足利将軍室町第跡碑~花の御所跡 | 古都の礎

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今出川通新町にある足利将軍室町第址碑です。

 

 

室町幕府の政庁・足利将軍の居所が置かれた室町第の跡地に建てられた碑。

足利尊氏が室町幕府を開いた時の幕府政庁・将軍居所は二条高倉第でしたが、三条坊門第に移転。2代将軍・足利義詮は三条坊門第を本邸とし、この地にあった室町家の邸宅・花亭を室町季顕より買い上げ別邸としました。永和元年(1378年)、3代将軍・足利義満は、花亭の南隣にあった今出川公直の邸宅・菊亭を買い上げ花亭と合わせ、東は烏丸小路、南は北小路、西は室町小路、北は毘沙門大路に囲まれた東西一町、南北二町に邸宅を建造。同年、三条坊門第から幕府政庁と将軍居所を移します。室町小路に表門があったことから室町第と呼ばれ、この邸宅によって足利将軍は室町殿と通称され、室町幕府の名の由来となりました。室町第は別名を花の御所といいましたが、元の邸の名が花亭であったことからとも、庭にたくさんの花を植えたからともいわれています。三条坊門第も継続してたびたび将軍御所となり、室町第は上御所、三条坊門第は下御所と呼ばれました。

義満は将軍退任後、4代将軍・足利義持に室町第を譲り北山第(後の鹿苑寺(金閣寺))に移住、北山第で没します。義持は北山第に入った後、三条坊門第に御所を移し、5代将軍・足利義量も三条坊門第を御所としました。永享3年(1431年)、6代将軍・足利義教は父義満の先例にならうとして室町第に入り、大会所や泉殿を増築。7代将軍・足利義勝も室町第に住みます。8代将軍・足利義政は11歳で将軍となったとき養育係の烏丸資任邸にいましたが、長禄3年(1459年)、室町第に入り、以降、三条坊門第は用いられなくなりました。応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発。洛中が戦場となったことから後土御門天皇は室町第に避難。以後、10年間にわたって天皇と将軍が室町第で同居します。文明5年(1474年)、足利義尚が室町第で9代将軍に就任。文明8年、戦乱により室町第は全焼。以後、小規模な再建を繰り返しますが、永禄2年(1559年)、13代将軍・足利義輝が二条御所に移ってからは用いられなくなりました。

この碑は、大正4年(1915年)に建てられました。

 

 

 

足利将軍室町第址碑;京都市上京区今出川通室町