前回の続きです。

 

2階にはコレクションギャラリー、てっぱくシアターなどの展示があります。

今回のリニューアルでこの辺りの展示が拡充されています。

 

 

コレクションギャラリー。

交通博物館以来のコレクションを展示しています。

 

 

 

ここから外に出ます。

3階のテラス(違うかもしれません)

 

 

鉄道博物館は新幹線のすぐとなりなので、迫力ある新幹線の姿を見ることが出来ます。

 

 

 

すぐ近くの在来線を見ることも出来ます。

 

 

かつて「スーパーひたち」に使われ、今は「スワローあかぎ」に使われている651系。

ここで中に入ります。

 


「科学」のコーナー。

これはどうして鉄道の車輪はカーブを曲がれるのか、を考察するもの。

 

 

 

 

 

ここで再び外へ。

 

 

スーパーこまちが通過。

 

 

そして再び1階に降りて見残した車両たちを見ます。

 

 

東北・上越新幹線の顔だった200系。

ふと思い出したのですが東北・上越新幹線開業当初の始発駅は大宮駅だったことを覚えていますか?

諸事情で上野~大宮間は開業が遅れてしまい、やむを得ず185系による連絡列車「新幹線リレー号」を在来線に走らせていました。

 

 

 

 

国鉄101系。

 

 

いわゆる「新性能車」の元祖です。

主に中央線に投入されました。

車両は変わりましたが、今もこの色は踏襲されています。

 

 

国鉄C51形蒸気機関車。

 

 

戦前「燕」、そしてお召し列車も牽引した旅客用蒸気機関車です。

ファンの人気も高い車両ですが、どうじてこんな目立たないところに展示してあるのか、来るたびに疑問に感じています。

 

 

少し離れたところに東海道新幹線0系。

 

 

 

新幹線が開業するまでの経緯が書かれています。

 

ご存知かと思いますが、日本の鉄道のレールの幅(軌間)は1067ミリであり、世界標準の1435ミリよりも狭いため、大型化・高速化に限界があり、1435ミリ(標準軌)への改軌を求める声が早くも明治時代から根強くありました。

私の家の近くにその改軌の実現を目指した実験を行った線が存在します。

 

 

今年開業110周年を迎える横浜線。

橋本~町田間は線路がこのように真っ直ぐになっていますが、これは1917年、当時の鉄道院工作局長を努めていた島安次郎氏が後藤新平総裁の同意のもとに改軌実験を行った名残です。

実験の成績は良く、改軌計画も具体化しましたが翌年1918年寺内正毅内閣が倒れ、日本初の本格的政党内閣原敬内閣の成立により改軌計画は幻になりました。

原内閣の与党、立憲政友会は藩閥・官僚に対抗して政党の勢力拡大を図るため鉄道の新線計画を強力に推し進めていたためです。

戦後、島安次郎氏のご子息島秀雄さんと後藤新平氏の弟子筋に当たる十河信二氏により1964年にようやく戦前の改軌論の実現とも言うべき東海道新幹線が開業に漕ぎ着けました。

 

話がそれました。

 

 

0系の台車です。

 

 

ここで再び外へ出て新館へ向かいます。

 

 

183系特急電車。

この車両はランチトレインになっています。

7月5日に開館したばかりの新館に入ります。

 

 

東北新幹線E5系。

 

 

山形新幹線400系。

山形新幹線はいわゆる「ミニ新幹線」で在来線のレールの幅を広げて新幹線が乗り換えせずに乗り入れられるようにしたものです。

ただしカーブやトンネルの規格は在来線のままのため、小さな車両を作る必要があり、またミニ新幹線区間内はスピードは在来線のままです。

このため山形新幹線では「フル規格新幹線の着工を!」と声が上がっています。

しかしフル規格新幹線は東海道・山陽新幹線のように輸送量が逼迫して複々線化が求められていた区間でのみ有効な規格であり、それ以外の線区ではミニ新幹線が工事費用や経営上の面からも妥当です。

高速化という事であれば、ミニ新幹線区間のカーブ、ブレーキ設備などの地道な改良で対応すべきと考えます。

 

話を戻します。

 

 

 

新館の2階から撮影。

 

 

新館2階は鉄道の未来を考えるコーナーがあります。

 

 

 

最近流行りの人工知能、AIを利用した混雑への対応方法も展示されています。

 

そして新館の3階は歴史コーナー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今でも一部の鉄道ファンから懐かしがられる日本国有鉄道(国鉄)は最後は大赤字でした。

戦後の発足時に料金決定権を含む十分な経営自主権が与えられなかったために労使関係は乱れ、今なぜか人気の高い田中角栄センセイが作った鉄道建設公団の作った赤字確実の新線を押し付けられる、などなどの理由によります。

