っています。伊丹十三
それより「取替え子」について調べていたら、面白いものを発見したのでそれも載せておきます。
浅田彰【大江健三郎の「取替え子」】
実は作中に坂本龍一の言葉を出して批判していたみたい、知らなかったです。