殷(商)人は日本の縄文人と同じ趣味を持っていた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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中国大陸では、殷、周の時代から、貝、特にタカラガイを貨幣として使っていたことが知られている。貨幣に関する漢字に貝が付属するのは、その為である。そのタカラガイは、台湾、南中国海、琉球列島に棲息するもので、山東半島を経由して、黄河流域の殷・周に運ばれた。

日本列島では、タカラガイが装身具(、及び貨幣)として使われ始めたのは約9000年前頃縄文時代早期からであった。縄文時代中期後半から後期前半に東日本でタカラガイ形土製品がはやりだすが、中国の新石器時代にあたる約4000年前の殷でタカラガイが貨幣として流通し始めた時期にあたる。

そのタカラガイの供給源は台湾から沖縄あたりであり、ここから中国大陸と日本本土に向けてタカラガイを輸出していたことになる。

すなわち、元々は約9000年前から沖縄あたりから日本本土に装身具としてタカラガイを輸出していた。これに対し、おおよそ4000年前頃から中国大陸の殷に向けて貨幣用として輸出し始めると、タカラガイの産出量は当然限られており、日本本土への割り当てが減ったと考えられる。当然、日本本土では代わりにタカラガイ形土製品が作られることになったようだ。

中国大陸の殷の民は実は縄文人(山の民、Y-DNAハプログループD2、参考1参考2参考3参考4)であり、日本本土の縄文人と同じ価値観や趣味・嗜好を持ち、タカラガイに対して現代の金やダイヤモンドと同じ魅力を感じて、装身具や貨幣にしたと考えられる。このタカラガイの採取・運搬を引き受けたのが縄文人(海の民、海人族安曇氏、Y-DNAハプログループC1、参考)と考えられる。

後期旧石器時代からの海の民の交易ネットワークは日本列島と中国大陸を既に結んでおり、お客さんも乗せたと考えられる。すなわち、航海のノウハウの無い山の民であっても、自由に渡海できたと考えられる。


参考

① 日本人は、どこからやってきたのか?(20) ~ 古代「貝の道」があった!(抜粋)

日本古代史つれづれブログ(2017.4.1、参考)

皆さんも、学生時代の歴史の授業で、”古代、貨幣ができる前は、「貝」が貨幣の役割を果たしていた。”と習いましたよね。

当時私は、これを聞いたとき、不思議に思ったものです。「貝などというものは、海にいけばいくらでも手に入るはずだ。実際、貝塚など貝だらけではないか。そんなものが、何で貨幣として使われていたのだろう。価値がないではないか。」と。これは極めて自然な疑問ですが、これに対する答えは、簡単です。「その近辺では絶対に手に入らない、極めて貴重な貝を使っていた。」ということです。

では、「その貝は、どの産地のものだったのか?」です。古代中国では、今から三千年以上前の殷、周の時代から、貝を貨幣として使っていたことが知られています。だから、お金に関する漢字には、必ず「貝」がつきます。貨幣の「貨」、財産の「財」、買うの「買」など、数多くありますね。

その殷、周の遺跡から、多くの貨幣として使用されたと考えられる「貝」が、多量に出土してます。その「貝」の大半が、タカラガイです。そのなかでも特に、キイロダカラガイが珍重されたようです。

ここでキイロダカラガイですが、”インド洋と太平洋の熱帯・亜熱帯海域に分布する。西は南アフリカ、南はオーストラリア北部、北は南日本やハワイ諸島、東は南北アメリカに程近いガラパゴス諸島やクリッパートン島まで、分布域は広い。日本での分布域は、日本海側で山口県以南、太平洋側で房総半島以南である。浅い海のサンゴ礁や岩礁に生息し、転石等の物陰に潜んでいる。”



日本近海では、台湾、琉球諸島が主要な分布範囲のようですね。


”古代中国では、同属のハナビラダカラとともに貝貨に多く使われており、貝殻の背面を削り取って大きな穴を開けたものが流通した。この穴からは中の幼殻や殻口が縦線として見えるため、「貝」の象形文字は貝貨を横倒しにした形に由来するとされる。”