結局国鉄再建監理委員会の提言により国鉄は分割民営化され、ようやく経営の自主権を手に入れて真っ当な会社経営ができるようになったのでした。

 

 

 

1987年の国鉄分割民営化当時を表す表示。

 


民営化から31年経ち、JR北海道、四国についてはなお前途多難ながらJRグループの経営は軌道に乗ることができました。

という事で見終わったのは午後1時半頃、約三時間かかりました。

鉄道車両を見るだけでなく、鉄道の過去、現在、そして未来を考えることができる総合鉄道テーマパークとなっています。

鉄道は近代文明を支える重要な社会的システムであることが改めて理解できました。

 

館内に食堂、カフェがありますが、混雑していてここでの昼食は断念せざるを得ませんでした。

 

 

 

エントランスのカットモデル。

 

 

再びニューシャトルに乗り、大宮駅へ。

大宮で降りて昼食。

 

 

 

余談ながらここは今は「さいたま市」ですが、私はあまり「さいたま市」とは言わず、旧称の大宮・浦和で呼ぶことが多いです。

意外とそう言う人は多いと思います。

大宮駅から帰路に就きました。

 

 

 

前回の続きです。

 

EF66形電気機関車。

 

 

1000トンの貨物列車を100キロ以上の高速で牽引するために製造された機関車。

いわゆるヨーロピアンスタイルで人気を集め、その後東京発九州方面のブルートレインの牽引機にも抜擢され、美しい本機が牽引する姿はブルートレインの人気をさらに高めました。

九州ブルートレインの牽引機がこのEF66で有終の美を飾れたことはファンにとっては幸せであったと言うべきでしょう。

 

そしてこのEF66に牽引された貨車が連結されて展示されています。

コキ50000。

 

 

いわゆるコンテナー車です。

 

 

こちらは鮮魚列車の高速化のために製造されたレムフ10000形。

 

 

 

ED75形電気機関車。

 

 

これはこれまでご紹介した電気機関車が直流電気で動くのに対し、交流で動く交流型電気機関車。

変電所などの地上設備が不要になり、小さな車体で大きな力を出せることから、東北、九州など最近になって電化された区間では交流が用いられるようになっています。

このED75は700番代と言われる奥羽本線・羽越本線で用いられた機関車でブルートレイン「あけぼの」「日本海」の牽引にも用いられました。

 

クハ481形特急型電車。

 

 

この車両は交流50ヘルツ・60ヘルツ・直流の3つの異なる電圧の区間の通し運転を可能にするために製造されました。

この後ろにモハ484形、いわゆる485系電車の電動車が連結されています。

 

 

この車両は四国を除く日本各地に配属され、特急網の形成に大きく貢献しました。

 

 

モハ484形の屋根。

碍子など交流の電気を直流に変換する装置が付けられています。

いわば走る変電所です。

 

 

 

モハ484形の車体。

 

クモハ455形。

 

 

50ヘルツの交流電化区間と直流電化区間を運転できる急行型電車。

主に東北本線の客車急行を電車化し、スピードアップに貢献しましたが、その後上記の485系の増備により急行の特急化が推進されたため、活躍の場を失い、晩年は普通列車として細々と走っていました。

 

クハ181形。

 

 

新幹線0系を設計した島秀雄さんが0系の前に設計した151系特急電車のパワーアップ版181系の制御車。

151系は東海道本線にビジネス特急として投入され、東京~大阪間を6時間台で結び、日帰り出張を可能とするなど、日本の鉄道の高速化に大きく貢献。

東海道新幹線開業後は181系に改造されて山陽本線や上越線、信越本線、中央本線で活躍し、特急網の拡充に大きく貢献。

先述の485系はこの181系が入線できなかった交流電化区間に特急網を伸ばすために製造されたものです。

 

さて、ここで一部の車両の撮影を残して2階に上がります。

2階には日本の鉄道を歩みをたどることができる模型が展示されています。

 

 

 

 

 

 

 

これらの模型はほんの一部です。

余談ですが、これらの模型を撮影するのに夢中になり、小さな子供に怪我をさせそうになってしまい、親御さんにご迷惑をかけてしまいました。

この鉄道博物館は多くの親子連れで賑わっているので小さなお子さんが走り回っています。

訪れる方は親子連れの方には気を使っていただければ幸いです。

親子で気持ちよくこの鉄道博物館での有意義な時間を過ごせるように少しでもご協力ください。

よろしくお願いします。

 

そして2階から1階に展示されている車両たちを写すことができます。

以下まとめて掲載します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2階からの眺めはまた格別です。

撮影しているうちに人だかりが出来ていました。

時計を見ると12時近く。

そう言えばいよいよ鉄博の目玉イベントが始まる時間。

C57 135号機の転車台回転・汽笛吹鳴実演の時間です。

 

