恩地トミ、中山忠光卿の妻 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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明治維新のリーダー中山忠光卿の妻、ラストエンペラーの弟君の愛新覚羅溥傑の妻の浩の曽祖母の恩地トミの家について調べた。

赤間関で船宿を経営していたらしい。

恩地トミの実家は下関市赤間町の旧大坂屋の辺り(赤丸の中)

愛新覚羅社、中山神社境内

ラストエンペーの弟君、愛新覚羅溥傑ご家族(中山神社宝物殿にて)

中山忠光卿


参考

① 恩地トミ


「恩地トミ」の実家跡、大坂屋のすぐ傍にそれはある。幕末船宿として繁盛した「恩地家」

天誅組の変とは、幕末、天誅組は中山忠光を首領として蜂起した。彼らは五條の代官所を襲撃し東吉野で壊滅するまで、幕藩体制に武力で立ち向かった。

長州に逃れた中山忠光卿は長府藩潜伏中に、寵愛したのが侍妾恩地トミだった。忠光が暗殺された後に遺児仲子を出産し仲子は毛利氏の養女となり公家・中山家に引き取られた。維新後仲子は嵯峨公勝夫人となり、其の子浩は清朝最後の皇帝、満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟である溥傑に嫁いだ。

映画「ラストエンペラー」にもなった、激動の人生であった浩は、忠光の曾孫にあたる。

現在、中山忠光卿を祀る中山神社内の愛新覚羅社に愛新覚羅溥傑、浩、長女愛新覚羅慧生が祀られている。


② 恩地トミ母子の写真(参考)

先日来、講演で「中山忠光暗殺事件」について話しました。内容は事件そのものの経緯と事件後の周囲の動きに重点が分けられます。事件後といえば、忠光が長府藩の手で暗殺された当時、側女の恩地トミがみごもっていたこと、彼女の孫が満州国皇帝の弟愛新覚羅溥傑と結婚したことなどに話が発展します。

田中絹代監督作品『流転の王妃』では、恩地トミのことが、まったく省略されているので、それらを補足する意味もあって、すこしばかり力を入れました。愛新覚羅、中山両家の系図から恩地トミが消されているのは、トミが下関の商人の子であることを、貴族が嫌う理不尽な理由らしいので、ことさら協調しました。

念のため『下関市史』(旧版)の藩政期編を見ると恩地トミが赤ん坊の仲子(やがて嵯峨侯爵家に嫁す)を抱いた写真が載っているのです。やや不鮮明な写真ですが、眉目秀麗といったトミ女の風貌もしのばれるまことに貴重な写真です。よくぞこれを探し出して掲載してくれたと市史編集者に感謝したしだいですが、撮影者や出所があきらかにされていないのが残念でありました。しかし疑いの余地はないようです。

明治のはじめ下関の宮田町に富田重範という写真師がいたのを、稲荷町の大坂屋の当主木村義男さんから聞いたことがあります。幕末、長府藩報国隊の隊士として戊辰戦争に従軍し、北越の戦いで足を負傷して凱旋、下関で最初の写真店を開業しました。

重範の悲願は長府藩の殿様「毛利元周」の写真を撮ることで、それは叶えられたそうですから、長府にいた恩地トミ親子の写真も彼が写したものかもしれません。市史編集者は恩地家から入手したと思われます。ほんとうに貴重な写真を遺してくれた。重範さんにも感謝と言ったら、すこし騒ぎすぎですかな。

(古川 薫)


③ 恩地富美 おんち-とみ(コトバンクより)

1844-1903 幕末-明治時代の女性。弘化(こうか)元年生まれ。長門(ながと)(山口県)下関の船宿の娘。文久3年天誅(てんちゅう)組の変に敗れ長門に逃亡してきた首領中山忠光の寵愛(ちょうあい)をうける。元治(げんじ)元年忠光が暗殺されたのち,慶応元年遺児仲子(のちの嵯峨(さが)公勝夫人)を出産した。明治36年死去。60歳。名は登美,トミともかく。


④ 中山忠光卿と恩地トミの家系図(参考)



愛新覚羅社にて


⑤ 溥傑夫妻  友好のアサガオ(中山神社社務所にて)



⑥ 維新のリーダー中山忠光