菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)
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明智光秀の首塚(大河ドラマ「麒麟がくる」 にちょっと便乗)

 

NHKで1月19日(日)から放映される大河ドラマ「麒麟がくる」。

 

主人公は明智光秀。

 

昔、桜田晋也『明智光秀』(上・中・下)を読んだ私としては、遅きに失した感があります。

 

やっぱりいいもんに描かれていると、信長、秀吉もいいけど光秀もねっとなりますわ。

 

明智光秀に関しては多くの研究本が出ているし、出るはずですから、人物像等についてはそちらに譲るとして、今回のブログは便乗して、明智光秀の首塚をご紹介します。

 

 

 

 場所は三条白川を少し下がった、桔梗の焼き印が押されている明智饅頭で有名な「和菓子餅寅」さんの手前の道を東へ少し入ります(東山区梅宮町)。

 

 

 

 明智光秀の首塚

 

 

京都市駒札

 

明智光秀の塚

 

 天正十年(1582)六月二日、明智光秀は本能寺(下京区)に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、自害させました。しかし光秀は、備中高松城(岡山市)から引きあげてきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、十三日に山崎(天王山)で戦って敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城をめざして逃れます。そしてその途中、小栗栖(伏見区)の竹藪で地元の農民に襲われて重傷を負い、自害して家臣に首を打たせたといわれています。

 

 光秀の首は、家臣によって隠されたといわれます。ですが吉田兼見という公家が記した日記「兼見卿記」によると、光秀の首は十五日までに発見されています。十八日からは、粟田口(左京区)で家臣の首とともに晒されました。晒されたのは数日で、二十二・二十三日には近くに埋め、塚を築いたと記されています。

 

 実際、『雍州付志』や『都名所図絵』など、江戸時代の京都について記した地誌類には、その塚が蹴上付近にあり、三条通北側の人家の裏側にあると記されています※。多くの書物に記されていることから、当時よく知られた名所であったことがうかがえます。

 

 その後、江戸時代中期の安永~天明初年ごろ(1770~80ごろ)に、蹴上の塚にあった石塔婆がこの地に移されてきました。以来、この地が明智光秀を弔う地として知られるようになり、光秀の首もここに埋められたと伝えられています。

 

 また明智光秀を弔う場所は、ここ以外にも、小栗栖の明智藪・胴塚があります。

 

京都市

 

※『本能寺の変431年目の真実』の著者・明智憲三郎氏は、神沢貞幹『翁草』の、明和八年(1771)春頃、能役者笛 明田理右衛門が明智の子孫として首塚のあった家を貰い受けたとする記述と他の史料を検証し、「明智光秀の首が本物であったことを前提とすれば」この首塚は本物としています。

 

 

 明智光秀首塚碑

 

明治三十六年(1903)に建てられた碑。建立者は歌舞伎役者の市川団蔵。碑文には、「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と刻まれています。

 

いくつかある明智光秀の戒名の一つですね。

 

 

五重石塔

 

京都市歴史資料館フィールドミュージアム京都」には、粟田口付近に埋められた首の上に建てられた五重の石塔が現在地に移され、現在はこの五重石塔が明智光秀の塚と知られるとあります。

 

京都府内には三ヶ所明智光秀の首塚がありますが、明智憲三郎氏の検証も踏まえれば、ひっそりと建つ、この小さな石塔こそが明智光秀の首塚と言って良いでしょう。

 

あくまで、首が本物として。

 

 

明智

 

明智光秀の木像及び遺骨が安置されていると伝えます。

 

 

京都市歴史資料館フィールドミュージアム京都では、移転経緯として、『華頂要略』の記述がもっとも詳しいとあり、「近年梅宮町に住せる能の笛吹明田理右衛門と云る人光秀か子孫なる由申触れ彼首塚に有し石塔婆を我私邸に移してけり明田某は死して今尚梅宮町梅宮の旧地の西辺にあり渡辺山城是を守る」とあります。一部資料に明智光秀の首塚(梅宮社)とあるのはこれに依るものと考えます。


『雍州府志』(新修京都叢書第三巻 山岸精二 光彩社 昭和四十三年所収)には、「梅ノ宮 在下粟田尊勝院之境内也是謂東梅宮。始在白川橋南人家之後園近世移斯處」※あり、東梅宮は西の梅宮大社に対しての意味と思いますが、『雍州府志』は天和二年から貞享三年(1682~86)に記された山城国の地誌、首塚は蹴上付近にまだあったはずなので光秀の首塚と梅宮社、尊勝院の関係については分かりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東福寺塔頭 善慧院(明暗寺)

前回の一華院から駅へ向かうと、塔頭寺院に人だかり。これは便乗しますね。
 

 
東福寺塔頭 善慧院(明暗寺)
 