このイベントは時間を置いて10数枚撮影しました。

折角なのですべて掲載します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

方向転換を行いながら、時々汽笛を鳴らし、スタッフが解説します。

録画・録音機材持っていけば良かったな(T_T)

このイベントは実際に見ないとわかりません。

是非時間を調べてから行って見てください。

きっと忘れられない思い出になるはずです。

 

(その3に続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年9月15日 日曜日 

この日は埼玉県さいたま市にある東日本旅客鉄道(JR東日本)の運営する鉄道博物館(鉄博)に行きました。

 

鉄道博物館公式サイト

 

老若男女を問わず楽しめる鉄道テーマパークで、とても面白かったです。

 

この鉄博に行くのは今回で三回目です。

さらに鉄博の前身で秋葉原駅の近くの旧万世橋駅の跡地にあった交通博物館にも2回行っています。

私も鉄道ファンの端くれなのでつい足が向いてしまうのです。

 

そしてこの鉄道博物館は今年7月5日に新館が完成し、リニューアルが行われました。

FBの鉄道ファンの友人の一人が早くもここに行っていてFBで報告し、しばらく鉄博に行っていなかったのを幸いに私も行くことにしました。

 

鉄道博物館は埼玉県さいたま市の大宮駅から新交通システムニューシャトル 大成(鉄道博物館)駅で行く必要があります。

遠いように思いますが、今は自宅の最寄り駅から小田急線快速急行、新宿から湘南新宿ラインで行けば割と近いです。

昔祖父母を訪ねに埼玉県の行田に行くときは途中の大宮駅に行くのはもっと時間がかかったと記憶していますが、便利になったものです。

 

という事で小田急線、少年新宿ラインを乗り継いて大宮駅へ。

少し歩いてニューシャトル大宮駅へ。

 

 

午前10時ぐらいでしたが、早くも親子連れでいっぱいです。

鉄博に向かう人達でした。

 

次の大成駅で下車。

すぐ近くに鉄道博物館があります。

早くも並んでいましたが、それほど待たずに入れました。

 

 

入ったのは午前10時20分でした。

 

 

これは蒸気機関車の動輪。

エントランスにも蒸気機関車のカットモデルなどが展示されています。

 

 

早くも親子連れで混雑していました。

鉄道博物館にはいわゆる「鉄オタ」が集う場所、と言う偏見がまだあるかもしれませんが今の鉄道博物館は違います。

老若男女、世代を越えて楽しめる鉄道テーマパークになっています。

JRグループの他の会社が運営する博物館も似たつくりになっているはずです。

これは国立科学博物館などの自然科学系博物館が科学テーマパークのようになり、人気を集めているのと同じであるとお考えいただければわかりやすいと思います。

 

ここは資料の一部を除き、ほぼ撮影可能です。

という事で嬉しさのあまり200枚以上も撮影するという暴挙(^.^;に至りましたが、その写真から選んで掲載していきます。

 

まずはこの機関車。

 

 

1872年10月14日 日本で初めて開業した官営鉄道 新橋~横浜間を走った機関車 1号機関車。

国鉄150形蒸気機関車です。

この1号、と言う名称には特に深い意味はなく、最初に到着したのがこの機関車だったから、と言う単純な理由のようです。

その後、島原鉄道に譲渡されましたが、最初の貴重な機関車であることから再び国鉄に戻され、鉄博の前身、交通博物館で保存されていました。

国の重要文化財でもあります。

 

 

 

この1号機関車の隣にあるのが

国鉄7100形蒸気機関車「弁慶号」です。

 

 

こちらは1880年北海道最初の鉄道、官営幌内鉄道が開業した時に使われたものでアメリカからの輸入のため、アメリカン・スタイルになっています。

なお、同じ形式の「義経号」が京都鉄道博物館、「静」が小樽市総合博物館で保管されています。

そしてこの弁慶号の後ろには

 

 

同じ官営幌内鉄道で使われた客車「開拓使」号も保管されています。

 

お次はこの機関車。

 

 

「何?この車体を切り刻んだ機関車は?」

・・・という声が出そうなこの機関車は国鉄9850形、マレー式蒸気機関車です。

マレー式というのは通常の蒸気機関車であれば左右一つずつのシリンダーを左右2つにして、パワー増大を狙った機関車で、日本では現在の御殿場線などの勾配のある線区向けにドイツから輸入されました。

しかし使いにくいことから短期間で引退。

この機関車は1924年に保管される時に内部がわかるように切開されています。

 

 

大胆に切開されています。

 

 

そして次はこれ。

 

 

ハニフ1客車・・・ですが、実は甲武鉄道で走っていた電車の成れの果てで、国鉄・JRの通勤電車の元祖。

 

 

1290形蒸気機関車「善光号」

サドルタンク式と言われる少し変わった形式の機関車。

この機関車は地下への階段を降りて下部構造が見られるようになっています。

 

 

 

他の車両でもこのような展示の工夫がされているものがあり、車両がどの様にして走るのかをうかがい知ることが出来ます。

 

そして今回の鉄道博物館で一番見たかったのがこれ。

 

 

皆さん、これ何かに似てませんか?

