原日本語の故郷と春日大社の鹿 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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原日本語は東アジア全体に広がっていたことは述べたが(参考)、その故郷(発祥の地)はどの辺りかはよく分からなかった。北方由来の膠着言語に南方由来の語彙が多く含まれたものが原日本語であろうとすることは既に定説になっている。これを明らかにするヒントが春日大社などにいる鹿であった。

神社の中を気ままにうろついている鶏はよく目にする。神聖な生き物として大切にされている。鶏は農業に危害を及ぼす害虫を食べてくれる動物であり、天照大神を天の岩戸から出て頂くために鳴いた動物も鶏であった。

ところが、奈良の春日大社、茨城の鹿島神宮、広島の厳島神社は野生の鹿が聖獣とされている。

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春日大社の鹿

海人族安曇氏(漁師のルーツ)が信仰する神社の総本宮である福岡の志賀島(しかのしま)にある志賀海神社(しかうみじんじゃ)では鹿の角が奉納されている。

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博多湾口の志賀島の志賀海神社の鹿角堂の中の鹿の角(神功皇后が対馬で鹿狩りして奉納したと説明されている)

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志賀海神社の鹿角堂

そして、志賀島の志賀海神社の氏子の海人族安曇氏が開拓した鹿島(かしま、茨城県)に、後に入植した百済人達が神聖な鹿を放し飼いした鹿島神宮を造営した(参考)。さらに百済人の一派の藤原氏の春日大社や厳島神社に鹿が移された。この鹿を神聖視する百済人のルーツは朝鮮半島よりさらに北の地域に居住した扶余族であり、この扶余族が鹿を神聖視した。

議論を言語学的研究に移すと、後期旧石器時代の原日本語のルーツは日本海を囲むようなエリアにあり、北東アジアの山の民の言語に連なる膠着語を骨格に、南方のスンダランドから北上した海の民(海人族安曇氏、現在の漁師さん)の語彙を多く含んだ言語として原日本語が出来上がったと考えられている。また、考古学的研究によれば、東アジアの新石器時代の遺跡からは日本列島の縄文土器と同じ物が出土することが指摘されている。

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後期旧石器時代の言語分布想定図(参考)、環日本海諸語に原日本語が含まれる。

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中国大陸の東部の新石器時代は縄文文化だった(参考)、緑の地点の遺跡で縄文土器が出土している。

すなわち、原日本語の故郷(発祥の地)では、鹿を神聖視した扶余族の祖先の山の民と、日本海を中心に周辺地域で活躍して鹿の角を神聖視した海人族安曇氏の祖先の海の民が鹿の角や毛皮と黒曜石の交換などで相互交流していた(参考)。そして出来たクレオール言語が原日本語となった。

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山の民の扶余族の先祖と海の民の海人族安曇氏の祖先が鹿と黒曜石を仲介に、相互交流して原日本語(百済系)を作った!

そして2、3万年かけて、東アジアの扶余族の祖先と同族の縄文人、秦、そして羌などの遊牧民に広がり、さらに江南の稲作農民にも広がったと考えられる。この原日本語が最終的に日本列島に渡来・集中して日本語になったことになる(参考)。

この扶余族の祖先の直系の子孫が百済人、高句麗人そして新羅人であり、百済人の話した言葉が現在の関西弁に相当するが、上代には8母音であったり(参考)、彼らのアクセント(京阪式アクセント)から東京式アクセントが出来たと言う説(参考)を納得させられる。

ただし、8母音の5母音化や京阪式アクセントの東京式アクセントへの変化は広大な東アジアにおいて生じ、日本列島に渡来してきた時には既に方言として並行的に存在したと考えられる(参考)。


雑談1
現在の朝鮮語のルーツは、さらに北隣の粛慎(から挹婁勿吉靺鞨)に由来しそうだ。朝鮮語も8母音以上を有し、何らか関連は否定出来ない。


雑談2
ここで述べた議論は関西弁(百済語)の故郷を明らかにしたに過ぎないのかも知れない。中国大陸内陸の羌族や秦の原日本語にまで、東海岸の言葉が影響したかどうかを未だ明らかに出来ていない。

