【幕末維新ゆかりの地】
いつか記事にしようと
旅行記事も数年前のできごとを記事にしたりする
そんな遅漏ブログ【まっすぐ、歩く。】
今回はなんと2011年(年月日は不明)の旅行、歴史ヒストリアを記事にします。
こうやって過去を掘り起こしていく作業もまた楽しいものです。
それに今回の歴史ヒストリアはとても(さるるが)興味深い
そんな歴史ヒストリアなのです!!!!
護国寺は極真空手をする者にとって大切な場所
大山(倍達)総裁のお墓があるのです。
もうずいぶんと以前にお墓参りをさせて頂きました。
漫画【空手バカ一代】を読んで
そこからまっとうな人間になろうと努力しました。(未達成)
まっとうな人間?まだなれてないけど!
ただ若いだけの生意気なクソガキが変われるキッカケを頂いたのは
【漫画の大山倍達】だったのです。
さるるの知り合いには極真空手が出会いで結婚した2人もいるし
そんな夫婦はたくさんおられるでしょうね
その一面だけを切り取っても
大山総裁はいろんな人の人生に影響を与えた偉人だと。
実はこの護国寺に訪れたのは
大山総裁のお墓参りが目的であって、まさかここで
幕末維新ゆかりの地があっただなんて
想定外の歴史ヒストリアだったのです(*'ω'*)驚
ちなみに劇作家【梶原一騎】のお墓もあるとか!?
ぜひ行ってみたかったです。
お話は戻って三条実美のお墓です。
入ることはできませんでしたが
幕末で公家では二番目ぐらいに存在感があった?
三条実美のお墓があります。
三条実美
明治維新後は元勲の一人として右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員などを歴任
長州藩とともに攘夷親征のための大和行幸を計画します。
攘夷親征のための大和行幸を実行する段階になりましたが結構直前に
薩摩藩と会津藩が攘夷急進派の公家を締め出した。
三条実美の元へは久坂玄瑞や宮部鼎蔵、土方久元と御親兵が駆けつけた計画阻止に動きます。
こうして大和行幸は失敗に終わり・・・・それを知らずに大和(奈良県)では
その先兵にならんと【天誅組】が決起しますが・・・・。
【天誅組の軌跡と悲劇】
三条実美ら尊王攘夷派の公家は
計画・・・・ってかこれもうクーデター?というより
幕府に宣戦布告だよね?
これが失敗したことにより京都から長州藩は京都から追放
地位もなにもかも失った三条実美は長州に逃亡。
その道中に
三条実美がお泊りした場所が鞆の浦に現存します。
最終的には太宰府に幽居。
再び長州藩が盛り返すまで時を待つことになりました。
その際にいろいろお世話したりしたのが土佐勤王党だった中岡慎太郎
三条実美はただ時間を過ごしていただけでなく
ここ太宰府でも精力的に倒幕運動を行い、坂本龍馬や伊藤俊輔と会談し
薩長同盟成立の立役者の一人となりました。
ちなみに
太宰府天満宮には黒田官兵衛も時間を過ごし
黒田官兵衛の使った井戸があります。
入れなかったけど柵から手を伸ばして
スマホを最大望遠で三条実美の墓を撮影しました。
田中光顕の墓もありました。
(当時は名前ぐらいしか知りませんでした・・・・。)
田中 光顕(たなか みつあき)
【お~い!竜馬】では
通称の田中顕助として登場しています。
叔父の那須信吾は吉田東洋暗殺の実行犯だが、光顕も関与した疑いもある。
土佐勤王党が弾圧されると謹慎処分、やがて同志を集めて脱藩。
第一次長州征伐後に大坂城占領を計画するけど新撰組に摘発された
ぜんざい屋事件を起こして大和十津川へ逃亡。
たぶん、これ司馬遼太郎が小説にしていたと思うなー。
中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて
重傷の中岡から経緯を聞いて状況を世に残している。
中岡の死後は副隊長として陸援隊を率い、鳥羽・伏見の戦いでは高野山を占領。
して紀州藩を牽制して、戊辰戦争で活躍しました。
明治維新後、政界で活躍し引退後は
高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版したり
落ちぶれていた武市半平太の遺族の救済など
日本各地で維新志士の顕彰に尽力したそうです。
田中 光顕は昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから
側室をもうけるべきだと主張・・・・え?
昭和天皇?????田中 光顕って幕末の人やんね!?
なんせ側室の選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。
昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には
事件を起こした青年将校らの助命願いに積極的に活動しました。
・・・・って田中 光顕って幕末の人やんね!?
何歳まで生きてたの!?
ああ、95歳までご存命だったの!?
すごくご長寿で
影響力を持ち続けたんですねぇ。
土佐出身の志士たち
幕末まで生き残ったのは田中 光顕(顕助)のみ・・・・。
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