書評ブログ -3ページ目

阿部和重「グランド・フィナーレ」

著者: 阿部 和重
タイトル: グランド・フィナーレ

 

 もう単行本になって発売されている、芥川賞を取った阿部和重の作品。文芸春秋で買いましたけど。ネタバレの危険があるので、これから読もうかという人は、この書評は見ないほうがいいと思います。どうでもいい話だけれど、大学の図書館でこの作品の掲載されていた群像12月号を借りて読もうとしたら、雑誌は一日しか借りれないということで、途中まで読んでいたにも関わらず結局借りなかったです。文芸誌はもう少し貸し出し期間を伸ばしてくれないと、読むことが出来ないと思うんだけどな。


 作品の内容ですが、さんざん書かれてますけど、これはペドフィリアの主人公がちーちゃんという自分の娘の親権も職も失ってしまったため、田舎に帰るという話。実家に帰って親の文房具店を手伝うという生活をし始めているうちに、町の「芸能祭」なる催しのための演劇の指導を頼まれることになった主人公は、いやいやながらも、二人の少女亜美と麻耶の強い要望を断りきれずに彼女たちの演技指導をし始める。二人の少女は、片方が引越しすることになったために演劇を成功させて、「最後」の思い出を作ることに懸命になっており、その姿に主人公は過去の過ちに対する認識を強めていく。


 前半が、主人公の犯してしまった少女たちに対する犯罪行為の描写にあてられていて、後半は田舎での少女二人への演劇指導をする場面が描かれてます。亜美が引っ越すことになった理由は、彼の兄がトキセンターでトキを逃がし警備員を殺してしまったということで、これは『ニッポニアニッポン』の内容がここで出てきたりします。ちなみに、この話全体が『シンセミア』のサイドストーリー的な位置づけであるらしいですが、まだ『シンセミア』を読んでいないのでなんとも。あと亜美と麻耶に関して「ダブルユーじゃないの疑惑」が持ち上がってたみたいですけど、ここの記事によれば違うみいたいです、以下引用。


月曜日くらいから店頭に並んでいる文藝誌「群像」の最新号に阿部和重芥川賞受賞記念インタビューが載っているのですが、その中で聞き手の佐々木敦氏が『グランド・フィナーレ』に出てくる双子みたいな少女は辻希美と加護亜依のダブルユーの事ではないか?そして、「グランド・フィナーレ」って2人の卒業の事じゃないの?執筆時期も重なるし、と聞いていました。対して阿部氏は、ずっと前に小説構想してる時から、すでに双子みたいな少女を出そうと考えていたのでダブルユーとは関係なく偶然とのこと、でも、卒業コンサートは行きましたよと答えていました。

 文芸春秋で買ったことによる特典は、選評が読めることだと思いますけど、村上龍が案外鋭い指摘をしています。「危険なモチーフの割りに毒がなくて最後まで安心して読めるのは『グランド・フィナーレ』の最大の欠点である」っていうのは、作家にとってかなり痛い一言だと思う。モチーフを生かせてないということだし、掘り下げ切れていないということだろうから。自分も研究会でいつも言われている気がします、あのお方に。ちなみに石原慎太郎は選評を「不毛の時間」と言ってましたが、石黒達昌がちょっと気になったみたいです。

三島由紀夫「金閣寺」

著者: 三島 由紀夫
タイトル: 金閣寺

 

 去年の冬ごろにBookoffで四冊ぐらい一気に買った三島由紀夫を徐々に消化している最中です。やっと彼の代表作である『金閣寺』を読み終えました。これは、このサイトの論文を引用すると「昭和二五年(一九五〇)七月二日未明、鹿苑寺徒弟の林承賢によってなされた実際の金閣寺放火事件に素材をとったものである」ということで、当時この作品が発表されたころには、話の結末が知れわたっていたみたいです。そのような話の筋が世間に知られているという制限の掛かった状況にもかかわらず、この作品は、実際の犯人と三島が同化することで溝口という主人公の心理描写を巧みに描いており、犯行に至った経緯が理解できるようになっているのだと思います。しかし、なかなか難解な作品。


