山の民と海の民と鹿 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

旧石器時代から縄文時代は、日本列島近辺の人々は狩猟採集の生活を行っていたと考えられている。山の民は鹿などを狩猟して、そして海の民は漁撈に従事して生活の糧とした。

彼らは、それぞれ自給自足の生活をしていたと現代人の著者は誤解していた。それどころか、実はそうでは無かった。互いに交易をしていた。鹿の角は固くて丈夫なため、石器づくりのハンマーの他、骨角器と呼ばれる釣針やヤス・モリなどの漁撈具として活用された。鹿の毛皮は、当然、山の民の衣服となったが、海の民がルーツの山伏は腰に鹿の毛皮をつけたように海の民の衣服にもなった。これに対し、海の民は鹿の対価として石器の材料としての日本列島の黒曜石を山の民に供給したのであろう。

東国を開発した百済からの渡来人の祖先である扶余族や彼らの祖先は東アジアの鹿を狩猟する山の民であり、そして鹿の角を信仰する海人族安曇氏は日本列島の周辺海域を活動する海の民であった(参考)。すなわち、旧石器時代以来、彼ら山の民と海の民は鹿と黒曜石を通じて共生していたことになる。

日本では色々な動物を神の使いとして信仰したが、旧石器時代以来、異なる出自の民族である山の民と海の民が共通して信仰した鹿は特別な存在であった。


参考

① 考古学からみたシカとヒトとの関係

見験楽学(参考)

地底の森ミュージアムで保存・展示している富沢遺跡からは、2万年前の旧石器時代の人間・植物・動物の痕跡がまとまって発見されました。

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▲富沢遺跡で発見されたシカのフン

動物の痕跡としては、写真のような丸くて黒いものが発見されたのですが、これが何だか分かりますか?50~100個くらいがまとまっており、発見された当時も何だかよく分からなかったようで、よく考えると動物のフンの可能性が考えられました。そこで、現在生息している色々な動物のフンの大きさや形と比べてみたところ、どうやらニホンジカのフンの形に似ているということがわかりました。おそらく、ここ富沢周辺にも2万年前にはシカなどの動物がたくさん生息していて、旧石器時代人の絶好の狩猟対象だったことでしょう。

では、ヒトとシカは、歴史上いったいどのような関係を保ってきたのでしょうか?ここでは、ヒトとシカの関係について、考古学でわかる部分を少しだけご紹介していきたいと思います。

旧石器時代と縄文時代は、狩猟採集の生活を行っていたと考えられていて、シカも当然狩猟の対象だったことが、貝塚などの遺跡から出てくる骨で分かります。また、シカの角は固くて丈夫なため、石器づくりのハンマーや骨角器と呼ばれる釣針やヤス・モリなどの漁撈具として活用されてきました。食糧や道具として、彼らの生活とは切っても切れない密接な関係だったことがわかります。ちなみに狩猟民である縄文人が粘土で造形する動物は、イノシシやクマが多いようです。

では弥生時代になると、ヒトとシカの関係はどのように変化するのでしょうか?弥生時代になると、中国大陸から稲作が伝わって来ることで、ヒトの移動や文化も中国や朝鮮半島の影響を強く受けるようになります。こういった文化の変化にあわせて、新たな信仰の対象としてシカが注目されるようになりました。土器や銅鐸などにシカの絵がたくさん描かれるようになります。それはなぜでしょうか?

現在も様々な場所で、神事として「鹿の角切り」が行われていますが、その主な目的は五穀豊穣を祈ったものが多く、秋に行われます。シカの角は秋に落ちて春先に生え代わるという特徴を持っていますので、その様子は発芽から収穫までの稲の成長と同じと考えられていたようです。

狩猟の対象から、神事の神様へ。弥生人も現代人と同じ農耕民ですので、シカ信仰の原点は弥生時代まで遡ることができるようです。

こういった時代の変化とともに変化するヒトと動物の関係を見ていくと、シカだけではなく他の動物でも面白いことが言えるようです。みなさんも、ぜひイヌやネコなどの身近な動物の歴史を調べてみてはいかがでしょうか?

