先日より、尊攘派の青年公卿・中山忠光が暗殺された地、
本宮中山神社にある石碑をご紹介しております。
忠光については、
「中山忠光朝臣隠棲之地」の碑をご紹介した時、
「中山忠光朝臣遭難之処」の碑をご紹介した時にも
お話ししておりますが、
改めて、中山忠光に関してまとめておきたいと思いますo(^-^)o
まず、忠光本人についてです
(「中山忠光朝臣遭難之処」の碑をご紹介した時と同内容です。)。
忠光は明治天皇の母・中山慶子の弟、
すなわち、明治天皇の母方の叔父にあたります。
尊王攘夷運動に身を投じ、
1863年、久坂玄瑞率いる光明寺党の党首として、
外国船砲撃に参加します。
その後天誅組の主将として挙兵しますが、失敗。
長州に逃れ、各地を転々とします。
そして、最終的には、1864年に田耕の地で暗殺され、
19年7箇月の生涯を閉じるのです。
次に、「中山忠光朝臣隠棲之地」の碑をご紹介した時にも
お話ししましたが、
改めて、忠光の子孫についてご紹介します。
このたび家系図を作成してみました。
いつも貼り付けている画像の大きさだと
文字が小さくなってしまうので、
大き目の画像で掲載しています。
香淳皇后の祖先についても記載しているのには
実は、閑院宮載仁親王ゆかりの石碑が
下関市綾羅木の中山神社にあるそうだからなのですが、
それはいつかお話しできたらと思いますp(^-^)q
さて、忠光は、正室として、平戸藩主・松浦熈の娘・富子を
妻に迎えていたそうですが、
富子との間には子はありません。
しかし、長州での潜伏中に、
商家の娘・恩地トミ(登美)を側女としており、
そのトミとの間には娘・仲子(南茄)が生まれています。
仲子が生まれたのは、忠光が暗殺された翌年のことです。
その後、仲子は富子が育てることになりました。
明治3年(1870年)、萩毛利藩主・毛利元徳の養子となり、
後、トミと共に中山家に引き取られました。
そして、仲子は、明治16年(1883年)、
嵯峨家当主・公勝に嫁ぎます。
嵯峨家は天皇家とも近く、後に侯爵となった家柄です。
仲子と公勝との間に、嵯峨家を継いだ実勝がおり、
そして、その長女として生まれたのが、
後に「流転の王妃」と呼ばれる浩です。
浩は昭和12年(1937年)、
清最後の皇帝にして満州国皇帝であった
「ラストエンペラー」こと愛新覚羅溥儀の弟に当たる
愛新覚羅溥傑と結婚します。
しかし、終戦を満州で迎え、夫・溥傑とも離れ離れとなり、
各地を転々とすることになります。
終戦から2年後の昭和22年(1947年)に帰国。
溥傑と再開できたのは、昭和36年(1961年)のことでした。
その後は中国で暮らしています。
浩と溥傑との間に長女として生まれたのが愛新覚羅慧生です。
彼女は終戦を日本で迎えています。
大学生であった昭和32年(1957年)に、
天城山中で、同級生の男子大学生・大久保武道と共に
死体で発見されまました。
「天城山心中」と呼ばれた事件です。
最後に、嵯峨(正親町三条)家と天皇家との関係を示す
家系図も作成しましたので、お示ししておきます。
〔追記(平成30年10月10日)〕
掲載している2つの家系図について、
加筆したものを掲載いたしました。→こちら