唐から6度目の渡海で日本に来られた鑑真和上は縄文人と同族の殷人の末裔であった。実は日本語も喋っていたに違いない。
その根拠は、耳たぶと目の上の眉にある。
縄文人の特徴として、豊かな福耳とネアンデルタール人由来の眼窩上隆起がある。古代中国の殷人は縄文人と同族であり、末裔には秦、斉、宋、楚、魏、晋などの国の民がいる。時代が下るにつれ彼らは日本に渡来して中国大陸から姿を消して行くが、唐代まで存在したようだ。そして、鑑真和上は唐代の僧侶であるが、彼は際立って豊かな耳たぶと顕著な眼窩上隆起を持っていたのであった。
現代の中国の民である漢民族について耳たぶと目の上の眉に注目すると、原初の漢民族の客家人に眼窩上隆起が見られるが、ほとんどの現代漢民族は眼窩上隆起は無く、また耳たぶも際立って豊かとは言えない。
死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法 両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)。これが日本最古の肖像彫刻とされている(wikiより)。
鑑真和上(上の像の拡大)
追加
玄奘三蔵像(東京博物館蔵)の顔面を見ると目が落ち窪んで、眉が若干隆起して眼窩上隆起の特徴がうかがえる。耳たぶは明らかに福耳であった。この肖像画が写実であるなら、鑑真和上と同じく殷人の末裔でありそうだ。
wikiによると、母は大唐帝国の宰相殷開山の娘で、殷温嬌またの名を満堂嬌と言った。殷王族の末裔が殷を姓にしている。
雑談
平安時代の日本の国風文化は唐から渡来した殷人や秦人など縄文人と同族の末裔達がもたらしたと考えた方が正しい(参考)。すなわち、日本の国風文化は実は3600年前の古代中国大陸の殷文化などを復元したものであろう。
参考
① 鑑真 がんじん Jian-zhen(コトバンクより)
[没]天平宝字7(763).5.6. 奈良
中国,唐の僧,日本律宗の開祖。大雲寺の智満について出家し,道岸,弘景,融済らに師事して律と天台を学ぶ。のち揚州の大明寺で律を講じた。天宝1 (742) 年,入唐僧の栄叡,普照らの請いを受け,日本への渡航を企てること5回にも及んだが果さず,加えて失明し,同 12年,6度目に成功した。来朝後は東大寺にあって授戒と伝律に専念し,聖武上皇をはじめ多くの貴紳に菩薩戒を授けた。天皇から賜わった新田部親王旧宅を唐招提寺とし,戒律研鑽に力を入れた。唐招提寺の『鑑真和上坐像』は奈良時代肖像彫刻の代表作とされる。
② 日本人の代表、縄文人的特徴の眼窩上隆起と豊かな福耳を持つ、、、彼ら自身は渡来人
③ 原初の漢民族、客家人の代表
④ 現代漢民族の代表
⑤ 縄文人(Y-DNAハプログループD1b)は福耳、いわゆる弥生人(Y-DNAハプログループO2b)は貧乏耳(参考)、、、貧乏耳は朝鮮耳とも言われている。
⑥ 古代中国の殷人は縄文人と同族で、末裔は唐の時代までに日本に渡来した(参考)
10 縄文人と同族の殷人や秦人らが眼窩上隆起の容貌を持っている。縄文人の先祖が旧人のネアンデルタール人から眼窩上隆起の遺伝子をもらった。