次回は、歴史民俗資料館からの予定です。どんな動物に関するレポートかお楽しみに。

地底の森ミュージアム(仙台市富沢遺跡保存館)  佐藤 祐輔


②  天理参考館、3階の常設展示室日本考古コーナーの「東日本大震災復興支援展」の展示替えをしました(参考)

この展示は、2011年7月から2階と3階の常設展示の一部を使って行っているもので、当館が所蔵する東北地方ゆかりの品々を紹介することで、この地方に対する理解を深め、心を寄せて頂くことを願うものです。

3階の考古美術展示室  日本コーナーで展示しているのは、岩手県と福島県から出土した、主に縄文時代の遺物です。岩手県の大船渡市と陸前高田市、福島県の双葉町や浪江町、大熊町、飯舘村などの、報道でよく耳にする地名が並びます。展示資料の大半は、浪江町在住であった故桧野照武氏が昭和初期に遺跡を巡って拾い集めた品々であり、当館には昭和30年代に収蔵されました。

今回展示したのは、いずれも東北地方の縄文時代晩期を代表する貝塚である、岩手県大船渡市下船渡貝塚出土の石器や土偶、鹿の骨で作った漁具などと、福島県いわき市寺脇貝塚出土の土器や石器、鹿角で作った漁具や工具類です。特に寺脇貝塚の出土品では、鹿角製の斧や鯨の骨を刀の形に加工した祭りの道具など、国内でもいわき地方にしか見られない道具を展示しました。

割れてしまっている石器や傷がついた鹿角製品は、美しいものではありませんが、縄文人が工夫をかさねていろいろな道具を生みだし、暮らしていた証と言えます。この展示を通して、何千年にもわたって積み重ねられてきた東北地方の歴史の一端を知って頂ければ幸いです。

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③ 狩猟儀礼(しゅりょうぎれい、竹内利美、コトバンクより)

日本の狩猟は、個人的な「小狩猟」と、クマ、イノシシ、シカ、カモシカなどの大形獣を目がける「共同狩猟」(大狩猟)とに大別できるが、後者は主としてヤマダチ、マタギなどとよばれてきた専業的な山間の狩人(かりゅうど)団によって行われてきた。

「穴籠(ごも)り」のクマ猟などには近年まで槍(やり)や山刀が用いられてはいたが、しかし「弓矢猟」の形はすでに失せて久しく、いまは「銃猟」にまったく移行している。しかし「ヤミチ」(弾道)、「一の矢、初矢(そや)」(初弾)、「矢場」(銃の構え場)、「矢口祝」(初猟祝い)などの名称が残るように、かなり古い「狩り」の習俗がいまもみられ、特殊な呪術(じゅじゅつ)宗教的儀礼を幾多伴っている。

東北山地の狩人集落にはいくつかの「マタギ組」があって、「スカリ(シカリ)」とよぶ頭(かしら)(指揮者)に率いられてきた。おおむね5、6人の仲間でほぼ固定しており、猟期になると、一同「精進潔斎」のうえ長期間の山猟生活に移った。その行動範囲もかつては広く奥羽・信越の奥地に及び、山中に「小屋住い」を重ねて獲物を追い歩いた。「山ことば」という山中生活独自の「忌みことば」があり、また古い山の神信仰に基づく特異な「山中作法」も厳しかったようである。中部・九州山地の猟人団もほぼ同趣の山中生活を送ってきたようで、いくつか古い狩猟儀礼を近年まで残してきた。以下、省略


④ 海人と山伏(参考)

【海人】

海人が山に入って鉱物資源を探し、その探鉱者がやがて山伏に変化していった。

海の民は、商人であるとともに技術者集団でもあり、日本各地に富と知識をもたらした。かれらは水運を利用し、航海術に「山の地形を記憶すること」というものがある。すなわち、海から見た山の姿や山の重なり具合から現在地を割り出した。山は道しるべであり、山を導きの神とみた。また、「朱」を得るために海人は山に入って丹砂を探した。朱は船底の防腐塗料として海人がほしがった。

吉野の山は、仙境である特別な聖地である。吉野首(よしのおびと)の祖である「井光の子孫」は山伏になっていた。

【大陸と海洋の文化を持った人たちの足跡】

海人たちの山の信仰
吉野の蔵王堂には、巨大構造船を描いた巨大絵馬が掲げられている。渡来船大絵馬で1661年に奉納されている。船乗りたちは、海からみえる山を沿岸航行の目印とした。熊野灘の難所を航行する船は金峯山脈の南部、玉置山を航行の目印にしていた。熊野の海人たちは、海の安全を願い玉置山にのぼる。