 実際の犯人は、金閣寺の持つ美への反抗によって放火することになったようで、作中の溝口も執拗に金閣寺に対する美の憧れを述べてます。しかし、自分には溝口が金閣寺を燃やそうと決心するに至る心理の動きがよくわかりませんでした。なんだか致命的な読み落としをしたのではないかという感じ。


 溝口は生来の吃(ども)り。彼はこの性質のせいで世界からの孤独を感じます。この「陰」の部分に対する「陽」が、溝口の吃りをまったく気にしない友人である鶴川の性格。そして溝口の金閣寺に対する「美」に対を成す性質のものとして、柏木の「悪」が出てきます。それで、鶴川が死んでしまうっことで「陽」の部分が抜け落ちてしまった溝口は、序所に悪友の柏木の性格に毒されていくようになります。このあたりまでは、追えました。さらに溝口と老師との心理的なやり取りも、彼が金閣寺を燃やす決意を固めることになる要素だけれど、最終的に溝口に「金閣を燃やさなければならぬ」という想念が浮かんだ理由はわかりにくいです。やはり溝口が出奔したときに思い出した柏木のこの言葉のためなのだろうか?


俺たちが突如として残虐になるのは、例えばこんなうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木漏れ日の戯れているのをぼんやり眺めているときのような、そういう瞬間だと思わないかね


 だけど、その後にも溝口は柏木と「認識」と「行為」に関する議論で戦ったりしていたりもするわけで、柏木の考え方に完全に従っているわけでもない。「南泉斬猫」に関しては、柏木の語った伏線どおりに「南泉和尚」と「趙州」の役割が、溝口と柏木の間で逆転したのは確かだけれど、これを言うために最後の議論が出てきただけなのかな?もうよくわからんし、話を読んでいない人にとっては、もっとわからないだろうから、もう終わりにしておきます。


 追記:唯一わかったのは、阿部和重の「ニッポニアニッポン」がこれとそっくりだという言うこと。似すぎてると思ったら、彼自身が大江健三郎の「セブンティーン」や「金閣寺」を意識して書いたと言っていたのを思い出しました。

小林多喜二「蟹工船」

著者: 小林 多喜二
タイトル: 蟹工船 一九二八・三・一五

 

 つげ義春の貧乏くさい絵柄に引かれているうちに、労働者とかのプロレタリアートに興味を持ち始めて小林多喜二を読んでみました。(結果から言うと、当然だけど両者の世界観はまったく違った)
 
 『蟹工船』は彼の初期の作品。資本家に殺されるぐらいに搾取され続ける労働者が立ち上がってストライキと暴動を起こすというもの。第三者の視点で描かれているため、主人公的な立場の人間がいないですが、漁夫たちの怒りが多面的に伺えます。船の中の醜悪な労働環境で働く漁夫たちが自然発生的に団結してストへ突入する展開はスリリング。

 

 『党生活者』は逆に共産主義の活動が許されない社会で、その思想を広げるために地下生活をするという主人公の話。この作品の方が明らかに小説としての完成度が上がってます。『蟹工船』のような暴動は自然に発生することは滅多にないと理解したのか、工場内で争議を起こそうとするための組織的な操作活動が話の主な内容。小林多喜二本人とかなり重なる部分の多い本作品を描いたあとに、彼は警察に逮捕されて虐殺されてしまいます。膀胱が二倍に腫れ上がるほどの虐待といった話ぐらいしか知らなかったので、Hugoさんのところの詳しい記事</a>でその惨さを改めて知りました。『党生活者』にも度々、母親に関する話が出てきますけど、作品では親子関係を切ったということになっています。それだけでも泣けるのに、その上で息子がこんな姿で戻ってきたらやりきれない思いだっただろうな。それと作中では、微妙な恋愛的要素もあったりして和やかなムードも漂う一瞬もあったりしますけど、後に作者が殺されるという事実がすべてを残酷な印象にしてしまいますね。あと最後に載ってる蔵原惟人の解説がなかなかよかったです。

村上嘉隆「サルトル」

サルトル
著者: 村上 嘉隆
タイトル: サルトル

 

 大江健三郎がサルトルのことを賞賛していて、実存主義的な視点もからめつつ初期の作品が発表されていったということは知っていましたが、実際にどの辺にサルトルの影響が見て取れるかということは、作品を読んでいてもわからなかったりします。そこでサルトルの著作を読んでみようと思って『嘔吐』や『水いらず』といった作品を読んでみましたけれど、やはりよくわからない。しかも『嘔吐』に関しては、途中で読むのをやめてしまいました。そこでこの入門書を読んでみました。