 

 

トーベ・ヤンソンの名作「ムーミン」に出てくるムーミンに似ているでしょう。

そう、あだ名はまさしく「ムーミン」。

国鉄EF55形電気機関車です。

1936年、当時世界的に流行していた流線型をまとって登場し、特急「富士」「燕」牽引に用いられました。

ところがこの機関車の致命的な欠点として片方しか運転台がなく、終点で転車台による方向転換が必要となることや、流線型のカバーが保守の際にじゃまになる、と言う理由で嫌われ、早い時期に引退に追い込まれます。

幸いJR化後にこの1号機が動態保存機として復活し、近年までイベント列車を牽引、老朽化により引退後、この鉄博に安住の地を得ました。

 

 

こちらはC57 135号機。

 

 

1975年12月北海道の室蘭本線で蒸気機関車の牽引する最後の定期旅客列車に用いられました。

 

 

 

 

この機関車はこの博物館のあるメインイベントに使われています。

後ほどそのイベントの写真をお見せしましょう。

 

こちらは国鉄クモハ40.

 

 

国鉄最初の20メートル長のモーター付き電車で、今のJRや私鉄で走る通勤型電車の一番最初のモデル、といえば良いでしょうか。

この車両は中に入れます。

 

 

実はこの車両を見るたびにある疑問が浮かんできます。

この車両は1990年代の社会的ブームになったあるアニメの有名な場面に出てくるのではないか?

・・・そのアニメは「新世紀エヴァンゲリオン」第拾六話「死に至る病、そして」で主人公碇シンジが使徒に閉じ込められた状態で見た心境風景にこのクモハ40の車内に似た場面があります。

新世紀エヴァンゲリオンの監督庵野秀明さんは山口県宇部市出身ですが、宇部市には国鉄・JR西日本 宇部線が走っており、庵野さんの子供のころはこのクモハ40とほぼ同系のクモハ41が走っていました。

庵野さんはアニメの場面を子供の時に見た夢から取ったと言っていますが、その夢を再現する資料としてこのクモハ40の車内の写真を用いているのではないか?と私は考えています。

あくまで仮説です。

 

こちらはオハ31

 

 

国鉄最初の鋼製客車でそれまで木製だった客車より遥かに居住性、耐久性に優れたものになっています。

 

 

車内です。

 

 

ストーブがついています。

実はこの車両はかつて津軽鉄道でストーブ列車に用いられていたものです。

現在の津軽鉄道では二代目の車両を国鉄から譲ってもらって使用しており、初代のこのオハ31が戻されてこの鉄博に展示されています。

 

こんな珍車もあります。

 

 

宮城県旧松山町を走っていた松山人車軌道の車両。

人車とは要するにレールの上を走る人力車。

開業時にはもはや時代錯誤の代物になっており、今の運輸省も早く馬車鉄道などに転換するように、との条件を付けたそうです。

結局数年で廃止、バス転換しています。

 

こちらはマイテ39

 

 

1等展望車です。

 

 

戦前の富士・燕、戦後はつばめ・はとで使用されました。

 

 

桃山式と言われる一等車の内装。

大変豪華で外国人観光客向けに制作されました。

今で言えばJR九州のななつ星にあたるでしょうか。

 

こちらはマイテ39にも使用されている三軸ボギー台車。

 

 

乗り心地が良いため、戦前の寝台車、1等・2等客車に使われました。

 

国鉄ナデ6110形電車。

 

 

木製ながらボギー台車を使用しています。

 

 

国鉄ED40形電気機関車。

 

 

無骨なスタイルですが、日本初の国産電気機関車で、横川・軽井沢間のいわゆる横軽越えに用いられました。

 

 

特徴ある台車周り。

スコッチヨークと言われるアプト式鉄道独特の足回りです。

 

 

近くにはアプト式鉄道の原理を表した模型が展示されています。

これは交通博物館時代からあるものです。

 

 

国鉄ED17形電気機関車。

イギリスからの輸入電機。

 

 

この車両は1921年締結のワシントン軍縮条約を有利に運ぶために英国から優先的に購入されたとする説があります。

当時の英国の電気機関車は発展途上で性能が良くなかったのです。

この機関車も故障も多かったらしいのですが、その後改造を重ねて安定した走りを見せるようになり、優美なスタイルで人気もありました。

鉄道は国の発展を左右するだけに政治の流れの影響を受けやすいのです。

 

EF58形電気機関車。

 

 

