長門市の向津具半島の楊貴妃伝説は正しいかも知れない! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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長門市の向津具半島の楊貴妃伝説では、楊貴妃は死なずに海を渡って川尻岬の西海岸に漂着した。この地を唐渡口と呼んでいる(参考)。

実は、この唐渡口とは中国大陸の東海岸の連雲港市あたりの地名であった。この地は現在、沿岸部と言うより、川を遡った内陸部にある。唐の時代の末期の版図を見ると、呉の国との国境あたりとなる。すなわち、現在の国境検問所的な役割の地名のようだ。

そして、この中国側の唐渡口を出航して、星空などを頼りに東に突き進めば山口県の北浦海岸に到達することになり、向津具半島の川尻岬の西海岸(唐渡口)に到着してもおかしくない。

すなわち、この唐渡口と言う地名は川尻岬の西海岸の別名では無く、中国大陸側の出港地の地名であった。そして楊貴妃が生きて日本列島にまで逃れてきたとの伝説に信憑性が出てきた。

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赤丸: 到着地の川尻岬、西側の唐渡口の海岸に楊貴妃が漂着

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緑丸: 出発地、現在の中国の連雲港市近くの唐渡口

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赤丸: 向津具半島の川尻岬(唐渡口)、緑丸: 唐渡口、赤線: 北緯34度14分


雑談

白居易の長恨歌では、「玄宗皇帝は亡くなった楊貴妃を懐かしく思い出すばかりでうつうつとして楽しまない。道士が術を使って楊貴妃の魂を捜し求め、苦労の末、ようやく海上の仙山にて、今は太真と名乗る彼女を見つけ出す」と歌われている(wikiより)。

中国では、東方の海上に蓬莱山と言う仙山があるとされ、これは日本列島であろうとされている。時代を遡るが、秦の始皇帝に命じられた徐福は不老長寿の仙人の住む蓬莱山に仙薬を求めて渡海したと言う伝説がある。


参考

① 楊貴妃伝説(参考)

油谷に残る「楊貴妃伝説」 油谷の向津具(むかつく)の二尊院というお寺に2冊の古文書が残されています。これは今から約230年前(1766年)当時の二尊院福林坊55世住職恵学和尚が、この地に伝わる話を古老から聞き取り書きとめたものです。

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▲楊貴妃の里に建立されている「楊貴妃像」

唐渡口に漂着した楊貴妃

日本で云えば奈良朝の昔、唐の国では天宝15年(756年)7月のことじゃったげな。向津具半島の岬の西側に唐渡口(とうどぐち)ちゅう所があってな、そこへ空艫舟(うつろぶね)が流れ着いたげな。 舟の中にはな、長い漂流でやつれておられたが、たいそう気品のおありなさる、それはそれは美しい女人が横たわっておられたそうな。

お側の侍女が申すに「このお方は唐の天子、玄宗皇帝(げんそうこうてい)の愛妃楊貴妃と申される。安禄山(あんろくざん)の反乱により処刑されるところを、皇帝のお嘆きを見るに忍びないで近衛隊長が密かにお命を助け、この舟で逃れさせ、ここまで流れ着きました。」と涙ながらに云うたそうな。

楊貴妃の墓

息も絶え絶えの楊貴妃を里人たちは手厚く看護しましたがの、そのかいものう間もなく息を引き取られたげな。そこで里人たちは、西の海が見える久津の丘の上にねんごろに葬ったそうな。それが今、二尊院の境内にある楊貴妃の墓と伝えられておる五輪の塔でのう。

いつとなく「楊貴妃の墓に参ると願い事が成就する」というのでの、多くの人が参詣するようになったと申しますいの。

{69B96103-8B25-4DB7-B4F1-FEB3BC74B42B} ▲伝説「楊貴妃の墓」

阿弥陀如来と釈迦如来

一方、玄宗皇帝は楊貴妃への恋慕(れんぼ)の情断ち難く、悶々(もんもん)として悲しみの日々を過ごしていましたが、ある夜不思議な夢を見ました。

「私は日本に流れ着きました。土地の人々から優しくしてもらいましたが私の体は弱り切っており、とうとうこの世の者ではなくなりました。天上と人間界とに別れてはいても、いつの日かきっとお会い出来る時が参りましょう。」

夢の中の楊貴妃の言葉に、玄宗皇帝は白馬将軍陳安(ちんあん)を日本へ遣(つか)わし、楊貴妃の霊を弔(とむ)ろうために秘蔵の霊仏阿弥陀如来(あみだにょらい)と釈迦如来(しゃかにょらい)の2体の仏様と十三重(じゅうさんじゅう)の大宝塔を持たせました。

日本についた陳安は、楊貴妃の漂流地を探し歩きましたが、何処の浜か、何処の浦かどうしても分からないので京都の清涼(せいりょう)寺へ預け帰国いたしました。

二尊院

やがて清涼寺には、この預けられた仏様を拝みにお参りする人々が日増しに多くなりました。そうこうするうち、朝廷は楊貴妃の墓が長門の国、久津の天請寺(てんしょうじ)にあることを知り、二尊仏を移すように命じました。

ところが清涼寺では霊験あらたかな仏様を手放したくないので、このまま京都に置いておくように朝廷に嘆願いたしました。

困った朝廷では仏工の名手、天照春日(あまてらすかすが)に命じ、そっくりの2体の仏様を造らせました。

そして1体ずつを2つの寺で分け合って安置させたということです。阿弥陀如来と釈迦如来を本尊としたので「二尊院と名乗り、天下太平・五穀豊饒(ごこくほうじょう)の祈願怠りなく奉るべし。」との勅命(ちょくめい)を賜ったと申します。


