三国志の中に魏志があり、この中の烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)があり、日本に関する最古の記述がある。この中に女王卑弥呼が治める邪馬台国があり日本を治めていたと書かれている。
この邪馬台(ヤマタイ)国こそ、日本(大和、ヤマト)のことであった。すなわち、魏の使者にはヤマトの音が漢字の邪(ヤ)、馬(マ)、台(臺、タイ)と聞こえたのであろう。
この漢字の音について、邪をヤと読むのは呉音または訓読み、馬をマと読むのは唐音または訓読み、台(臺)をタイと読むのは漢音、ダイなら呉音となる。ところで、唐音(唐・宋音)は平安時代以降の音で、北方異民族の影響下で成立したもので、三国志が編纂された西晋の時代(3世紀)には無かったと考えられる。すなわち、三国志を編纂した西晋の陳寿は漢字の音について呉音、漢音そして訓読みを知っていたことになる。
この漢字の訓読みが含まれた三国志は中国の正史とされ、魏は三国の中で最も正統な国とされ、魏皇帝から禅譲された西晋(晋)の皇帝の司馬氏は殷王司馬卬の子孫を称した。
すなわち、日本語を話した縄文人と同族の殷は漢字を発明し、音読みと訓読みの両方を使用した。この殷の末裔に宋、秦、斉などがある。しかし、これらの国々は一旦、秦帝国に吸収合併された後に漢帝国に滅ぼされたが、民族は生き残り、後漢が滅びた後の魏として再興され、次いで西晋に引き継がれたと考えられる。
だから、魏志倭人伝にあるように魏の使者が日本(ヤマト)を訪れ、また日本(ヤマト)からの使者が魏に朝貢して親魏倭王の印と銅鏡100枚をもらったが、お互いに日本語が通じた同族であったのである。
追加
投馬国(とうまこく)の投の「とう」は音読み、馬の「ま」「うま」は訓読みとなる。馬の音読みの「ま」は唐音で時代が降る。
雑談
そして、ついに彼らの末裔は4世紀から7世紀にかけて、日本列島に渡来することになる。
5世紀ころ南朝の宋に朝貢したようだが、言葉が通じなかった為か倭の五王の名前が中国語風の一文字になっている。この五王が記紀の中に記述された天皇の誰か諸説あって定まっていない。
注意1
弥生時代末期の北九州の奴国は後漢に朝貢して漢委奴国王という印をもらっているが、奴国の弥生人のルーツは揚子江下流域の呉の国の稲作農耕民であった。
注意2
後漢書は、後漢について書かれた歴史書で、二十四史の一つ。本紀10巻、列伝80巻、志30巻の全120巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で、編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。
三国志より前の時代の後漢の歴史について、西晋より後に成立した南朝宋が編纂したもので、三国志に刺激されたのであろう。この南朝の宋は後漢の末裔で漢民族の国と考えられる。
滅ぼしたライバルの前王朝を飛び越えて、自分達現王朝が先祖の王朝の歴史書を作ることで自分達の正統性を主張したのであろう。
注意3
三国志の現存最古の版本では邪馬台国(正式には邪馬臺国)の臺を書き誤って壹(壱、イチ)となっているが、後から書かれた後漢書や以降の史書では臺(台、タイ)となっている。後漢書の編者としては悪意で壹を臺に書き換える価値はないと考えられ、古田武彦の邪馬壹国をベースにした九州王朝説には無理がある。
参考
① 邪馬台(ヤマタイ)の三漢字の読みについて(コトバンクより)
邪: ヤと読むのは呉音、または訓読み
馬: マと読むのは唐音、または訓読み
台(臺): タイと読むのは漢音、ダイなら呉音
② 魏志倭人伝(ぎしわじんでん、wikiより)
中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。
③ 陳寿の三国志での魏の扱い(wikiより)
これに対し陳寿は表題上は三国を対等に扱い、また本文も『魏書』『呉書』『蜀書』と三国を分けて扱ったところに大きな違いがある。また、元は蜀漢に仕えた人物であったため、敬語の使い方などからも蜀漢を比較的よく扱おうとする姿勢が見える。
④ 西晋(晋、265年-420年、wikiより)
春秋戦国時代末期においては、秦、斉、宋など殷の末裔の国々では日本語が喋られていた。
⑦ 魏から隋までの歴史(wikiより)
⑧ 倭の五王(wikiより)
10 三角縁神獣鏡は中国産の舶載鏡と日本で作られた仿製鏡が明確に区別できる