隋や唐の皇帝は殷人の末裔であり、縄文人の末裔でもあった | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

古代、日本は遣隋使や遣唐使を中国大陸に送った。隋や唐の皇帝に謁見し、親書を渡し、学者や僧侶を送り、積極的に文化交流した。

実は、隋や唐の皇帝は殷人の末裔であり、日本の縄文人と同族であった。その共通する特徴は落ち窪んだ目と眼窩上隆起、二重瞼、福耳、濃い髭などである。そして、日本人と同じ気質と価値観を持ち、日本語を喋っていたと考えられる(参考)。

同様に日本に渡った鑑真和上も、殺されずに亡命したとの伝説のある楊貴妃も殷人の末裔で、日本語を喋っていたと考えられる。遣唐使が終了したら日本が国風文化となったのは、中国大陸におき忘れていた文化を全て日本に持ち帰った結果であった。


注意

隋や唐の時代の皇帝の肖像画は後から想像で描かれたと思われるが、特徴は捉えられていると期待される。確認のため同一人物の肖像画を2、3枚用意した。

念のため、漢民族の帝国であった宋や明から肖像画を1人ずつ選んで見ると、現代の漢民族の容貌に近く、目元が平板(眼窩上隆起が無い)で、耳たぶも福耳では無く、髭もそんなに濃くは無いようだ。


雑談1

殷人の末裔であるので、楊貴妃の一族の楊氏は隋の皇帝も務めたが、本名は「やなぎ」さん、唐の皇帝の李氏の本名は「すもも」さんと訓読みであったと考えられる。また、唐と言う国名も皇帝自身は「から」と訓読みで呼んでいたのでは!(参考)


雑談2

玄宗皇帝が楊貴妃を愛しすぎて国が滅びたと言うのは、安禄山など唐を滅亡に向かわせた人々が主張しただけだ。玄宗皇帝も楊貴妃も同族で気質と価値観が一致したが、安禄山とは反りが合わなかっただけである。楊貴妃が死なずに日本に渡海したとの伝説は、同族の住む日本を目指したのであり、荒唐無稽なことでは無い(参考)。


雑談3

現在の日本史では、狩猟採取文化の縄文時代、粗末な竪穴式住居の弥生時代、そして墓が馬鹿でかい古墳時代までは未開のイメージで、その後、急に国風文化が飛び出してきたように理解されている。

実は日本の国風文化は3600年前の古代中国の殷から発生したと考えるべきである(参考)。天皇の太陽信仰は殷に遡る(参考)。漆の文化は縄文時代の日本列島から殷に渡った(参考)。

仮名文字も平安時代に発明されたと定説になっているが、日本に渡来する時期が遅かったと解すべきである(参考)。


雑談4

現在の隋や唐の文化に対するイメージが日本のものと異なる様に見えるのは、後代の漢民族の文化によって変容させられているからである。例えば皇帝の肖像画などは生存当時のものでは無く、後から漢風に描かれているためである。

古代中国の文化が日本にしっかりと残っているとの現代中国人の指摘(参考)は、その通りであった。


参考

①-1 楊貴妃を愛した唐の玄宗皇帝

玄宗皇帝、本名: 李隆基(wikiより)
玄宗皇帝(「歴代君臣図像」より/国立国会図書館蔵、コトバンクより)
玄宗皇帝(明代、参考)


①-2 唐王朝の李氏(wikiより)

唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ武川鎮軍閥の出身で、北魏北周以来の八柱国・十二将軍と称される鮮卑貴族のうち、八柱国の一家として隋によって唐国公の爵位を与えられていた。のちに、隋から禅譲を受けて新朝を立てるという易姓革命の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号とする。


②-1 隋の皇帝、煬帝

煬帝、本名: 楊広 (閻立本、wikiより)
閻立本は中国の初唐の画家である。太宗に仕え、貴族ではあるが宮廷画家として活躍した。人物図・肖像画を得意とする。雍州万年の人。母である清都公主が北周の第3代皇帝である武帝の娘である為、武帝の外孫、第4代皇帝宣帝の甥、第5代皇帝静帝の従弟にあたる(wikiより)。

煬帝(拡大)
煬帝(レコードチャイナより、参考)


②-2 隋の初代皇帝の楊堅(wikiより)

北周大将軍楊忠と呂氏の間に生まれた。楊氏は漢民族後漢楊震の末裔を称し、弘農郡華陰県(現在の陝西省渭南市)を本貫とした。しかし、漢族出身ではなく北方異民族の普六茹氏の子孫という説がある。


③-1 唐の玄宗皇帝に愛された楊貴妃は殷人の末裔で眼窩上隆起と福耳を持っていた(参考)

二尊院の楊貴妃


③-2 隋の皇帝は楊氏であるが、唐代の楊貴妃の一族と同祖であった(参考)、、、楊氏は漢の名家であるが異説もあり、漢民族ではなかった。また、殷王族の末裔の司馬氏と通婚して、西晋では司馬氏の外戚となっている(wikiより)。


④ 唐代の鑑真和上は殷人の末裔で眼窩上隆起と福耳を持っていた(参考)

鑑真和上(唐招提寺蔵)


⑤ 古代中国の思想家や皇帝や原初神や仙人達は髭が濃い縄文人と同族であった。しかし、現代の漢民族は髭が薄い(参考)。

孔子(wikiより)、殷人の末裔、濃い髭と福耳


⑥-1 北宋の皇帝、、、漢民族

第4代皇帝 仁宗(在位:1022年3月23日 - 1063年4月30日、wikiより)
仁宗(拡大)


⑥-2 明の皇帝、、、漢民族

第17代皇帝 崇禎帝 朱由検(在位 : 1627年10月2日 - 1644年4月25日、wikiより)
崇禎帝 朱由検(拡大)


⑦ 日本語の起源(参考)、、、秦帝国が中国を統一した頃、羌族、秦、斉、楚、宋などが日本語を喋っていた。遡って殷人が縄文人と同族で日本語を喋った(参考)。魏、西晋、隋、唐の皇帝も殷人の末裔で日本語が喋られていた。


⑧ 隋の皇帝の楊氏と唐の皇帝の李氏は鮮卑系、または唐の皇帝の李氏は拓跋系とする説があるが、契丹古伝(参考)によると鮮卑も拓跋も殷の末裔となり、縄文人と同族となる。また、鮮卑と日本は価値観を共有していた(参考)。

-------- 以下、wikiより

隋楊氏については「元々は鮮卑の出身で本来の姓が普六茹であり、北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊である」という説がある。また、唐李氏は鮮卑系であるとの見解が戦時中に日本の宮崎市定によって出され、以後日本学界ではこの考え方が定説となっている。森安孝夫は、「唐を拓跋国家とみなす学説は、日本の学界、さらに中国や欧米の学界では、どの程度認知されているのか?」という質問に対して、「唐の王族・李氏が拓跋出身であることを認めない者は、もはや世界中のどこにもいません。」と回答している。


⑨ 縄文人の末裔の殷人や秦人や日本人は眉が盛り上がった眼窩上隆起がある