北山にある鹿苑寺(金閣寺)です。

 

 

北山鹿苑寺といい、相国寺の境外塔頭。

境内の舎利殿(金閣)が有名であることから金閣寺の通称があります。

この地には鎌倉時代、公家の西園寺公経が創建した西園寺がありました。西園寺家は鎌倉時代、関東申次(朝廷と鎌倉幕府の伝令役)を世襲して権力を持ちますが鎌倉幕府は滅亡。建武2年(1335年)、当主・西園寺公宗が北条残党と結託して後醍醐天皇を暗殺しようとしたとして処刑され、衰退します。

室町幕府3代将軍・足利義満は、応永元年(1394年)、将軍位と室町第を嫡男義持に譲り隠居。翌年出家するも従一位太政大臣に任じられ、権力を保持。応永4年、西園寺家が所有していたこの地を河内の土地と交換して手に入れ、隠居後の邸宅の建造に取り掛かります。応永6年、完成した邸宅は北山第と呼ばれます。北山第にちなんで、義満の頃の文化を北山文化と呼びます。応永14年、義満の継室・日野康子が後小松天皇の准母として院号宣下、北山院と号します。応永15年、義満は、嫡男以外は出家させる足利将軍家の伝統を破り、梶井門跡に入っていた四男・義嗣を呼び戻して北山第に住まわせ、従三位参議とします。同年、義満は北山第において51歳で死去。応永16年、室町幕府4代将軍となった足利義持は北山第から異母弟の義嗣を追放。応永26年、北山院が北山第で没。応永27年、義持は北山第にあった建物を移築・破却して縮小、舎利殿などの部分を禅寺に改めます。開基は既に亡くなっていた足利義満。開山は入滅していた無窓礎石。寺名の鹿苑寺は、義満の法号・鹿苑院殿天山道義大居士から取られました。

応仁元年(1467年)、応仁の乱勃発。鹿苑寺は西軍(山名宗全方)の陣地となったために戦火で焼失(舎利殿は焼け残ります)。その後は室町幕府の衰退とともに衰退しました。

創建以来、鹿苑院住職は相国寺門主の兼任でしたが、江戸時代初期、徳川家康の命により相国寺92世・西笑承兌が初めて独住、鹿苑寺1世となり、鹿苑寺を復興。明治25年、舎利殿が国宝に指定。昭和25年、放火により舎利殿焼失。このとき舎利殿内に安置されていた国宝・足利義満像も焼失。昭和27年より舎利殿の再建開始、昭和30年、現在の舎利殿が完成。現在は、臨済宗相国寺派管長・有馬頼底氏が相国寺・鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)住職を兼任しています。

平成6年(1994年)、「古都京都の文化財」としてユネスコの世界文化遺産に登録。

神仏巡礼巡拝の道93番(京都13番)札所。

 

 

庫裏。

 

 

方丈。

延宝6年(1678年)、後水尾上皇の寄進によるもの。

鹿苑寺の本堂で、本尊・聖観音菩薩坐像が安置されています。

 

 

陸舟の松。

樹齢約600年の松で、足利義満手植えと伝承されるそうです。

 

 

舎利殿。

二層目、三層目に金箔が貼られているために金閣の称があります。

創建当時のものは国宝に指定されていましたが、昭和25年(1950年)、放火により焼失。現在のものは、昭和27年より再建が開始され昭和30年に完成したもの。

一層目は寝殿造、二層目は書院造、三層目は禅宗様。屋根は柿葺。

 

 

庭園。

金閣の姿を水面に写す鏡湖池を中心とする池泉回遊式庭園。

足利義満の頃の造営で、国の特別名勝、特別史跡。

 

 

銀河泉。

足利義満が茶の湯に用いたと言われる湧水。

 

 

安民沢。

境内の高台にあり、鹿苑寺創建前、鎌倉時代の西園寺の遺構とされます。

池の中央には石塔があり、白蛇の塚と呼ばれています。白蛇は水の守り神で、西園寺の鎮守とされていたそうです。

 

 

夕佳亭。

茶室。

鹿苑寺2世・鳳林承章が茶人の金森宗和好みに造らせたとされます。

現在のものは、明治7年の再建。

 

 

 

鹿苑寺(金閣寺);京都市北区金閣寺町1