「世界でここだけ虚無僧と写真が撮れる」とあるように、善慧院(明暗寺)は虚無僧の寺と呼ばれます。
 
虚無僧は、筒形の深笠をかぶり袈裟をかけ、尺八を吹いて諸国を行脚した修行僧。薦僧、虚妄僧とも書きます。
 
『徒然草』第百十五段に「ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字などと云ひける者、その始めなりけるとかや」とあるように、古くは「ぼろんじ(梵論字)」「梵字」「漢字」と呼ばれています。
 
参考 『現代語対照 徒然草』(訳注 安良岡康作 旺文社 1971年)
 
私は時代劇の影響が強く、幕府隠密だったり、暗殺者、たまに、ほんとにたまに、いいもんが化けて悪人をやっつけるイメージ。
 
共通するのは武術の達人ですね。
 

 
吹禅の碑
 
はっきりこの石碑の記憶があるから、門が開いている時に境内拝観してます。
 

 
山門前の派手さに比べ、落ち着いた苔庭。
 

 
前回は境内散策だけでしたが、今回は弁天堂が開扉されており、堂内で弁財天像をお参りすることが出来ました。
 
賽銭巾着ここでも活躍や。
 

 
善慧院
 
臨済宗東福寺の塔頭。開山堂の東北に位置。本尊文殊菩薩。大永年間(1521~28)彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)が退隠所として創建。明治四年虚霊山明暗寺を合併し、普化尺八明暗流の尺八根本道場となる。
 
明暗寺は妙安寺ともいい、鎌倉期(寺伝では建武二年・1335年)、天外明普が師の虚竹明庵を開山として北白川に創建。近世初頭、東山区の池田町付近に移転。江戸期には普化宗の主要寺院となり、虚無僧寺と呼ばれた。
 
参考
 
『京都大事典』(佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか 淡交社 昭和五十九年)及び善慧院ホームページ
 
それにしては虚無僧さん横の寺号が大きいなぁ、善慧院の寺号よりも目立つなぁと思っていたら
 
元は別のお寺であった善慧院と普化宗の明暗寺が合併して、善慧院の中に明暗寺の命脈を保っていましたが、普化尺八を慕う人々により善慧院にて明暗教会として復活、現在は宗教法人普化正宗明暗寺として再興さています。善慧院ホームページより
 
そういうわけでした。
 
インスタ映えする虚無僧さんとのツーショットは300円也。
 
賽銭巾着の紐は緩くても財布の紐はかたいのだ。
 
というより、インスタフォロワー2人では意味がないから撮らない。
 
 
特別公開に近いから、けっこうな人気スポットになっており、拝観者が後を絶ちません。
 
私以外は皆さん財布の紐は緩いようで・・(笑)。
 

東福寺塔頭 一華院

 宇治から京阪に乗って京都市内に戻り、東福寺を訪れました(昨年の続き)。
 

 
前日の永観堂あたりは、11月初旬とはいえ、さすが永観堂って感じでけっこうな人出でしたが、東福寺はそれほどではありませんでした。さて、東福寺に来たのは、ある塔頭寺院が特別公開されていたからです。
 

 
東福寺塔頭 一華院
 
特別公開は定期的に行われているようですが、なかなかスケジュールが合わず、初めての拝観になります。
 

 
東福寺の塔頭はハズレがない!。
 
という期待を抱えて受付へ。
 
なお、由緒及び庭園解説文はパンフレットからの抜粋で小文字。大文字は私の個人的な感想(特に庭園)でブログを構成します。
 

 
一華開五葉(一華五葉を開く)の衝立。この意味も含めて一華院由緒。
 
一華院
 
 「一華院」は、臨済宗大本山東福寺の塔頭にして、永徳二年(1382)に東福寺第六十七世・東漸禅師が創建した寺院である。ご本尊は「白衣観音坐像」で室町時代作、脇仏は「達磨坐像」と「阿弥陀如来坐像」で、いずれも江戸時代作と伝わる。
 寺号の一華院は、禅の教えで「吾れ本と茲の土に来たり、法を伝えて迷情を救う。一華五葉を開き、結果自然に成る」に由来する。これは禅宗の開祖である達磨大師が弟子の慧可大師に詠んで与えたという伝法偈の中の一句で、一つの華が五枚の花弁を開き、やがて自ら実を結ぶように、自分の心の華を開くという教えである。 
 
意味が分かりましたか。
 
 
 
書院(と思う)から方丈(と思う)。右の障壁画の裏にご本尊が安置されていました。
 

 
方丈南庭 画像は書院から。
 
「南庭」朱雀 「依稀松(いきまつ)の庭」 作庭 前住職 1981年
 
 名前の由来は禅語の「依稀たり松の屈曲、彷彿たり石の爛班」から命名され、松の曲がった幹や枝ぶり、石の班紋が様々な姿に現れているという意味である。
 南庭の長押を大きく伸ばした黒松は、四神相応でいうところの「朱雀」に見立て、後方の大苅込は朱雀の背後にそびえる山々を表している。全面が地被類に覆われているため、庭園中央に伝説の鳥である朱雀が大きく羽ばたいている姿を想像することができる。
 