 

 有名な「実存は本質に先立つ」で知られるサルトルの思想は、ペーパナイフの例でよく例えられます。
まず、「本質主義」から考えるとわかりやすいと思いますので、その説明から。


 例えばペーパーナイフを作った職人というのは、その物体が持つ作用を心に描き、その「本質」に基づいて、ペーパーナイフという現実の物体である「実存」を生み出すわけです。


 そして、これを人間に当てはめて考えてみた場合、人間を創造した神が存在する前提で話すと、やはり職人としての神はある概念という「本質」に従って、「実存」としての人間を作り出したということが言えて、これが「本質主義」ということになります。

 

 しかし、サルトルの場合は「いっさいの神の創造を認めぬ無神論の立場に立つばかりでなく、人間をその本質性から説明する思想のすべてに対して反対の立場をとるのである」ということだそうで、「人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味する」ことを主張したわけです。

 

 そして『水いらず』に収録されていた銃殺処刑が目前に迫る限界状況を描いた『壁』に関するサルトルの思想の立場は、「社会も組織も、同志の連帯責任も集団も、祖国の解放も階級闘争の勝利も信ぜず、これを望もうとはしない。ただ、強制に屈せぬ自由な主体であれ」というもので、「自己自身であれという企て」を表現した作品といえるようです。

 

 この他にも「即自存在」、「対自存在」といったものや「反弁証法」といった概念に発展していきますが、この辺りからはややこしくなってきますし、当初の目的であった大江作品との関連性はあまり見出せなくなってきました。

 

 最後にカミュとサルトルの有名な大論争ですが、サルトルの批判はカミュの歴史に対する態度が問題として映っていたようです。彼の「自ら歴史の外に位置しつつ、歴史の悪に抵抗するモラリストの態度がうかがわれる」ことが鼻に付いたみたいです。

三島由紀夫「美徳のよろめき」

著者: 三島 由紀夫
タイトル: 美徳のよろめき

 

 久々の読書です。この『美徳のよろめき』を読み始めたのは確か一月からだったと思いますけれど、時間が取れなくて長いあいだ途中で放置してました。そんなわけで、前半から中盤までの話の記憶が少し曖昧になってしまいましたけれど、内容としては(ここから一行でネタバレ含む)主人公である節子という人妻が、土屋という青年との逢引に目覚めて姦通の背徳を犯すというものですが、最終的には美徳が復活するという、その一連の「よろめき」を描いた作品になっています。


 「その男の鼻のあるべきところは黒々と落ち窪み、目はひきつれて歪み、眉はなかった」という男に街中で節子は突然すれちがったりします。男はその一回しか出てこないんですけれど、この登場人物を話の中でもっと引っ張ってくれたら安部公房の「他人の顔」みたいになりそうで面白いかなとか思いましたね。そんな物語を三島の世界観に求めても仕方がないけれど。あと「よろめき」というタイトルが付いているにも関わらず、実は作中で節子は二回も掻爬していたりするので、よろめくどころじゃなく完全に美徳は沈没しているのではないかなと思いましたが、三島的には土屋から未練なくわかれた節子の姿に美徳への回帰を認めるようです。そんなものかな。

川端康成「雪国」

著者: 川端 康成
タイトル: 雪国

 

 ということで、この前買いに行って売ってなかった『雪国』を手に入れたので読んでみました。「トンネルを抜けると雪国であった」のフレーズで有名な本作品ですが、本当は「○○の長いトンネルを抜けると雪国であった」が原文なわけで、この○○に何が入るかと聞かれると案外知らなかったりします。ええ、テレビ番組とかでも問題として使われていたのを見たことがありますが、正解は「国境」になります。「国境」、何の事だろう?って感じですが、これはインターネットは国語力を奪ったかによれば「国境とは群馬県と新潟県を隔てる上越国境(県境)のことで、上越線のトンネルを群馬側から新潟側に抜けた部分の描写となっています」ということだそうです。さらに「トンネルを抜けると、そこは雪国であった」の「そこは」という単語は、いつの間にか付け足されてしまったみたいで間違いであったりします。