 (以上Wikipediaより)


通貨として使用されたキイロダカラガイには、大きな穴が開けられていたようです。「貝」の漢字の由来も、なるほどといったところですね。


さて、このキイロダカラガイの産地についてです。熊本大学文学部教授の木村尚子氏が、詳細な研究をしていますので、紹介します。「琉球列島間のタカラガイ需要・供給に関する実証的研究-新石器時代から漢代まで-」より


”本研究は、古代中国において威信財ならびに貨幣として流通したタカラガイを対象に、その消費地、産地、流通経路を明らかにし、東アジアにおけるタカラガイ産地である琉球列島との関係を探ることを目的にした日本と中国の、また考古学と貝類学の共同研究である。中国社会科学院考古研究所ならび青海省文物考古研究所と共同で、4年間の研究を進め、安陽殷墟を中心に、合計32遺跡、183遺構(うち墓は176)で出土したタカラガイ21993個を実見し、11142個をデータ化した(大きさ、加工の程度、磨耗の程度など)。その結果以下が明らかになった:


1.中国新石器時代から商周代において、海産貝類を威信財に用いる習俗は黄河流域に集中する。

2.黄河流域に認められる貝類は、2綱18科67種におよび、その9割以上がタカラガイである。


3.安陽殷墟で出土した貝類約1万個のうち、8割弱は現在の台湾、南中国海、琉球列島などの熱帯海域に生息するもので、2割弱は南中国海から東中国海に生息するもので占められている。


4.出土貝類の組成分析を踏まえると、これらがインド洋経由でもたらされた可能性は低い。


5.山東半島に、安陽殷墟と同様の貝類組成をもつ商周代の遺跡があり、貝殻の出土状況の検討から、この地の人々が中原への貝類流通に関わっていた可能性が高い。


6.中原で消費されたタカラガイは、台湾を含む中国東南沿岸域で採取され、山東半島を通って黄河流域にもたらされた可能性が高い。


7.中国においてタカラガイの消費量が増大する商周代併行期、台湾や琉球列島で玉加工品やこれに関わる製品が流行する。これはタカラガイの採取を目的として移動した人々の動きを反映する可能性がある。 ”


ポイントとしては、


・商(殷)・周時代の貝貨は、黄河流域に集中しており、その9割がタカラガイである。


・そのタカラガイは、台湾、南中国海、琉球列島に棲息するもので、山東半島を経由して、黄河流域の殷・周に運ばれた。というところです。


注目の具体的産地ですが、木村氏の別論文によると、”東南部海域(澎湖諸島を含む中国南部沿岸・台湾)で、ここから琉球列島や中国東海岸沿いに北上して、東部海域(渤海・黄海・長江以北の東中国海)から 山東をへて中原の<殷>中心地に運ばれたと考えられる。”としてます。(『中国古代のタカラガイ使用と流通、その意味-商周代を中心に-』2003年より)


このルートを、図にしました。いわば「貝の道」です。



コメント: 山東半島付近を経由地とするのは殷人の勢力範囲と関係し、揚子江から南部は河姆渡文明に関わる稲作農耕民(呉・越の民、Y-DNAハプログループO2)の勢力範囲にあった。


② 海にあこがれた信州の縄文文化(抜粋)

長野県立歴史館考古資料課 川崎保(平成17年11月26日、参考)


海の貝

川や湖(陸水)で産出しない貝類は当然、海からもたらされたものである。今のところ草創期の様子はよくわからないが、早期(表裏縄文土器を早期にいれて)北相木村栃原(とちばら)岩陰遺跡から多くの海産貝が出土している(タカラガイ、ハマグリ、ハイガイ、ツノガイ、イモガイなど)。これらの貝にはベンガラ(酸化第二鉄の顔料)が付着したものや意図的に穿孔されたものがあることが知られていて、単なる食用というよりは装身具の可能性が高いと指摘されている。


同様に高山村湯倉(ゆぐら)洞穴遺跡からも早期から晩期の海産貝が出土していて栃原の状況を分析する上で、参考になる。やはり食用というよりは、おもに希少価値のある装身具的な役割を果たしていたのだろう。