山伏が吹くホラ貝
山伏が山中での連絡や獣除けに用いたり「魔除け」として儀式の前に吹きます。ホラ貝の音に呪力があるので、他の音では代用できません。ホラ貝は推進20mの海底に生息します。金峯山脈で吹かれるホラ貝は遥か南方の海から運ばれてきたといいます。修験道とは海人が介入する宗教であるようです。

山伏は腰に鹿の毛皮をつける。
山伏は腰に鹿の毛皮をつける。中世では鹿皮を背につけ、鹿角をつけた杖を手にして諸国を巡る聖がいた。鹿の皮には霊力が宿っていると考えられていた。殺生しても良いのか?鹿は神の使い出はないのか?と不思議に思う。その由来は、「応神紀」に「応神天皇が淡路島で遊猟していた時に、数十頭の鹿が海を泳いでいるのを見て調べさせたところ、角をつけた鹿の皮をきた人間だった。」という。水着のかわりか?それは海人だった。

・吉野の古墳
漁具を副葬した墓などもあり、大陸と海洋を暗示する物も出土している。大陸と海洋の文化を持った人たちの足跡がみえてくる。


⑤ 鹿島神宮と鹿(参考)

鹿島神宮の祭神である武甕槌命ところに、天照大神から使者が来て、「香取神社(千葉県佐原市)の祭神、経津主命と共に出雲の国へ行って、大国主命に、出雲国を自分(天照大神)に譲るように説得してきなさい」とのことだった。

この時の天照大神の使者、天迦久神は、鹿の神霊だったとされ、これに因んで、鹿島神宮の神使は鹿とされるようになった。

神社名(地名)も
「香島」が「鹿島」になった

なお、武甕槌命、経津主命は共に「剣の神」(武神)で、出雲国に出向いての強談判
の結果、大国主命に「国譲り」をさせることに成功した。


⑥ 『造田八幡神社』、香川県さぬき市(参考)

由緒書きには、祭神、和多須美命(ワタスミノミコト)と書かれてある。『豊玉姫父命ニ座ス』とあるので、綿津見/海神(ワタツミ)さまのことだろう。

ワタツミといえば、阿曇族の祖神だったか。つまり、また 和邇氏 の流れというわけだ。粟田・和邇・藤原を調べていると頻繁に 阿曇という言葉が出てくる。それと同時に "志賀島" という言葉を何度も目にした。はじめて聞く名前だったが、九州にある島で "しかのしま" と読むようだ。

阿曇氏(あずみし)の本拠であり、その島では、海の神「綿津見神」が祭られるとともに、鹿を信仰の対象としているという。

志賀=鹿というわけか。あるサイトには、こうある:

常陸の鹿島神宮では鹿を神の使いとする。祭神の武甕槌命へ鹿神である天迦久神が 天照大御神の命を伝えにきたことに由来するという。


また、武甕槌命を祀る藤原氏による 奈良の春日大社の創建に際し神霊を白鹿の背に乗せ、一年をかけて奈良まで運んだとされる。ゆえに春日大社でも鹿は神の使いとなっている。


「八幡宮御縁起」「磯良と申すは筑前国、鹿の島の明神のことなり。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、これみな一躰分身、同躰異名にて。」とある。磯良は「阿曇磯良」で、阿曇氏の祖神とされる。この磯良が藤原氏の祖神武甕槌命と同一神であるという。


また、磯良が舞ったという「細男舞」が、春日若宮神社の例祭「おん祭」舞われている。


志賀島と鹿島神宮、春日大社の鹿の話がここで繋がる。



⑦ 中国東北部の鹿(参考)

中国では世界最大の鹿養殖国であり、全国で梅花鹿の頭数は12.7万頭、年産梅花ロクジョウ8.6トン、馬鹿の頭数は6.8万頭、年産馬鹿ロクジョウは4.5トン。その中の4割が香港に経由して韓国やカナだ、アメリカなどの国々に輸出している。

鹿という動物は寒冷気候が好きで、昔から中国東北地方、特に長白山地区が梅花鹿や馬鹿の養殖中心地であり、東北三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)の養殖頭数は全国総頭数の6割を占めている。


⑧ 黒曜石、石斧の材料

日本列島産の黒曜石は、日本海を越えたロシア沿海州のウラジオストック・ナホトカ周辺の18,000年前の遺跡や朝鮮半島からも見つかっている。

当時、寒冷化で海水面が下がり日本列島と大陸が徒歩で通行出来たとの説もあるが、神津島の様に舟が不可欠な所もあり、海の民が大陸と日本列島を行き来したと考えている。