 

 で、この作品も『伊豆の踊子』同様に温泉宿が舞台になっています。川端自身が、19歳の時に伊豆の温泉に初めて訪れて以来、10年間毎年赴いていたということで、その頃の体験も込められているんでしょうかね。話は「島村」という主人公が「駒子」という女がいる温泉宿に数年間の間に何度か通う話です。伊藤整の解説では、「抒情小説」という新しい言葉を作り出してまで、この作品の持つ日本人の芸術的精神、心理的な美について語っておりますよ。そんなものかな、そんなものだな。ちなみに冬の過酷な自然描写に、震災にあった新潟の方々がいかに現在大変な状況に置かれているかということがよくわかる作品です。被災された方には頑張ってくださいとしか言えないけれど。

 

 それより、「国境」に関しての「コッキョウ・クニザカイ問題」が案外面白かったりしますよ。国境の長いトンネルを読んでもらえればわかるんですけれど、ちょっと前にブームになった齋藤孝の『声に出して読みたい日本語』の話には、今はなき『噂の眞相』が乗り出して記事まで書いてるみたいです。そんな、些細なことに目くじらたてるから、純文学に壁を感じる人が増えるのではないだろうか、あうー。

川端康成「伊豆の踊子」

著者: 川端 康成
タイトル: 伊豆の踊子・温泉宿 他四篇

 

 今年度、最後の作品は川端康成の『伊豆の踊子』になりました。ちょうど東京は雪が積もっていることだし、『雪国』でも読んでみるかと思って書店にいったのわけですがなかったので、本作を選びました。

 

 「伊豆の踊子」、「温泉宿」、「抒情詩」、「禽獣」の四つの短編が収められています。解説は川端をノーベル賞に推薦する手紙を書いた三島由紀夫。その経緯に関してはここにわかりやすい記事があったので抜粋します。(googleのキャッシュでしか見れないです、なくなってしまう可能性もあるので長いですけど掲載)


 「川端康成はノーベル文学賞をせがんだことがある」。太宰はダメ人間なので、根回しに失敗し喜劇になったが、川端はしたたかな政治力があり、ご存知のように68年に日本人としてはじめてノーベル文学賞を獲得した。しかし、川端は常に追う立場にいた。まず、文豪谷崎潤一郎。一時、ノーベル賞最有力とも言われた。猥褻の限界をさまよう作風は今読んでもスリリング。特に『鍵』は(おそらく)京都大学の教授が主人公で、河原町通りや四条通り、同志社など身近な場所が出てくる。きっと今の祇園周辺でも変態教授に会えるはず!?その谷崎が65年に死に、川端がホッとした?のも束の間、早熟の天才三島由紀夫がノーベル賞の候補に2回も選出される。三島もノーベル賞には異常なほどの執着を示している。ノーベル賞獲得は父との約束でもあり、自分が英雄(三島は自己愛性人格障害=ナルシストである)になる唯一の方法であると考えていた。川端は焦りに焦った。よりによって自分が文壇にデビューさせた三島にノーベル賞も持っていかれるとは!しかし川端はその関係を逆手にとる作戦に出る。三島に「ノーベル文学賞の推薦文」を書いてもらうことにしたのだ。三島は川端を師事にしていたこともあり、自分の嫁さん(=画家杉山寧の長女)の媒酌もしてくれた。さらに『宴のあと』のプライバシー裁判の苦悩していた三島を、日本ペンクラブの会長として援護してくれたこともあり、三島は「川端氏以外にノーベル文学賞にふさわしい人物はいない」という推薦文をスウェーデンに送っている(その内容は『川端康成・三島由紀夫往復書簡』の最後のページに載っている)。川端と三島は最後まで争ったが、三島の作品は全体的に政治色が強いこと、若年であることなどが理由で川端に軍配があがった。受賞の際、川端は、その理由として、「伝統・翻訳・三島君のおかげ」と答えている。これを契機に三島はプッツンしたかのような奇行を繰り返す。三島の中には「これから10年以上経たないと、日本人にノーベル文学賞はまわってこない」と考えたらしい。老いることを極度に嫌がっていた三島にとって、それはもう不可能だった。実際大江健三郎がノーベル賞を獲得したのが、川端から約30年後。すっかりあきらめた三島は、西欧ではとりわけ敏感なナチスドイツを戯曲化した『わが友ヒットラー』を書き、ナショナリズムを強めていく。三島が自決し、自殺を常に否定してきた川端もその2年後に自殺する。三島の死についてだんまりを決め込んだ川端だが、睡眠薬依存症に陥っていた彼にとって、ますますその量が増えたことだろうと勝手に推測。