② 川尻岬、唐度口(参考)

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本州の最西北端で向津具半島の北端に位置し、濃紺の日本海と岩に砕ける白波、緑の芝生のパノラマが広がります。西側は楊貴妃漂着の地として語り継がれている唐渡口海岸。嘉永2年、吉田松陰がこの岬に立ち、景観を楽しんだことが「廻浦記略」に記されています。



③ 唐末期の版図(wikiより)と唐渡口の位置

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現在、中国の地名としての唐渡口は二ヶ所あり、蓮雲港市近く(緑丸)と内陸の成都市近く(青丸)にある。この二ヶ所の位置は唐の時代の末期、唐の国境あたりに相当する。


④ 楊貴妃の最期(wikiより)、、、自殺を命じられ、その遺骸は密かに改葬されたので、現在、中国大陸には墓は無い。

756年(至徳元載)には哥舒翰は安禄山側に大敗し捕らえられ、潼関も陥落した。玄宗は首都・長安を抜け出し、蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らが同行することになった。

しかし、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は、楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。さらに陳玄礼らは玄宗に対して、「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言によりやむなく、楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。

『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死(首吊り)させられた。この時、南方から献上のライチが届いたので、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられる。陳玄礼らによって、その死は確認され、死体は郊外に埋められた。さらに、安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられる。その後、馬嵬に住む女性が楊貴妃の靴の片方を手に入れ、旅人に見物料を取って見せて大金持ちになったと伝えられる。

玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じたが、礼部侍郎・李揆からの反対意見により中止となった。しかし、玄宗は密かに宦官に命じて改葬させた。この時、残っていた錦の香袋を宦官は献上したという。また、玄宗は画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。


⑤ 安禄山の乱で殺されずに生き延び日本に逃げたたという楊貴妃伝説の発生した根拠(参考)

・処刑されていなかった

⒈ 縊死(荒縄で絞殺)され、埋葬されたという楊貴妃。ところが後に墓を調べたところ、中には楊貴妃のものと思われる着衣と身のまわりのものがあるだけで、死んだはずの楊貴妃の姿も形もなかったというのです。楊貴妃はどこに消えたのでしょうか。
出典:天草楊貴妃伝説

⒉ 日本へ逃亡したというスケールのでかい話がまことしやかに囁(ささや)かれているのは、反乱の後、楊貴妃の亡きがらが見つからなかったから。そのため「死んだと思わせているだけで、実は替え玉だった」などという説が、今でも根強く残っているらしい。
出典: 山口県長門市には楊貴妃のはかがある!?|マイナビニュース

⒊ 白居易(はくきょい・中国の詩人)の書いた有名な漢詩・『長恨歌(ちょうごんか)』には、乱の平定後に、玄宗が楊貴妃の遺骸を改葬したときの場面が出て来るのですが、その時の描写の中での「玉の顔を見ず」という表現が、「遺体が無かった」という意味であるという説も存在します。

玄宗皇帝は、楊貴妃を処刑することを泣く泣く決めましたが、処刑された場所は密室で、楊貴妃の処刑の瞬間は誰も見ていない。そして、遺体の確認もされていない。誰も楊貴妃の死の決定的な証拠を持っていないため、生死が定かではない。そのため、密かに難を逃れ、唐から逃げ出し、もしくは玄宗皇帝が指示を出し、こっそり逃がされたため、生存説が消えることはない。これは日本国内だけではなく、中国側でも、楊貴妃は中国では死んでいないという説は強い。

・日本に逃げたとされる根拠

⒈ 安禄山の乱の時、馬嵬が原で殺された楊貴妃のことを忘れかねた唐の玄宗皇帝は神仙の術を会得した方士に命じて、楊貴妃の魂魄の行方を尋ねさせます。方士は上碧落より下黄泉に到るまで探しますが、見当たらず、最後に常世の国の蓬莱宮へとやって来ます。
出典: 謡蹟めぐり 楊貴妃 ようきひ

後世の謡曲の中身ですが、楊貴妃の魂が見つかった場所が、蓬莱宮。蓬莱は中国の東の海上に浮かぶ神仙の島と言われ、日本を指すこともあるため、楊貴妃の日本漂着説がささやかれている。

⒉ 756(天平勝宝8)年6.22、筑前国に怡土城を築く、758(天平宝字2)年12.10、遣渤海使小野田守、渤海で得た安史の乱(三年前の11月勃発)などの情報を奏上。同日、淳仁天皇は大宰府(帥船王・大弐真備)に対し、「万一安禄山の軍が攻めて来た時のために奇謀を設けよ」と命ずる。この勅で船王・真備を当代の碩学と呼ぶ。
出典: 吉備真備

754年に遣唐使としての任を終え日本に帰国した吉備真備が、楊貴妃が処刑されたとされる756年、そしてその2年後の758年に朝鮮、大陸からの侵略に備えるため、防備を固めるという勅を出している。これは、処刑を免れた楊貴妃が日本にいるのを安禄山の軍に察知され、攻め込まれる事態を想定したのではないかという仮定がなされている。

・日本国内の楊貴妃伝説

○ 埼玉県奥秩父の法雲寺の秘仏と楊貴妃の鏡の伝説
○ 熱田神宮の楊貴妃の墓伝説
○ 京都府の泉湧寺の楊貴妃観音
○ 和歌山県の龍神村の楊貴妃伝説
○ 山口県の長門の楊貴妃伝説
○ 熊本県の天草の楊貴妃伝説


⑥ 北緯34度14分に近い連雲港市あたりは東シナ海に面し、日本列島に渡海するのに適した地域であった。