日本には神代の天照大神に代表される太陽信仰や太陽暦があった。
これに対し、中国では太陽を信仰の対象としなかったし、太陽暦をも採用しなかったとされている。しかし、中国の殷(商)には10の太陽があったとする神話があり、死者が東向きに埋葬された例があり、太陽信仰があったことになる。
殷が滅亡した後を辿ると、殷の後裔は春秋・戦国時代の宋であった。この国は秦や斉と同族であったが斉に滅ぼされ、ついに秦に統一された。実は、ユダヤ、羌族、秦、日本に太陽暦があったことが知られている。
この春秋・戦国時代の間に滅亡した国の民が順次、日本列島に渡来して弥生時代をつくったのであった。最後に統一帝国を作っていた秦が滅亡して漢民族の帝国の漢が成立すると、秦氏を代表とする非漢民族が日本列島に大挙して渡来してくることになる。そして、白村江の戦いの敗戦後の百済、高句麗そして新羅からの渡来人の受け入れまで続いたことになる。
雑談1
殷の最後の紂王の叔父箕子は朝鮮に渡り箕子朝鮮を建国したと中華人民共和国では主張されているが、中国人によって朝鮮が建国されたことになってしまうため、韓国側は檀君朝鮮こそ初の王朝であり箕子朝鮮は単なる後世の創作であると主張している(wikiより)。
この箕子朝鮮は殷の末裔による建国であるので、中国人と言っても漢民族ではなく、まして、根拠の無い檀君朝鮮とは何ら関連がないことになる。
雑談2
参考
① 殷の王位継承と太陽信仰(wikiより)
殷の王位継承について、史記を著した司馬遷は、これを漢の時代の制度を当て嵌め(漢の時代になると、いくつかの氏族で君主権力を共有することなど考えられなかった)、親子相続および兄弟相続と解釈したが、後年の亀甲獣骨文字の解読から、基本は非世襲で、必ずしも実子相続が行われていたわけではなかったことが判明した。殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている。
仮説によると、殷王室は10の王族(「甲」〜「癸」は氏族名と解釈)からなり、不規則ではあるが、原則として「甲」「乙」「丙」「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4つの氏族の間で、定期的に王を交替していたとする。それ以外の「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの氏族の中から、臨時の中継ぎの王を出したり、王妃を娶っていたと推測される。
上記と関連して、殷の王族は太陽の末裔と当時考えられており、山海経の伝える10個の太陽の神話は、殷王朝の10の王族(氏族)の王位交替制度を表し、羿(ゲイ)により9個の太陽が射落されるのは、一つの氏族に権力が集中し強大化したことを反映したものとする解釈もある。
殷王家は太陽神の末裔を名乗り太陽崇拝を行っていました。代々の王の諡(おくりな/死者に贈る称号)には当時信じられていた日ごとに順番に昇る10個の太陽の名前、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸が必ず含まれています。
ある貴族の墓からは2頭立ての戦車が馬ごと殉葬者とともに発見されました。戦車は整然と並びすべて太陽の昇る東の方角を向いていました。
③ 中国の太陽信仰(wikiより)、、、太陽信仰は無いとされている。
④ 殷の滅亡後(wikiより)
⑤ 春秋時代の国々の勢力図(参考)
春秋時代における宋(殷の後裔)、斉、楚、秦などは同族(Y-DNAハプログループD2、参考)の国であり、滅亡した殷と同族となる。そして、戦国時代を経て、紀元前207年の秦の滅亡後に日本に渡来することになる。西戎と見なされた羌族(ハプログループD1)も同族である。
⑥ 日本の神話の皇祖神、天照大神が太陽神(wikiより)
⑦ ユダヤ、羌族、秦、日本に太陽暦があったが、中国には太陽暦は普及したかった(参考)。
⑧ 日本語の起源(参考)、、、渡来人の秦氏などがY-DNAハプログループD2であり、日本語を喋っていた。
⑨ 現在の天皇陛下が、殷で行われていた亀卜の儀式を今でも行なっている(参考)。
10 殷の貨幣は貝の一種のタカラガイであったが、同時代の縄文人もタカラガイを装飾品として珍重して、台湾・沖縄あたりから輸入していた(参考)。
11 漆の文化は縄文時代の日本から殷に伝わった(参考)
12 漢字の起源、、、殷の甲骨文字が漢字の起源であった