「ゴハチ」と言う愛称で親しまれ、「つばめ」「はと」やブルートレイン「あさかぜ」などの優等列車を牽引し、人気を集めました。

61号機はお召列車牽引機に指定されました。

この89号機は晩年青色から茶色に塗装を変更されてイベント列車に使われ大変な人気を呼びました。

そのお陰か、引退後はこの鉄道博物館に安住の地を得ることが出来ました。

 

 

機器が見えます。

このEF58は運転台にも入れますが、親子連れで一杯で諦めました。

 

国鉄客車ナハネフ22形。

 

 

いわゆる「ブルートレイン」寝台特急に用いられた車両で「走るホテル」と言うキャッチフレーズと共に登場しました。

 

 

 

内装が再現されています

当時はこれでも豪華だったのでしょうが、現代の水準で見ると明らかに見劣りがします。

他の観客も「これでは乗る気にならないです。」と言う方がいました。

寝台車はその後ベッドの幅の拡充、3段から2段寝台への変更など居住性の向上が図られましたが、航空路線と新幹線の発展、ビジネスホテルの進出には勝てず、客車による寝台列車は完全に廃止されています。

今でもノスタルジーに浸るファンの間から寝台列車を廃止すべきでなかった、論が出てきますが、それは現実逃避の空論でしょう。

寝台列車はJR九州のななつ星など寝台列車の旅を楽しむ列車として生き残るべきだと思います。

 

御料車。

即ち天皇・皇后をはじめ皇族の方々がお乗りになる貴賓車両です。

こちらは1号御料車などと呼ばれていますが、ガラスケースで厳重に保管され、内部も見ることが出来ないので詳しい説明は省略します。

 

 

 

 

 

 

 

 

キハ41300形気動車。

かつてはガソリン、その後ディーゼル機関で駆動する車両。

 

 

 

 

この車両は風景を投影し、実際に走っているように見せています。

長閑な風景で、ノスタルジーに浸れます。

 

(その2へ続く)

 

2018年9月2日 日曜日の日記です。

今回は金融経済読書会FED講演 伊神満「イノベーターのジレンマの経済学的解明」の読書会に参加しました。

最近行った経済系の読書会とも異なる経済系の読書会です。

経済学に興味のある方ならFacebookをやっていれば自然に浮かんでくると思いますのでチェックしてみてください。

 

この読書会に参加するのは二回目。

一回目はこのブログに書いていなかったのですが、せっかくなので思い出せる範囲で簡単に書いておきます。

 

その時の課題本はこれ。

 

 

ケネス・S・ロゴフ「現金の呪い」

中々刺激的なタイトルの本。

内容は簡単に言うと、クレジットカード、電子マネーなどの普及により欧米各国ではあまり使われなくなっている高額紙幣(日本で言えば額面5千円以上の紙幣)が犯罪組織のマネーロンダリングに使われていることを理由に廃止してしまうことを主張しています。

 

そしてこの時はゲストとして日本の経済学者で一橋大学経済学部教授の斎藤誠さんをお招きし、講演のあと、討議を行いました。

斉藤先生の講演の内容は次の二点。

①アベノミクスの進行によりマーシャルのK(ググってみてください)が第二次世界大戦直前の日本と同じくらいの水準に上昇しており、戦後日本のようなインフレにつながる恐れがある。

②ロゴフ教授の主張については戦後日本で政府の信用が失われた状況下でのインフレの時期に一番役に立ったのが皮肉なことに政府が発行していた紙幣だったこと、またマネーロンダリングについてはあくまで摘発をめざすべきであることから高額紙幣廃止には反対。

 

そして斉藤教授の講演を受けて課題本について討議しましたが、参加者の多くは日本でも電子マネーの普及に努めるべきことに賛意を示しつつも、現金の廃止についてはマネーロンダリングなどの犯罪の摘発に努めるのが筋であるとして反対していました。

私も同様に考えます。

 

(注:斉藤教授は日本はデフレ状況とは言えないとの考えからいわゆるアベノミクス、日銀の異次元緩和(要は日銀が金をばらまくこと)には否定的で、それゆえ①での懸念を示しています。

これについて私の考えを少し述べさせていただくと、現在の日本はデフレ状況下にあり、それは労働生産性上昇に見合った供給を実現するための需要が不足していたからである。その需要不足を解消するためには企業投資を促す手段としてアベノミクスは必要だったと考えています。

ただし、マーシャルのKの上昇はバブルが発生する危険を高めるので近い内にアベノミクスの収束策を取ったほうが良いとは思っていますが、ではその時期は何時か?については私の拙い知識では申し上げられません)

 

前置きが長くなりました。

9月2日の読書会について書きます。

課題本はこれ。

 

 