 

  という壮絶な関係にあった二人ですが、解説はあたりまえだけど、好意的に書かれています。面白くもちょっと動物に対して冷たい男の話である「禽獣」に関しては、アレゴリー(比喩)として読むべきであると三島は指摘しています。作中での犬が分娩に対して実感が沸かないという眼差しと、作家である川端自身が自分の作品を眺める時に向ける眼差しを、読者は想像して対比させて読むと面白いだとうみたいな話でした。「伊豆の踊子」より「禽獣」のほうが面白かったので、その話になってしまいました。

マルキ・ド・サド「悪徳の栄え」下巻

著者: マルキ・ド サド, 渋澤 龍彦, マルキ・ド・サド
タイトル: 悪徳の栄え〈下〉

 

 やっと上下巻を読了しました。上巻ではパリでの活動がメインだったジュリエットですが、サン・フォンを気まぐれの美徳によって裏切ってしまったため(美徳が悪の世界なので)、殺されそうなはめになったためイタリアに逃げます。そこでの話がメインですけれど、全編通してやっていることはずっと同じで、放蕩にふけるジュリエットの姿が色々な登場人物と共に描かれてます。
 
 とにかくとっかえひっかえ色々な男女が出てくるわけですが、みんな絶世の美人として描かれているため、一種のドラゴンボール現象(敵がどんどん強くなる)のような状態に陥ってもいます。だから、美人が出てきてもありがたみが読者には全く伝わってきません。それで、だいたいは男も女もジュリエットや他の取り巻きの策略によって殺されてしまうというのがオチです。

 

 かなりパターンが決まっている小説で、物語には違いないですけど、なんだかプロットを読まされているような気になってくるのは、ジュリエットが変態的な案を思い浮かべて協力者にその計画を話すと、ただちに実行されてしまうからでしょうね。計画が実行に至る過程が、かなりなおざりにしか書かれてなくてディティールが少ないから、特に読んでいて吸い込まれるといった感じがないわけです。

 

 それで肝心のサディズムの由来でもある放蕩の内容は、尻に対するフェティズムに溢れてます。「こんな美事な尻はこの世に二つとしてない」みたいな描写で溢れてます。あと、鞭で尻を血が出るまで叩き続けるという描写も多いですね。この二つがかならずセットで出てきます。あと、下巻の中盤以降からは何をしながら、その相手を拷問によって殺すというのがデフォルト設定になるのも特筆でしょうね。アホみたいに皆殺されていきます。特に残酷な表現や苦しむ声とかは出てこないので、案外さっぱりしてますが膨大な量の人間が次々に死にます。だけど、最後の最後で一人の孤児に加えられた虐待は、他の話とは段違いでむごたらしかったです。このテンションでずっと続いていたら、読了は不可能だったと思えます。

 

 最後にこの話はエロティックな小説というよりも、サド侯爵による思想書といった側面が強い小説であるような気がします(というか他人の思想を剽窃しまくっている)。「神なぞは無知蒙昧な人間による産物で、自然は美徳よりも悪徳を奨励する」といった内容が彼の主張だと読み取れます。あと剽窃していることはわかりますけれど、元ネタが誰のかわからない自分が嫌になってくる小説でもあるわけで、もう少し勉強しないとなと思いました。

 

参考になりそうなサイト
2つのサド観


サド Marquis de Sade
↑サドのことを「現実に数多くの性的虐待を実行し」と書いてあるけれど、実際はそうでなかったような話を読んだ覚えがあります。(確認したらやっていたみたいです)


マルキ・ド・サド「悪徳の栄え」


サド侯爵と見る「マルキ・ド・サドのジュスティーヌ」
↑ジュリエットの妹ジュスティーヌの映画。写真があるので、美人のイメージが沸きますね。

 

 決して文章は読みにくい小説ではないですけど、なんといっても長くて(それでもこの上下巻は完訳ではなくて抄訳なので原作の1/3ほど)どの話も似ているというのが辛いところです。ジュリエットが悪徳の限りを尽くすわけですけれど、サディスティックな発言をしてみると、読み続けるうちに読者が最後に期待するようになっているのは実はジュリエットの無残な死なんではないでしょうかね?

