隋や唐の支配者だった鮮卑族と日本民族は価値観を共有していた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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遣隋使や遣唐使として、日本は東アジアの大帝国の隋や唐に使節を派遣した。特に、最澄や空海が唐に渡って仏教の奥義を授けられたり、鑑真が日本に渡って来られた。現地の科挙に合格して官僚になった阿倍仲麻呂や、現地で三蔵法師になった霊仙と言う日本人僧もいる。

隋や唐の支配者の皇帝は騎馬民族の鮮卑族であったが、どうも日本民族が元々、大陸に活躍していたころから同じ価値観を共有し、言葉(原日本語)も大体通じていたようだ。


雑談
また、楊貴妃が日本に逃れたとの伝説が山口県の北西部の長門市の向津具半島にあるが(参考)、言葉が通じ、そして同じ価値観を共有して住みやすい環境であったと考えれば納得出来る。


参考

① 古墳時代後期の古墳から匈奴や鮮卑などの騎馬民族が好んで着用した歩揺の馬具が出土した(参考)

「福岡県古賀市教育委員会などは24日、古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初め)の同市の
船原(ふなばる)古墳遺物埋納坑
で出土した馬具「金銅製歩揺付飾金具(ほようつきかざりかなぐ)」が国内に類例のない形状であることが分かったと発表した。」
西日本新聞2013年11月25日(最終更新 2013年11月25日 00時09分) 

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出土状態

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再現

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馬具の装着

・歩揺とは?

歩揺は花びら形の金属で、傘の骨のように枝分かれした金具からつり下げる。今回は、六角形の金属板の中央に高さ約5センチの大型の歩揺付き金具を配置し、周囲に高さ約3センチの歩揺付き金具6点を立てるデザイン。いずれも銅の表面に金を施した豪華なものだった。

 

金銅製歩揺付飾金具はくらの後ろ側に取り付けられ、馬が歩くと、花びら形の飾り(歩揺)が光を反射しながら揺れる装飾品。市教委によると、再現したのは六角形(対角間の長さ約11センチ)の金属板の中央と、周囲6カ所に歩揺付飾金具を1セットで配置したデザイン。中央は高さ約5センチで歩揺は8個、周囲は同約3センチで各4個の歩揺を計24個つり下げている。出土した部品の多さから、複数が埋納されていたとみている。


中国・鮮卑族の冠。木の枝を模し、歩くと枝葉が揺れることから歩揺冠(ほようかん)と呼ぶ。
五胡十六国・南北朝時代、鮮卑族が王権を形成し、それが引き継がれて中国貴族の冠となった。

歩揺付飾金具は、国内では沖ノ島(同県宗像市)や藤ノ木古墳などで単体は出土しているが、複数の金具がセットになったものはなかった。田中良之・九州大大学院教授(考古学)によると、これと似た構造は朝鮮半島の
新羅
で見つかっており、「
船原古墳の埋葬者は新羅と独自のルートを持っていた豪族の可能性がある
」と分析する。


・【冠】より

漢文化の浸透する以前の匈奴,鮮卑などは頭部を覆ったり周囲を飾る金製の冠を用い,王権の象徴とした。4世紀以降の鮮卑,高句麗,百済,加羅,新羅では,以前の匈奴や鮮卑の制をうけつぎ,歩揺とよばれる金片をちりばめた金製の冠を用い,そのほかに羽根をつけたり樺を付した冠があった。とくに古新羅の墳墓からは,多くの金製の優品が発見されている。


② 倭(日本)が朝貢した中国大陸の国、魏、隋そして唐は漢民族支配の国では無かった(参考)


③ 日本語の起源(Y-DNAの研究などから、かつては東アジア一帯で原日本語が通用した)(参考)


④ 日本語の起源と騎馬民族(古代チュルク語は日本語に近かった)(参考)


⑤ 徐福が書いたとされた支那震旦國皇代暦記の重要性の指摘(日本人のルーツと秦の始皇帝のルーツは同一)(参考)


⑥ 江上波夫の騎馬民族征服王朝説は大筋間違っていない(参考)


⑦ 山口県下関市豊北町で七年に一度のお祭りの浜出祭で稚児さんの身に付ける金冠が騎馬民族が好んで着用した歩揺の馬具に似てなくもない。


浜出祭は13世紀の元寇以来の夷狄攘いの儀式とされているが、もっと古くからの由緒がありそうだ(参考)。


⑧ 日本語の起源と契丹古伝(古代の東アジアは原日本語が通用し、契丹などの騎馬民族のルーツは日本人と同族であった)(契丹は鮮卑の後の騎馬民族)