日本近海では、台湾、琉球諸島が主要な分布範囲のようですね。
”古代中国では、同属のハナビラダカラとともに貝貨に多く使われており、貝殻の背面を削り取って大きな穴を開けたものが流通した。この穴からは中の幼殻や殻口が縦線として見えるため、「貝」の象形文字は貝貨を横倒しにした形に由来するとされる。”
(以上Wikipediaより)
通貨として使用されたキイロダカラガイには、大きな穴が開けられていたようです。「貝」の漢字の由来も、なるほどといったところですね。
さて、このキイロダカラガイの産地についてです。熊本大学文学部教授の木村尚子氏が、詳細な研究をしていますので、紹介します。「琉球列島間のタカラガイ需要・供給に関する実証的研究-新石器時代から漢代まで-」より
”本研究は、古代中国において威信財ならびに貨幣として流通したタカラガイを対象に、その消費地、産地、流通経路を明らかにし、東アジアにおけるタカラガイ産地である琉球列島との関係を探ることを目的にした日本と中国の、また考古学と貝類学の共同研究である。中国社会科学院考古研究所ならび青海省文物考古研究所と共同で、4年間の研究を進め、安陽殷墟を中心に、合計32遺跡、183遺構(うち墓は176)で出土したタカラガイ21993個を実見し、11142個をデータ化した(大きさ、加工の程度、磨耗の程度など)。その結果以下が明らかになった:
1.中国新石器時代から商周代において、海産貝類を威信財に用いる習俗は黄河流域に集中する。
2.黄河流域に認められる貝類は、2綱18科67種におよび、その9割以上がタカラガイである。
3.安陽殷墟で出土した貝類約1万個のうち、8割弱は現在の台湾、南中国海、琉球列島などの熱帯海域に生息するもので、2割弱は南中国海から東中国海に生息するもので占められている。
4.出土貝類の組成分析を踏まえると、これらがインド洋経由でもたらされた可能性は低い。
5.山東半島に、安陽殷墟と同様の貝類組成をもつ商周代の遺跡があり、貝殻の出土状況の検討から、この地の人々が中原への貝類流通に関わっていた可能性が高い。
6.中原で消費されたタカラガイは、台湾を含む中国東南沿岸域で採取され、山東半島を通って黄河流域にもたらされた可能性が高い。
7.中国においてタカラガイの消費量が増大する商周代併行期、台湾や琉球列島で玉加工品やこれに関わる製品が流行する。これはタカラガイの採取を目的として移動した人々の動きを反映する可能性がある。 ”
ポイントとしては、
・商(殷)・周時代の貝貨は、黄河流域に集中しており、その9割がタカラガイである。
・そのタカラガイは、台湾、南中国海、琉球列島に棲息するもので、山東半島を経由して、黄河流域の殷・周に運ばれた。というところです。
注目の具体的産地ですが、木村氏の別論文によると、”東南部海域(澎湖諸島を含む中国南部沿岸・台湾)で、ここから琉球列島や中国東海岸沿いに北上して、東部海域(渤海・黄海・長江以北の東中国海)から 山東をへて中原の<殷>中心地に運ばれたと考えられる。”としてます。(『中国古代のタカラガイ使用と流通、その意味-商周代を中心に-』2003年より)
このルートを、図にしました。いわば「貝の道」です。
長野県立歴史館考古資料課 川崎保(平成17年11月26日、参考)
川や湖(陸水)で産出しない貝類は当然、海からもたらされたものである。今のところ草創期の様子はよくわからないが、早期(表裏縄文土器を早期にいれて)北相木村栃原(とちばら)岩陰遺跡から多くの海産貝が出土している(タカラガイ、ハマグリ、ハイガイ、ツノガイ、イモガイなど)。これらの貝にはベンガラ(酸化第二鉄の顔料)が付着したものや意図的に穿孔されたものがあることが知られていて、単なる食用というよりは装身具の可能性が高いと指摘されている。
同様に高山村湯倉(ゆぐら)洞穴遺跡からも早期から晩期の海産貝が出土していて栃原の状況を分析する上で、参考になる。やはり食用というよりは、おもに希少価値のある装身具的な役割を果たしていたのだろう。
まず、最初に注目しているのが、タカラガイの形を模した土製品の存在である。タカラガイそのものが長野県内に持ち込まれていることも驚きであるが、その形をした土製品が作られていることに、タカラガイの形自体が意味を持っていることを示唆している。
タカラガイ形土製品(長野市旭町遺跡)全国で5例だけ。中期後葉。
タカラガイ文様の土器(松本市大村塚田遺跡)、有孔鍔付土器。中期後葉。
タカラガイの形が何を意味しているのだろうか。タカラガイそのものは実は縄文時代の東日本全体からかなり出土しているのだが、なかなかどのように用いられていたかがわかる例はない。穿孔されていたり、輪切りにされていたりするので装身具として用いられていたことが推測されている。時代は下るが中国や日本では安産や子孫繁栄の象徴として子安貝とも呼ばれている。
ただ、注目すべきは、タカラガイ(とくにキダカラガイ)は中国では貝貨と言って、貨幣として殷周時代から用いられていたことが知られている。今でも、経済や金銭に関係する者に貝偏がついているのは、そのためである。寶、財、貸、賣、買、貴、賄、賂、賦、貢、賭、贈、賑…。ただ、本来殷も周も中国中原(黄河中流の平原地帯)を根拠とする王朝なので、海岸部から輸入していた。騎馬民族征服王朝説で有名な江上波夫先生に、タカラガイの研究がある。中国中原の殷や周がタカラガイを求めて、海に進出したときに、琉球諸島などにたどり着いたのが、日本列島との交流の最初のきっかけとなったのではないかと…。
殷は紀元前16世紀~11世紀、周は紀元前11世紀~256年の王朝なので、縄文時代から弥生時代の始めの方にかかる年代であるが、これは、検討に値する課題である。
貝貨はタカラガイを輪切りにして束ねて使っていたのだが、この形は、偶然なのか縄文のタカラガイやタカラガイ土製品にも「輪切り」のものが一定量存在している。さらに近年の中国の研究によると、中国新石器時代にすでにタカラガイが内陸部に多量に持ち込まれていたことが判明しているので、殷や周といった都市国家成立以前にすでに中国大陸でも海岸部と内陸部とでタカラガイが交易の対象となっていたこともわかる。
さて、日本列島でタカラガイが装身具として使われ始めたのは約9000年前頃縄文時代早期(栃原岩陰など)であるので、この時代には中国新石器時代でも交易品として大規模に流通していたかはよくわからない。
ただ、信州の遺跡に見られるように縄文時代中期後半から後期前半に東日本で、タカラガイ形土製品がはやりだすが、これはおおよそ約4000年前なので、中国新石器時代でも流通していた時期のようだ。(輪切りの土製品もある)
本来は、性的な意味からか子孫繁栄の象徴だったものが、徐々に貨幣に変化していったのだが、江上がいうようにその中国大陸の海岸部と内陸部の大規模な交易の一端に日本列島の一部がかかわっていた可能性を考えてみる必要がありそうだ。
③ 巨大「貝貨産業地帯」沖縄文化圏(参考)
※出典:加治木義博:言語復原史学会