大江健三郎「憂い顔の童子」

- 著者: 大江 健三郎
- タイトル: 憂い顔の童子
大江健三郎の文体はよく難解と批判されることが多いけれど、自分はあまりそのように感じてこなかった。だけど、この作品に関しては、ストレートに意味が入ってこない感覚がして、そう言われるのも頷けるような気もした。難解な単語が多いわけでもないのに、意味がつかみにくい文体。故に話も、それなりにしか理解できていないような感じもする。下手なことを書くのも嫌で、このエントリーを書くのがためらわれるけど、一応読んだ日の備忘録としての機能もあるので。
とにかく、これは三部作の二部にあたる話で、前作の『取り替え子』の続編という位置づけ。本来なら期間がだいぶあいているので、もう一回、前作から読みなおした方がいいのだけれど、三部作の完結編である『さよなら、私の本よ!』の連載が始まったということで、急遽この二部を読み始めた。
内容は大江健三郎の分身である主人公の長江古義人が、母の病気を期に、故郷へと戻ることから話がはじまり、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を下敷きにして物語は進んでいくという構造。下敷きといっても、長江の作品の研究家で、『ドン・キホーテ』も研究してきたローズという外人と同居するという生活の中で頻繁に『ドン・キホーテ』の話が挿話的に長江、ローズの会話の中で参照されるという仕方。そして長江の「人生の終わりを意識しての生きかた」が苦渋と共に描かれている。生まれ故郷の地元の人たちとのトラブルや、『取り替え子』をめぐってのある評論家による指摘に、長江が激昂したりと、印象に残るシーンが多いものの、話はいろいろと入り組んでいる。最後には、全共闘の再現デモに加わり頭部を負傷して意識不明に陥るという状態で終わる。
何が話を難しくしているかというのは、文体もさることながら、その引用されている文献や大江自信の作品の数の多さであって、それぞれが単独で難解な作品であるものを引用するから、重層的に難解になってくる。『ドン・キホーテ』を読んであると、『憂い顔の童子』の理解を深めると他のサイトに書いてあったけれど、あの作品だけでも6冊あるから、相当の時間が必要。他にも大江健三郎お得意のウィリアム・ブレイクなども当然ながら出てくるけれど、この人たちに関しても僕は知識がゼロ。とにかく、これらの引用されている作品を近いうちに読んでいきたい。それから、三部作を読み直して、考え直してみようかと。ダンテの『神曲』もあるしな~。