この本の題名を見て「あれ?何だか有名なビジネス本のタイトルに似てるな」と思った貴方は鋭い。

なぜならこの本は有名な経営学の本 クリステンセン「イノベーションのジレンマ」を著者の伊神満先生が経済学的に解き明かした本だからです。

「あれ?タイトルが少し違いなくね?」

・・・いや、実は「イノベーションのジレンマ」は誤訳で「イノベーターのジレンマ」が正確な訳。

だって日本版の本のカバーにもデカデカと「 The Innovator's Dilemma」と書いてあるし。

Amazonで見たときはずっこけた(^.^;

 

著者の伊神満先生は現在米国イェール大学准教授。

東京大学教養学部ラテンアメリカ地域文化研究枠卒業後、今のシティグループ証券に勤務後、東京大学大学院研究科修士になるという少し寄り道した経歴を辿っています。

専攻は先生の公式サイトから引用しますと「 専門は、産業組織論(IO: Industrial Organization = 企業と産業の経済学)の実証分析。研究テーマは、技術革新・M&A・カルテル・参入/退出など、寡占競争の長期的ダイナミクス。 」なのですが、これを読んで理解できる方はどのくらいいるかちょっと自信がありません。

 

伊神満先生の日本語による公式サイト

 

とは言え、最近日本の学者はダメだ、なんて声もあるなか、イェール大学で准教授を努め、米国の学術誌に数多くの論文を掲載している伊神先生は将来きっと世界的に有名な経済学者になることでしょう。

 

今回の本は様々な経済誌に好意的な書評が取り上げられ、読みたいと思っているうちに金融経済読書会から講演会のお知らせがあったので早速申し込みました。

ちなみに今回の講演会は人気で、すぐに満席になりました。

朝9時から、そして課題本の読了が条件とは言えたったの500円で若手の経済学者直々の講演が聞けるのですから当然です。

 

私が読書メーターに書いた感想です。

「ある経済系の読書会で課題本となっていたので読んだ。私はどちらかと言えばマクロ経済学の方に興味があってこちらのミクロ、産業組織論には疎いのだけれども、今までの知識を思い出して大体納得できる内容だった。伊神さんの語り口が面白いのでサプライズを期待してしまうが、そう言うことはないです。企業や産業は政府が監督しない方が良い、と言うのは納得。 」

 

講演会の数日前から再読し、半分ぐらいまで再読して講演会に臨みました。

講演会の場所は水道橋駅近くの貸し会議室で朝9時から開始。

最初に金融経済読書会の代表から読書会の説明があり、続いて伊神先生の講演。

ここから講演会の様子を書くはず・・・ですが、幸いなことに今回の講演すべてがYOUTUBEにアップされています。

せっかくなのでリンクを貼ります。

前・後編に分かれています。

 

伊神満/金融経済読書会FED講演「イノベーターのジレンマの経済学的解明」前編・あなたの問いは何か

 

 

伊神満/金融経済読書会FED講演「イノベーターのジレンマの経済学的解明」後編・誰がための解決

 

長いですが、ぜひ見てください。

経済学の優れた理論はこのようにして生まれていくのだな、と実感しました。

なお、本の感想に書いてありますが、この本について「この本はどうやったら雨後の筍のようにイノベーターが生まれるのか、そのヒントが書いてあるに違いない!」と思わないで下さい。

装丁が派手で、伊神先生の語り口もコミカルなのでそう思ってしまうのですが、これも本当に地道な研究の末に書かれた本なので結論は本当に地味です。

・・・いや、経済学も学問だからそういうものです。

話題になったトマ・ピケティ先生の「21世紀の資本」だって大したこと書いてはいません。

膨大なデータを上手く捌いて格差の研究をうまく一冊にまとめ上げたから称賛されたのです。

 

動画の通り、伊神先生の語りはとても面白く、本の内容の理解も進みました。

他の参加者のみなさんも熱心に聞いていました。

会場からいくつか質問がありましたが、鋭い質問も多く、伊神先生も丁寧に回答されていました。

 

正午近くで講演会は終了。

 

なお、金融経済読書会によると、今回の課題本を元に近いうちに伊神先生の出席はないものの、討論会を行うとのことです。

早くも期待しています。

2018年8月24日 金曜日の日記です。

会社の帰りに「没後50年 藤田嗣治展」を再度見ました。

8月11日 土曜日に見てとても感動し、もう一度見たいと思ったので夜9時まで開館している金曜日(8月のみ)であれば混雑していないと踏んで行きました。

予想通りそれほど混雑しておらず、ゆっくり鑑賞できました。

 

 

 

今回の鑑賞時間は1時間20分ほどです。

一つ一つの作品について感想を述べず、フジタについていくつか知ったこと、気になったことについて書いておこうと思います。

 