マルキ・ド・サド「悪徳の栄え」上巻

 

著者: マルキ・ド サド, 渋澤 龍彦, マルキ・ド・サド
タイトル: 悪徳の栄え〈上〉

 澁澤龍彦の翻訳です。SMのサディズムはこのサド侯爵の名に由来するわけですけれど、それだけあってかなり作品の内容もSMしてます。人の心臓を張形(水牛の角や鼈甲(べつこう)などで陰茎の形に作った淫具)の代わりにして楽しんだり、妊娠した少女たちを孕ました本人が快楽のために堕胎させるといった話であります。で、既に上記の内容からお分かりだと思いますが、この本では人が殺されまくります。ジュリエットという少女が主人公であるわけですが、彼女が幼少期からだんだんと堕落して悪徳だけを神であると崇めるようになる成長の過程が本作品の主な流れになってます。彼女は大臣であるサン・フォンと知り合うことで、どんな罪を犯しても有罪にならない手段を手に入れることになるため、とりあえず快楽のために人を殺すようになります。さらに殺人によって逆に快楽が生じるようになることを期待したりと、もうやりたい放題のジュリエットが描かれているわけです。


 後半はロシア人の巨人が出てきて、彼の住む洞窟で放蕩にふけるジュリエットですけれど、このあたりから幻想小説じみてきたます。ちなみにここではカニバリズムも登場します。巨人は人間しか食べないということで、結局ジュリエットも少女の肉を食べることになるわけです。このあたりは『ジェローム神父    ホラー・ドラコニア少女小説集成』の中に似たような場面が描かれてあります。というかこの『悪徳の栄え』に出てくる話の数々は、突飛なものばかりですけど、描写が足りないせいかあまり想像を掻き立てるものではありません。その分あまりグロテスクな感じも受けないわけですけれど、それじゃあ物足りないと思う人には会田誠の絵と一緒に読むことをお薦めします。ちなみに僕はあまりグロテスクなものが好きではないので、この小説の描写でも充分ですけど、会田氏の絵画は見ていてもそこまで嫌な気はしませんね。たぶん少女たちが笑顔だからだと思いますけど、これらの絵がすべて少女たちの苦悶の表情で描かれていたら、結構きつい作品になるでしょうね。ここで幾つか彼の絵を見ることができます

 

 まあ、こんな感じの話が永遠と続く小説ですけれど、これも澁澤のあとがきによると逆の意味での教養小説という風に位置づけることができるということでした。最近ではサドの作品も再評価され始めているようですし、これから頑張って下巻を読もうかと。

著者: マルキ・ド サド, Donatien Alphonse Francois de Sade, 渋沢 龍彦, 会田 誠
タイトル: ジェローム神父

阿部和重「ニッポニアニッポン」

著者: 阿部 和重
タイトル: ニッポニアニッポン

 日曜日にこれを読み終えたら、夕方から熱が出て寝込みました。まだ、寝込んでいる最中ですけど。で、この本は、中篇の作品で、かなり読みやすかったです。何しろ既に頭が朦朧とし始めていた段階でストーリーを追いながら読み終えることが可能でしたからね。

 

 学名がニッポニアニッポンであるトキを巡って主人公が、大きな事件を起こす話ですが、全編に渡ってトキの新聞記事の引用をしていて、案外楽をしているな~といった感想でした。全部架空の話として作ってほしかった。あと、後半で少女が出てくるけれど、ちょっと安易な感じがします。

 

 あとがきは斉藤環さんでした。表紙には、「クイーン」、「CCさくら」、「おジャ魔女どれみ」という要素が組込まれているという、話を書いてます。あと、登場する女性人物二人の名前が上記の二つのアニメから来ているという話も。阿部和重ってそういう属性を持っているらしいのは知っていたけれど、作品にまで出てくるのは、なんかアレなきがします。あと、作品中に「萌え」という言葉も出てきましたよ・・・もう駄目だ、寝ます。