タカラガイ

まず、最初に注目しているのが、タカラガイの形を模した土製品の存在である。タカラガイそのものが長野県内に持ち込まれていることも驚きであるが、その形をした土製品が作られていることに、タカラガイの形自体が意味を持っていることを示唆している。


タカラガイ形土製品(長野市旭町遺跡)全国で5例だけ。中期後葉。


タカラガイ文様の土器(松本市大村塚田遺跡)、有孔鍔付土器。中期後葉。


タカラガイの形が何を意味しているのだろうか。タカラガイそのものは実は縄文時代の東日本全体からかなり出土しているのだが、なかなかどのように用いられていたかがわかる例はない。穿孔されていたり、輪切りにされていたりするので装身具として用いられていたことが推測されている。時代は下るが中国や日本では安産や子孫繁栄の象徴として子安貝とも呼ばれている。


ただ、注目すべきは、タカラガイ(とくにキダカラガイ)は中国では貝貨と言って、貨幣として殷周時代から用いられていたことが知られている。今でも、経済や金銭に関係する者に貝偏がついているのは、そのためである。寶、財、貸、賣、買、貴、賄、賂、賦、貢、賭、贈、賑…。ただ、本来殷も周も中国中原(黄河中流の平原地帯)を根拠とする王朝なので、海岸部から輸入していた。騎馬民族征服王朝説で有名な江上波夫先生に、タカラガイの研究がある。中国中原の殷や周がタカラガイを求めて、海に進出したときに、琉球諸島などにたどり着いたのが、日本列島との交流の最初のきっかけとなったのではないかと…。


殷は紀元前16世紀~11世紀、周は紀元前11世紀~256年の王朝なので、縄文時代から弥生時代の始めの方にかかる年代であるが、これは、検討に値する課題である。


貝貨はタカラガイを輪切りにして束ねて使っていたのだが、この形は、偶然なのか縄文のタカラガイやタカラガイ土製品にも「輪切り」のものが一定量存在している。さらに近年の中国の研究によると、中国新石器時代にすでにタカラガイが内陸部に多量に持ち込まれていたことが判明しているので、殷や周といった都市国家成立以前にすでに中国大陸でも海岸部と内陸部とでタカラガイが交易の対象となっていたこともわかる。


さて、日本列島でタカラガイが装身具として使われ始めたのは約9000年前頃縄文時代早期(栃原岩陰など)であるので、この時代には中国新石器時代でも交易品として大規模に流通していたかはよくわからない。


ただ、信州の遺跡に見られるように縄文時代中期後半から後期前半に東日本で、タカラガイ形土製品がはやりだすが、これはおおよそ約4000年前なので、中国新石器時代でも流通していた時期のようだ。(輪切りの土製品もある)


本来は、性的な意味からか子孫繁栄の象徴だったものが、徐々に貨幣に変化していったのだが、江上がいうようにその中国大陸の海岸部と内陸部の大規模な交易の一端に日本列島の一部がかかわっていた可能性を考えてみる必要がありそうだ。



③ 巨大「貝貨産業地帯」沖縄文化圏(参考)


※出典:加治木義博:言語復原史学会

日本国誕生の秘密 106~108頁
㈱徳間書店


沖縄は世界最大の「貨幣」生産国だった時代が、縄文時代から7世紀ごろまで続いていました。

その貨幣とは「宝貝」のことなのです。

しかし日本でも8世紀初めに「和銅」が生産されるほどに金属貨幣が普及すると、もう貝貸は開発の遅れた深い山地に隔離されて住む人たちぐらいしか、使わなくなってしまいました。


 この海の民は太平洋に拡散するポリネシア人にもなって(参考)、ついには南米まで到達することになる(参考)。


⑤ 日本列島の内陸部に上陸した海の民もあり、長野県の安曇野市が典型的な上陸地であった(参考).。


⑥ 約3万年前の後期旧石器時代あたりから既に、海の民は神津島などの黒曜石を日本海を越えて中国大陸北東部にまで輸出していた(参考)。