前回の鑑賞日記 東京都美術館「没後50年 藤田嗣治展」で「父の像」を見て文豪森鴎外のことを思い出したことを書きましたが、その森鴎外こそフジタに東京美術学校(東京藝術大学)に行くことを薦めた張本人であることをこの本を読んで知りました。

 

 

フジタの作品について主に作品の技法から考察しています。

話を戻すと、フジタの父、嗣章の上司だった森鴎外が嗣章に相談されて東京美術学校を薦めたとのことで、鴎外自身は東京美術学校出身の画家は好みではなかったそうですが、それでも東京美術学校が良いだろう、と答えたのだそうです。

芸術家は芸術家を知るのですね。

もし森鴎外がいなかったら、世界的画家藤田嗣治/レオナール・フジタは生まれなかったかもしれません。

 

そして今回「秋田の娘」などフジタがフランスから日本に帰っていた時期の作品を見て、フジタはこの時期、間違いなく祖国日本にもう一度溶け込もうとしていたように感じました。

「アッツ島玉砕」のような作品もそのような意識があったからこそ描いたのではないかと思います。

やはりフジタも日本人でした。

だが、当時の日本の画壇にはそのフジタの必死の思いは伝わらず、逆に戦争協力者とのレッテルを貼られてしまった。

そのことにフジタはどのくらい傷ついただろうか。

だからフジタは日本を棄てるしかなかった。

フジタがなぜ晩年この絵を描いたのか、もとても良くわかる気がします。

 

 

今回ミュージアムショップでこの本を入手しました。

 

 

この本の数ページをパラパラと読みましたが、著者の近藤さんも私と同じ意見のようです。

そしてこの本の322ページには1949年3月10日日本を去ったフジタが見送りの人たちに語った言葉が書かれています。

「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください。日本画壇は早く世界的水準になってください。」

・・・フジタの痛い気持ちが良く伝わってきます。

 

ちなみに布施英利さんの「藤田嗣治~」ではフジタのこの辺りの気持ちについてはあまり触れられていません。

布施さんの評論の手法ゆえだとは思いますが、あまりにもフジタに対して失礼ではないでしょうか。

 

それでもこれだけは最後に言っておきたいです。

 

「ありがとう、レオナール・フジタ」

 

 

2018年8月19日 日曜日の日記です。

この日は神奈川県海老名市にある有鹿神社、総持院、海老名氏霊堂などの歴史巡りをしました。

 

この日は午後6時から藤沢市で集まりがあり、ではその前に前から興味のあった海老名市の歴史巡りをしてその後相模線でローカル線の旅をして藤沢に行くことにしました。

 

という事で小田急線で海老名駅へ向かいます。

海老名駅の北のJR側の出口から西へ向かいます。

海老名駅でこのようなものを発見。

 

 

海老名市のゆるキャラ、えびーにゅ。

ゆるキャラブームですね。

 

そしてここから西へ。

目指すは有鹿神社。

途中の風景はこの様な感じです。

 

 

田舎…じゃなくて長閑な風景が広がっています。

海老名市は今では駅前にビルが林立していますが、20年ぐらい前まではまだ田んぼがたくさんあり田舎…じゃなくて長閑な風景が広がっていました。

 

グーグルマップにナビしてもらいながら有鹿神社の近くまで来るとこのような神社が。

 

 

 

少し歩くと

 

 

 

有鹿神社に到着。

有鹿神社公式サイト

この有鹿神社は歴史のある神社で天智天皇の時にはすでにあったそうでかつては相模国一之宮だったこともあったそうです。

江戸時代からは海老名周辺の総鎮守様として崇められました。

 

 

規模は一之宮~四ノ宮に比べると小さいですが、由緒正しさが感じられます。

 

 

神社らしい神木。

 

有鹿神社を出て近くにある総持院へ。

 

 

 

 

歴史を感じさせる雰囲気です。

ここは真言宗のお寺で754年に開基されたそうです。

 

 

 

この辺り一帯にかつて御屋敷・屋島等の地名があり、鎌倉時代に本拠地を置いた海老名氏の本拠があったと考えられており、御屋敷遺跡という遺跡もあるそうです。

ただし遺跡からは江戸時代以降のものしか出土していないとのことでした。

 

ちなみにこの海老名氏、そして御屋敷という地名のことは私が海老名高校生だった頃に長谷川先生という地理の熱心な先生に海老名周辺の地理や郷土史について教えてもらっていたので良く覚えています。

以前紹介した相模国分寺跡などもその長谷川先生が野外授業で教えてくださったものです。

 

総持寺を出ると海老名氏霊堂なるものがあるとのことでグーグルマップを見ながら歩くと

 

 

 

海老名氏霊堂です。

海老名氏は鎌倉幕府の公式歴史書とも言える吾妻鏡にも出てくる有力武将でしたが、和田合戦で凋落の道をたどり、室町時代の永享の乱で関東公方足利持氏についたため滅んでしまいました。

