菊蔵の「旅は京都、さらなり」(旅と歴史ブログ)
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2026・4月京都回想記⑥〜酬恩庵 2

酬恩庵のつづきです。 

 

 

 
青もみじに包まれた中門。
 
ここで現代風にアレンジした新選組のコスプレをした女性をカメラマンが取っていました😊。
 
ちょっと待たされたぞ😡。
 

 
本堂への参道
 

 
本堂(仏殿)
 
永享年間(1429〜1441)室町幕府六代将軍・足利義教の帰依により建立されました。
 
内部には釈迦三尊像(釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩)が鎮座しています。
 
 

 
シネマショットで撮ったら、美しさが倍増しました🤗(画像は通常モード)。
 

 
宝物殿
 
一休さんの頂相等が展示されています。17年前には無かったと思う。
 

 
開山堂
 
南浦招明像が安置されています。
 

 
公式サイトには出てきませんが、一休像。
 

 
こちらは有名な少年一休像。
 

 
本堂のある境内は池泉回遊式庭園になっています。
 

 
真ん中〜🎯
 

 

 
二十世紀の庭に佇む石仏群。
 

 
お墓の案内はあっても足は運びません😔。
 

 
鐘楼
 

 
待月軒

違ってたらご指摘してください🙇。
 

 
自撮りしようかと思ったけど、手が伸びないから無理でした😁。
 

 

 浴室

 

 

 
一休禅師、蓮如上人と新衛門さん3人で🤭植えた三本杉。現在は2代目です。

※公式サイトでは、蜷川新右衛門ではなく、新衛門になっています。
 

 
参道を歩きながら、名残惜しく振り返る。


次回最終回

今回は研究発表がメインだったので、未公開画像編はありません😥。

 

2026・4月京都回想記⑤〜酬恩庵 1

薪神社から戻り、17年ぶりに総門前。 
 

 
酬恩庵
 

 
寺号標
 

 
手水舎と参道

酬恩庵

京田辺市薪里ノ内にある臨済宗大徳寺派の寺。霊瑞山と号す。本尊釈迦如来。通称一休寺。
正応年間(1288~93)南浦紹明が創建した妙勝禅寺が前身。元弘の乱(1331)で荒廃し、康正二年(1456)一休宗純がその旧地に草庵を建て、法祖の恩に酬いるの意から酬恩庵と称す。
文明七年(1475)一休はかつて住した洛東の虎丘庵を当地に移し、方一間、入母屋造の寿塔・慈楊塔を建立。同十三年に一休が没すると、この塔に奉葬して廟所となる。永正三年(1506)本堂を建立。慶安三年(1650)前田利常の寄進により方丈および玄関を建立し、以後、庫裏・東司・浴室・鐘楼などを次々と造営。本堂・方丈など六棟の建造物はいずれも重要文化財。本堂は桁行三間、梁間三間、入母屋造、檜皮葺の典型的な禅宗仏堂で、洛中洛外でも最も古い仏堂遺構の一。境内一円の庭園は国の名勝で、特に方丈東庭の「十六羅漢の庭」は有名。方丈の庭園は南・東・北の三庭からなり、作庭は松花堂昭乗・佐川田喜六・石川丈山の合作と伝える。寺宝として、重要文化財の絹本著色一休和尚像・木像一休和尚坐像・後花園天皇宸翰女房奉書などを所蔵。

参考 『京都大事典』(佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか 淡交社 昭和五十九年)
 

 
諸悪莫作
衆善奉行

一休宗純の筆となる七仏通戒の偶詞白。

 

 
秋は🍁の参道に変身します。
 

 
宗純王廟(一休宗純の墓)

文明十三年(1481)に示寂されましたが、これに先立つ文明七年(1475)ここに寿塔を立て慈楊塔を名付けられました。

 

 
庫裏
 

 
受付後の虎の衝立は前回と変わりません。位置は違っていたような🤔。
 


方丈南庭

借景は宗純王廟と虎丘庵。刈込と蘇鉄のバランスが良いね😊。
 

 
方丈と庭園の画像を撮りたかったけど、ずっとスマホをいじってる拝観の方がおられ、撮れませんでした。

2周目もまだいじってた😡。

方丈には複製ですが、狩野探幽の襖絵があります。
 

 
東庭

十六羅漢の庭

 
北庭

ひときわ目立つ巨石は観音石として用いられています。

長いこと眺めていましたが、近過ぎと枯滝落水のそこまでイメージできません。少し離れたほうがイメージしやすいでしょう🤓。
 

 
 

 
方丈裏は雁行形になっており、廊下と建物の間の空間が気に入って撮りました😄。


つづく〜

2026・4月京都回想記④〜薪神社

酬恩庵に到着するも、山門の先で3人ほど長いこと写真を撮っていまして、暇つぶしに近くを眺めていたら、神社の案内を発見。
 

 
一休坂の石標にもたれかかるように薪神社の案内がりました。前回気が付かなかったのは、行きは駐車場から入って、帰り際に山門を撮ったから気づかなかったのでしょう。
 
 