 
方丈から。解説文にはありませんが、朱雀は、画像左部分が頭、長押が尾ではないかな。左側に飛んでる姿に見えます。
 
主役は朱雀に見立てた黒松ですが、所々に意匠があり、しかも全体のバランス(特に縦横)が非常に良い庭園です。
 
 
延びた松の枝葉と背後の横長刈込、さらに後の生垣が直線的ですね。だからでしょうか、松の下にある蹲に至る敷石と飛び石が際立っていました。
 

 
方丈の奥(西側)
 
「西庭」白虎 「虎靠山(ここうざん)の庭」 作庭 重森千靑 2018年4月
 
 禅語の「龍の水を得るが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり」から命名された。本来あるべき姿に戻れば、水を得た龍や、山に入った虎の様に本領を発揮し威風堂々たるさまになるという意味である。
 西は四神相応では白虎ということから、白い石を使って白虎を抽象的に表した。大小の石を組んで親虎と子虎に見立て、西から南に向かって「虎の子渡し」、対岸に渡った子虎などを表現している。
 
 
 真ん中の石組が子猫にしか見えず、「とら、とら、とら」と自己暗示をかけなければ虎に見えません(涙)。どちらかといえば、額縁画像のほうが抽象的だから、解説無しで「どう受けとるかは貴方次第」としたほうが良いと思いました。
 

 
 方丈から書院
 
PM2:00を過ぎたぐらいなのに誰もいない。少ないと言いながら東福寺だからそこそこ人はいたけど、特別公開に興味がないのかな。私なんか、3月の冬の非公開文化財特別公開の時に閉まっている門を見て、次の公開には必ずやと思ったぐらいなのに。
 
朱雀、白虎とくれば、もうお分かりですね。一華院は方丈を囲むように四神相応の庭で構成されています。
 

 
 「北庭」玄武 「彷彿石の庭」 作庭 重森千靑 2016年10月
 
 「依稀松の庭」の由来となった禅語に相応させて「彷彿石の庭」と命名され、三つの島で構成されている。
 最奥の「蓬莱島」は、石組で島、黒系の石で洲浜を表した。表面の植物はフッキソウで、鑑賞者には遠くの山並みを望む風情となる。中間の「鶴・亀の島」は石組で鶴と亀を表し、手前の「玄武・亀島」は三石による石組が東から西へ亀が泳ぐ姿を連想させる。三和土風の山に仕上げ、永遠に変化のない姿を表現している。
 

 
鶴・亀の島は、右が鶴で左が亀かな。
 
この石庭、「静かに一人で観賞」と言われた方がいらっしゃいましたが、私は全く逆で、時に視線を遠くに、時に手前にして、誰かと会話を楽しみながら観賞する庭園という印象でした。
 
 
書院から
 
さて、一華院を拝観された方はもうご存知ですよね。
 
パンフレットが間違っていることを。
 
気づかなかった?。
 
よ~く読んでみてください。すぐ分かります。
 

 

 四神相応なら東の青龍は?。

 

青龍は玄関の山門から玄関のアプローチのようです。解説文はありません。

 

しかし、この延段がよくできています。真ん中の形の違う石と正四角形の石との組合せで、足をとられないように小石が詰めてあるから、変化と安心感を与えています。

 

 
しかし、私には山門から南へ続く苑路のほうが青龍(川)に見えました。
 
 
流れがあるからなのだ。
 
 
 

謹賀新年

新年


明けまして


おめでとう 


ございます


皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします

 

 

 


昨年は菊蔵のCD・レコードコレクターズブログをアップしたいと豊富を述べたのに、KISSライブのブログしかアップできませんでした。


今年こそは・・・


ちょっとがんばる


京都ブログは、昨年は手に入れた『京都叢書』からいくつか抜粋しながら構成しましたが、今年はより参考にしながら、現存のお寺、明治維新などで廃寺になったお寺、移転先などで構成したいと思っています。


研究については、いよいよ佳境に入ってきましたので、今年はひさしぶりに研究発表する予定でいます。実際、今やれと言われても数時間あればレジメは完成できますから。こちらは2月の京都旅の際、打ち合わせをします。


それでは今年も宜しくお願いします。













1年間ありがとうございました。

今年最後のブログは東福寺塔頭寺院を予定していましたが

お寺の解説文に自分の印象及び解説を書いていたら、とても年内にはできそうにないと判断して新年にアップすることにしました。

年末年始の8連勤中ですからね、無理ですわ。

来年の更新に期待してください。

それでは1年間ありがとうございました。












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