ただ、秦とは仲良く共存しており交流があったと言えよう(参考)。

さらに、東海岸の多様な農林水産物は西方の内陸部の遊牧民にも魅力的であったはずである。春秋戦国時代の百家争鳴と呼ばれる学問文化の爛熟は東海岸の山東半島近くの斉(秦、百済、日本と同族)であったし、孔子も近くで誕生して儒教を創始した事実を見ても、東海岸から西方向への言語・文化の発展・伝播はあったと言える。


雑談3
原日本語の故郷としては以下の図のように想定される:

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橙色がここで議論した扶余から百済経由で日本に渡来した関西弁、黄色も同じく山の民と海の民から成立した日本列島内の縄文系の言葉、ピンクが秦氏+羌族の東アジアの言葉、水色が江南(揚子江)の北九州に渡来する稲作農民の言葉に、それぞれ相当する。


参考

① 鹿信仰(ヤフー知恵袋より)

神使としての鹿への信仰は日本各地にあります。中でも有名なのは春日大社・奈良公園、鹿島神宮ですがこれらの神社は「武甕槌命(タケミカヅチノミコト)」を主祭神にしています。この、武甕槌命が白鹿に乗ってやってきたと伝えられている事から、鹿を神のしもべとして位置づける事になったわけです。また、武甕槌命は日本有数の強大な氏族である藤原氏の氏神・守護神であるとされることも影響していると思います。

厳島神社も神鹿がいる事で有名ですが、主祭神は宗像三女神であり一見すると関係がありません。ですが、ここにも藤原氏が関係してきます。

厳島神主家は創健者とされる佐伯氏が代々神主家を勤めていましたが承久の乱で敗者となった後鳥羽上皇に味方してしまった為に、神官職へと降格され新たな神主家は藤原家が務めることになっています。

春日大社も鹿島神宮も厳島神社も日本各地に末社がありますので、こうした本社の慣習に倣った為に神鹿信仰も伝わっていったのではないかと私は思います。


② 志賀海神社の鹿の角(参考)

海洋の神「少童命」(わたつみのみこと)を祭神とする同社は万葉の昔から海上守護の神として信仰されている。祭神は綿津見三神で、左殿より仲津綿津神、底津綿津見神、表津綿津見神である。1月15日に古式神事「歩射祭」(ほしゃさい)が、また神事「山誉祭」が春秋二度執り行われています。

この他神幸行事(隔年)があり、いずれも県指定の無形文化財でる。また境内には国指定重要文化財の朝鮮鐘の他、境内には鹿の角一万本を納めた鹿角堂(しかつのどう)や万葉歌碑がある。


③ 扶余族と鹿(参考)

ハルピンは、古代、扶余国(プヨ国)の故地。『旧唐書』百済伝には「百済国、本亦扶余之別種」とあります。扶余→百済→日本。日本民族のルーツは、扶余(ハルピン)なのです。大昔、扶余族が黒竜江流域にいた頃、鹿は聖獣でした。「扶余」とはツングース語の鹿(ブヨ)の漢字表記。「扶余」とは鹿(ブヨ)のこと。扶余の子孫が百済。


④ 百済と扶余の関係(wikiより)

『唐会要』百済伝には「百濟者、本扶餘之別種、當馬韓之故地。其後有仇台者、為高麗所破、以百家濟海(百済とは、本は扶余の別種で、馬韓の故地にあたる。 その後裔に仇台なる者がおり、高句麗に国を破られ、百家で海を渡った。因って百済と号する)」とあり、百済の支配層は扶余族だったと見られている。百済の建国神話は系譜の上で扶余とつながりがあり、26代聖王538年遷都した後に国号を「南扶余」としたこともそれは窺える。


⑤ 扶余系部族連合(参考)

秦の始皇帝の大帝国が出現した紀元前3世紀、中国遼寧省から朝鮮半島の北部に扶余(フヨ)・高句麗・獩貊(ワイハク)・沃沮(ヨクソ)が登場するが、それらは扶余族を宗族とする同族系国家連合、いわば扶余系部族連合である。

扶余系部族連合は、粛慎国に帰属する穢(ワイ)族系部族の連合体で、獩族(ワイ)・貊族(ハク)・狛族(コマ)などが包含されていたものと想像するが、その連合体の王を出す主要部族が扶余族であり、扶余とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてたものと思われる。

古代中国大陸では、トーテムによって各自の帰属する部族を明示したが、扶余族は「鹿トーテム」部族だが、扶余系部族でも狛族(高句麗)のトーテムは「鳥」で、始祖神話に「南方系の卵生型」と「北方系の日光感精型」が混合していることから、北方の扶余系部族と南方の部族とが混血融合した部族だと思われる。