 
薪神社
 

 
一之鳥居
 

 
京田辺市・京田辺市文化財保護審議会の駒札。
 
薪神社
 
 明治四十年(1907)、この近くにあった天神社と天神社の南東150㍍にあった八幡社を合祀し、薪神社とした。
 このためそれぞれの祭神であった天津彦根命(天照大神の子)と応神天皇を祭神としている。
 現在の本殿は東に面する一間社流造で、屋根は銅板葺である。
 拝殿の南東側には、かつて甘南備山山頂にあり、月読命が寄り付いたと伝えられる影向石がある。
 天神社には神宮寺として光通寺があったが、明治の初めの神仏分離令により廃寺となり、十一面観音立像などの仏像等は近くの西光寺に移された。
 
末社   武内神社・住吉神社・金毘羅神社・猿田彦神社   くさ神
 
例祭   十月十五日
 
 
ふむふむ🤔。
 
 

 
能楽発祥の地の碑
 

 
石碑の横脇には昭和六十年文学博士志賀剛の能楽発祥の碑の説明板。
 
「能楽は薪能即ち金春能に初まり次に宝生能観世能は大住に金剛能は大和に発祥した」
 

 
境内
 

 
二之鳥居
 

 
拝殿
 

 
本殿
 
御祭神は天津彦根命・応神天皇。
 
本殿の両側に駒札に記されていた、武内神社、住吉神社が鎮座しています。
 

 
撫で牛
 
こちらでも内臓に達するまでナデナデ🤭。
 

 
明治神宮遥拝所
 
神社のある薪は、石清水八幡宮の荘園・薪荘なります(薪薗とも呼ばれました)。石清水八幡宮の神楽燎料に薪を調達し、荘民の一部は八幡宮の神人として奉仕していましたから、石清水八幡宮ではなくて明治神宮は意外でした。
 
参考  『京都府の歴史』(山川出版社  1999年)
 

 
甘南備山山頂にあった月読命が寄り付いた影向石かな🤔。
 

 
金毘羅社
 
 

 
猿田彦社
 
酬恩庵へ戻ります。
 
 
えっと・・くさ神は?😆。
 
 

2026・4月京都回想記③〜一休とんちロード

棚倉孫神社から酬恩庵へ向かう途中、グーグルマップに天神堂の表示。酬恩庵からは遠ざかるけど、たいした距離じゃないから行ってみる。
 

 
この石碑の下の部分が読めません😭。
 
 

 
マップ上では天神堂ですが、専修院という浄土宗寺院でした🤔。山門の先が墓地だったので、境内に入れば天神堂があると思いますが、昔の農道を舗装したためか、道が入り組んでいたので諦めて酬恩庵へ向かいました😟。
 
 

 
一休とんちロード😊
 
 

 
一休さんの逸話等が電柱に貼り付けてあります。
 
車観光では味わえません😁。
 
 

 
厳島神社
 
 

 
薪公民館前にあった、清規校跡の駒札。
 
読んでね🤗
 
 

 
意外と長い一休とんちロード。
 
酬恩庵はまだまだ先です。
 
 
つづく〜

2026・4月京都回想記②〜棚倉孫神社

研究発表の翌日は近鉄京都線で新田辺駅。
 
 

 
17年ぶりの京田辺市。その時は酬恩庵へは車で来ました。
 

 
酬恩庵へ向い、途中にある式内社を参拝。
 

 
棚倉孫神社
 

 
社号標
 

 
京田辺市と京田辺市文化財保護審議会の棚倉孫神社と瑞饋神輿の由緒書。
 
天香古山命(別名高倉下命・手栗彦命)を祀る式内社で大社に位置づけられていた。『日本三代実録』の貞観元年(859)正月従五位上に叙せられた諸神に「棚倉孫神」と記されている。
 
瑞饋神輿は後ほど。
 

 
棚倉孫神社説明板
 
由緒として、相楽郡の棚倉ノ庄から推古天皇三十一年に勧請したとされる高倉下命を祀ったことによるとあります🤓。
 

 
境内
 
雰囲気は良いです。
 

 
本殿のある境内へ向います。
 

 
社務所
 

 
京田辺市と京田辺市文化財保護審議会の駒札。
 
社務所は神宮寺であった松寿院の跡地になります。
 

 
手水舎
 

 
元禄十五年(1702)淀藩主・石川憲之が奉納した石鳥居。
 

 
拝殿
 
明和五年(1768)の再建。
 

 
本殿は京都府登録文化財。桃山時代の特徴をよく残す貴重な社殿。
 

 
五社殿
 
正一位寳蓮稲荷大明神、紅梅殿・老松社、春日明神・天照皇大神宮・八幡大菩薩、多賀神社、稲荷神社の八柱が五社が祀られています。
 
 

 
絵馬殿
 
けっこう貴重な絵馬があるそうですが、スルーしてしまいました😭。
 

 
ずいき神輿
 
中には二基の瑞饋神輿がありました。
 

 
子供神輿かな🤔。
 

 
瑞饋神輿ですから、野菜で飾られるのですね。
 

 
式場
 

 
撫で牛は内臓まで(気持ね)ナデナデした😤。
 

 
最近南山城の神社参拝にはまっています。次回京都も南山城です😆。
 
予定では名古屋から関西本線で行きます😊。
 

 
金毘羅社
 
その後、あちこち寄り道しながら酬恩庵へ着きましたが、案内を見て先にそちらの神社へ足を運びました。
 
つづく〜
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