村上嘉隆「サルトル」 | 書評ブログ

村上嘉隆「サルトル」

サルトル
著者: 村上 嘉隆
タイトル: サルトル

 

 大江健三郎がサルトルのことを賞賛していて、実存主義的な視点もからめつつ初期の作品が発表されていったということは知っていましたが、実際にどの辺にサルトルの影響が見て取れるかということは、作品を読んでいてもわからなかったりします。そこでサルトルの著作を読んでみようと思って『嘔吐』や『水いらず』といった作品を読んでみましたけれど、やはりよくわからない。しかも『嘔吐』に関しては、途中で読むのをやめてしまいました。そこでこの入門書を読んでみました。

 

 有名な「実存は本質に先立つ」で知られるサルトルの思想は、ペーパナイフの例でよく例えられます。
まず、「本質主義」から考えるとわかりやすいと思いますので、その説明から。


 例えばペーパーナイフを作った職人というのは、その物体が持つ作用を心に描き、その「本質」に基づいて、ペーパーナイフという現実の物体である「実存」を生み出すわけです。


 そして、これを人間に当てはめて考えてみた場合、人間を創造した神が存在する前提で話すと、やはり職人としての神はある概念という「本質」に従って、「実存」としての人間を作り出したということが言えて、これが「本質主義」ということになります。

 

 しかし、サルトルの場合は「いっさいの神の創造を認めぬ無神論の立場に立つばかりでなく、人間をその本質性から説明する思想のすべてに対して反対の立場をとるのである」ということだそうで、「人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味する」ことを主張したわけです。

 

 そして『水いらず』に収録されていた銃殺処刑が目前に迫る限界状況を描いた『壁』に関するサルトルの思想の立場は、「社会も組織も、同志の連帯責任も集団も、祖国の解放も階級闘争の勝利も信ぜず、これを望もうとはしない。ただ、強制に屈せぬ自由な主体であれ」というもので、「自己自身であれという企て」を表現した作品といえるようです。

 

 この他にも「即自存在」、「対自存在」といったものや「反弁証法」といった概念に発展していきますが、この辺りからはややこしくなってきますし、当初の目的であった大江作品との関連性はあまり見出せなくなってきました。

 

 最後にカミュとサルトルの有名な大論争ですが、サルトルの批判はカミュの歴史に対する態度が問題として映っていたようです。彼の「自ら歴史の外に位置しつつ、歴史の悪に抵抗するモラリストの態度がうかがわれる」ことが鼻に付いたみたいです。