楊貴妃さんは、やっぱり日本に来ていた!? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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安史の乱を避けて楊貴妃は日本に逃れたが、遣唐使で唐に渡って帰国した吉備真備も知っていたとの説がある。そして、山口県長門市の向津具(むかつく)半島に楊貴妃が上陸し、亡くなったと云われている。そして、長恨歌でも楊貴妃の魂は海上の仙山に住まわれていた(参考)

山口県長門市油谷向津具下久津    楊貴妃の墓


その吉備真備の母親が楊貴氏(ヤギシ、八木氏)であると言う墓誌が出土し、吉備真備の母親が楊貴妃だったと注目された挙句、単なる偶然として否定された。

これに対し、実は楊貴妃の一族の楊氏は日本語を喋る殷人の末裔で、楊は「やなぎ」と訓読みし、楊貴(やなぎ)とも書いていたと考えられる。そして、楊氏は日本にも既に渡来して八木氏(楊貴氏、ヤギシ)を名乗っていたのではなかろうか!?

だから、楊貴妃は日本列島の同族を頼って阿倍仲麻呂や吉備真備らの手引きで亡命を試みたと考えられないことはない!?

山口県長門市の向津具半島の二尊院の前にある大理石の楊貴妃像を分析したところ、殷人の末裔としての特徴があった。また、仏像のような美しい容貌から絶世の美女とされたようだ(参考)。


雑談

日本から隋に遣隋使、唐には遣唐使を積極的に派遣した歴史がある。特に遣唐使は頻繁に派遣され、多くの学者を送り込み、また逆に招いたりもした。唐の支配階級と日本とは気質と価値観を共有し、言葉も通じていたことを窺わせる。

遣唐使をやめたら国風文化が花開いたとされるが、唐に置き忘れていた日本文化(殷や秦などの文物、殷人の末裔の人々)を全て余すことなく日本に持ち帰ったからと考えられる(参考)。

鑑真和上一行が苦難の末に日本列島に渡り、日本に正しい仏教を広めたが、彼らは日本語が流暢だったと考えられる(参考)。通訳を介して授戒などの儀式を遂行したなど聞いたことがない。

大陸における日本語を喋る人々が居なくなった時期が遣唐使の終了ではなかろうか!?


参考

①-1 吉備真備の母の記録「楊貴氏墓誌」

龍神楊貴妃伝(参考)

・謎の歴史資料「楊貴氏墓誌」

楊貴氏墓誌は、享保13年(1728)に大和国宇智郡(うちのごおり)大沢村(おおさわむら)で発見されました。現物は、レンガか瓦のようなものに刻まれていたものということですが、今は行方不明になっていてありません。拓本だけが残っています。

それには、とんでもない事が記されています。
ウィキペディア 楊貴氏墓誌https://ja.wikipedia.org/wiki/楊貴氏墓誌

・吉備真備の母は、楊貴妃!?

「楊貴氏墓誌の拓本」

従五位上守右衛士(うえじ)府兼行中宮亮下道朝臣(あそん)真備葬亡妣楊貴氏之墓 天平十一年八月十二日記 歳次己卯

(従五位上、守右衛士府(うえじふ)、兼(けん)、中宮亮(ちゅうぐうりょう)の下道真備(しもみちのまきび)が、亡き母「楊貴氏」を葬(ほうむ)る墓  天平11年8月12日記 干支(えと) 己(つちのと)卯(う))

すなわち、発見されたのは、吉備真備の母親の墓に添えられていた墓銘誌(ぼめいし)で、「楊貴氏」が真備の母だと書かれているのです。


①-2 吉備真備の母親の楊貴氏は楊貴妃とは関係ない説(定説、wikiより)

銘文中の「楊貴氏」は狩谷棭斎の『古京遺文』(後述)以来、「楊貴」を「やぎ」と訓み、『新撰姓氏録』等に載せる八木氏出身の女性で「八木」の好字として「楊貴」を当てたものであろうとするのが通説となっている。その場合、楊貴氏という女性は八木氏の中で宇智郡に住した一族に属し、この古墓は真備が母の出身地に埋葬したものと推定されるが、そこから或いは真備の父圀勝の結婚生活は妻の生地に近い畿内で営まれ、真備自身も朝廷に近い地で生まれ育ち、それが地方豪族出身者が中央で活躍する際の条件となったのではないかとの推測も可能となる。

また「八木」に「楊貴」字を当てた理由としては、これは楊貴妃(楊玉環)に因んだ好字で、真備を初めとする当代知識人の唐文化に対する憧憬を示す事例でもあると説かれもしたが、「貴妃」とは唐の官名で「楊貴妃」とは「楊氏の貴妃」の謂、玉環がその位を授けられたのは天宝4歳(745年)、日本では天平17年に当たるため、天平11年の墓誌が「楊貴妃」を元にしたとは考えられず、玉環が貴妃となった後に楊貴氏の改葬等が行われ、その際に本墓誌が副葬されたものであったと仮定しても、「貴妃」は2文字で初めて意味を成す官名なので真備程の知識人がそうした意味を成さなくなる借字をするとは思えず、更に真備が自らの官位を天平11年当時に遡って刻んだとも考えにくいため(一般的には改葬時点での官位が記される)、この用字は単なる偶然であったと解するしかない


② 楊貴は日本人の苗字で「やなぎ」と訓む。



③ 楊

音読み
    呉音 : ヨウ(ヤゥ)
    漢音 : ヨウ(ヤゥ)
訓読み
    かわやなぎかわやなぎ、ねこやなぎ

注: 柳(音読み: リュウ、訓読み: やなぎ、しだれやなぎ)


④ 司馬氏、楊氏の系譜

司馬氏の一派は殷王の子孫を称して晋を樹立。楊氏は後漢の名門貴族であった(異説有り)が、司馬氏とも通婚して、隋を樹立したり、唐では楊貴妃を輩出した。

wikiによると、

の将軍司馬錯の家系からは、白起に属して長平の戦いで活躍した司馬靳、その子孫である学者の司馬談、そして談の子で『史記』の著者である司馬遷が出ている。 司馬遷は宮刑に処されたが、その前に娘を一人もうけており、娘は丞相の楊敞に嫁いで、後漢の名門貴族である弘農楊氏の遠祖となった。

・ 司馬卬の家系が有名であり、以後に名を上げる司馬氏は殷王・司馬卬の子孫を称している。(→→晋の皇帝)

・ 楊敞司馬遷の娘を娶っており、司馬遷の娘との間に生まれた楊惲が『史記』を世に広めた。

・ 楊敞後漢書』楊震伝によると、後漢時代に「四世三公」と称えられた楊震楊秉楊賜楊彪らの楊氏の祖であるとされている。

・『隋書』によるとを創立した楊堅は楊震を祖と称している。(→→隋の皇帝)

・楊氏は漢民族後漢楊震の末裔を称し、弘農郡華陰県(現在の陝西省渭南市)を本貫とした。しかし、漢族出身ではなく北方異民族の普六茹氏の子孫という説がある。普六茹とは鮮卑語ヤナギのこと。


⑤ 楊貴妃の系図

京都大学 岡本午一(参考)


⑥ 後漢が滅びた後に成立した魏や次の晋では日本語を喋っていたようだ(参考)、、、殷の末裔の国


⑦ 日本語の起源(参考)、、、秦帝国が中国を統一した頃、羌族、秦、斉、楚、宋などが日本語を喋っていた。


⑧ 古代中国の殷王朝は漢字の起源の甲骨文字を発明したが日本語を喋っていた。末裔が秦、魏、晋などを樹立したりしたが、ついには日本に渡来した。