⑥ 秦の鳥トーテム(参考)

中国古代の秦王朝が卵生説話をもち、鳥トーテムをもつ部族であったらしいことは、中国神話の研究家白川静氏が指摘するところである。秦の卵生説話は『史記』の秦本紀に見え、その祖女脩が機織りをしていたとき、玄鳥(黒い鳥。一説に燕とされるが、それに限らないと思われる)が落とした卵を呑み、子の大業を生んだという。大業の子の大廉は鳥俗氏の祖であり、その玄孫の中衍は身体が鳥で人語をよくしたと記される。


⑦ 日本語の起源の現在、主流な説(wikiより)

日本語がアルタイ系言語と南島語の混合語起源とするものであるが、「混合」の定義・プロセスについては、論者の間で見解の相違がある。日本人の民族学人類学的な特徴が混合的なものであることは、古くから指摘されてきた所であるが、言語学者の間では日本語アルタイ起源説が19世紀以来、定説とみなされてきた。


⑧ 占いと鹿(wikiより)

古代日本で行われていた占いの一つに太占(ふとまに)があり、古事記や日本書紀その記述がある。この占いでは鹿の骨(卜骨 - ぼっこつ)を用いることが多く、鹿卜(かぼく)とも呼ばれる。具体的には鹿の肩甲骨(少数ながら肋骨や寛骨も)を焼き、その亀裂の形や大きさで吉凶を判断した。このため鹿は聖獣として扱われていた。


⑨ 扶余族(wikiより)

言語について定説は無く、混乱している。

その内の一説として、夫余語系説…比較言語学的研究により、『三国史記』所載の高句麗地名から抽出した高句麗語語彙が、ツングース系語彙よりも日本語や中期朝鮮語語彙に多く共通するとして、アルタイ祖語は夫余・日本・朝鮮・韓共通語とテュルク・モンゴル・ツングース共通語の二つに分離し、前者が原始韓語と原始扶余語とに分かれ、ついで原始夫余語が高句麗語と原始日本語とに分かれたとする説しかし、村山七郎や清瀬義三郎則府は、高句麗語と朝鮮語は遠いことを示すと共に、日本語と近縁の言語とし、そもそも高句麗語の存在や不正確さも指摘している


10 江上波夫の騎馬民族征服王朝説(wikiより)

扶余系騎馬民族が、南朝鮮を支配し、その後弁韓から日本列島に入り、大和朝廷の前身になったとする仮説を江上波夫が提唱したが、今日ではほとんど否定されているともされる。

著者注: 扶余系騎馬民族を秦氏と同族とし、原日本語を喋るとすれば、肯定される。


11 扶余の歴史(wikiより)

扶余のハッキリした歴史は中国の前漢の中頃あたりまでしか遡れないが、中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ、扶余の前の時代の沃沮濊貊(わいはく、かいはく)もほぼ同じとされる

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12 朝鮮語(wikiより)、、、日本語とは関係無い、粛慎(から挹婁勿吉靺鞨)に由来する民が話した言語と考えた方が自然。日本への併合前の朝鮮の習俗(参考)は正に挹婁のものとそっくりだった。

韓国の学会では、朝鮮語が孤立した言語でないとしたらアルタイ語族に属すであろうという考え方が主流である。ただし、テュルク語群、モンゴル語群、ツングース語群には一定の類似性があるものの、それらが共通の祖語を持つアルタイ語族であるということは今のところ証明されるめどは立っていない。

歴史学の見地から考えると、百済、新羅、高句麗では言語体系が異なるという説も存在しており、『三国志』魏書弁辰伝には馬韓、辰韓(秦韓)間においては異なる言語が用いられていたという記述が存在している。また、高麗王朝の支配者層は元の時代にモンゴル系民族に取って代わられたため、モンゴル系言語の流入も考えられており、言語体系は定かではない。その中でも、朝鮮語はアルタイ語のうち、ツングース語族との関係が最も深いと考えられており、唯一まとまった文字資料をもつ満州語との比較研究が行われている。


13 漢民族は3000年前頃に黄河流域の中原に侵入して来た(参考)、、、それより以前の中国大陸は秦や羌族などの原日本人が活動していた。


14 山の民と海の民と鹿