 

この辺りはかつて宝樹寺と言う寺があったそうでこの霊堂がその名残のようです。

 

そして近くに海老名市立歴史収蔵館なる建物があるらしいので寄ってみました。

 

 

海老名市立歴史資料収蔵館公式サイト

 

と言っても市の資料館なのでそれほど大したものではありませんでしたが、館員の方が朴訥ながら熱心な方で面白い話を聞くことができました。

私の通っていた海老名高等学校のすぐ近くに江戸時代今福家と言う地主がいたそうで、それに関する展示がありました。

海老名高校の近くにまさかそのような地主がいたとはつゆ知らず、ついつい質問を重ねてしまいました。

長谷川先生は教えてくださらなかったと記憶しています。

その今福家の家の一部は今は海老名市に寄付され、公園になっているそうです。

そう言えば高校の時、教育実習生に来た一人に今福さんという方がいました。

海老名高校1期生だったと記憶しています。

もしかして今福家の一族で、実家に近い海老名高校に縁を感じて入学し、教育実習にも来たのでしょうか?

館員の方によると今福さんは海老名高校周辺の中新田以外には見当たらない名字だそうです。

思わぬ展開になりました。

 

館員の方が熱心なので敬意を表してこの本を買いました。

 

 

かなり詳しく書いてあるのに何と200円!

海老名市教育委員会発行です。

さすがは相模国分寺跡のある歴史ある海老名市ですね。

 

ここを辞去して相模線に乗るために歩いて厚木駅へ。

ついてに言えば資料館から厚木駅に至る周辺は河原口と言う地名でかつては小田急では厚木駅を河原口駅と言っていました。

相模線に合わせて厚木駅にされてしまい、地元では偽厚木と言っています(^.^;

「河原口駅に戻せ!」と運動してますが、小田急もJRも「お金が・・・」と言っていて首を縦に振りません(^.^;

 

 

厚木駅ホームから撮影。

線路が2つに別れていますが、右が相模鉄道線、左が相模線です。

実は第二次世界大戦中までは同じ会社の路線でした。

相模鉄道にはかつて貨物列車が通っていましたが、貨物列車の廃止により、今は古い電車をこの厚木駅に留置する時に使われる程度です。

でも鉄道ファンには面白いと思います。

 

 

茅ヶ崎まで行き、東海道線に乗り換えて藤沢へ。

 

 

2018年8月11日 土曜日の日記です。

この日は東京都美術館「没後50年 藤田嗣治」展に行きました。

没後50年 藤田嗣治展 公式サイト

少し混雑はしていましたが、わりと落ち着いてゆっくり見ることが出来ました。

 

ところでいきなりの疑問で恐縮ですがこの展覧会では「レオナール・フジタ展」とは言わないのですね。

「日本人・藤田嗣治」がなぜ「フランス人・レオナール・フジタ」にならないといけなかったのか、この展覧会を見てよく理解できただけになおさら「レオナール・フジタ展」と言わないことへの違和感があります。

ただし静岡市美術館で2013年に開催された「レオナール・フジタとパリ 1913~1931」のようにきちんとレオナール・フジタの名前を用いた例が日本国内にもあることを付け加えておきます。

 

藤田嗣治についてはポーラ美術館などの国内外のコレクションに彼の作品がかなり含まれており、作品そのものもよく見る画家ではありましたが、彼の全体像を知っているわけではありませんでした。

今回没後50年目の回顧展ということもあり、「藤田嗣治/レオナール・フジタ」と言う画家をもっと知りたくなり、この展覧会を見ることにしました。

ただこの展覧会は早くも人気で混雑しているとの情報があり、8月に限り金曜日は夜9時まで開館しているため、その時間帯を狙って行くことを考えていましたが、混雑状況を知ることができるサイトを見たところ、意外と混雑していないらしいことがわかり、この日はあるイベントが午後5時からあったのでその前に見てしまうことにしました。

 

会場に着いたのは午後1時20分頃でした。

 

 

上野公園にて。

 

 

 

少し混雑していましたが、ゆっくり落ち着いて鑑賞できる程度の混雑でした。

今回の展覧会は史上最大の回顧展と言うだけあって100点以上、大作も沢山出展され、いずれも秀作揃いでフジタの画業をよく理解できます。

 

例の如く気になった作品の感想を述べていきます。

幸いにもいくつかの出展作品が公式サイトから転載可能で、掲載した画像はすべて公式サイトから転載しています。

 

「自画像」1910年 東京藝術大学

藝大の卒業制作として制作された自画像。世界的画家フジタも当初は日本の同時代の画家とそれほど変わらない表現方法だったことがよくわかります。

 

「父の像」1909年東京藝術大学

藤田の父藤田嗣章の肖像画。

知りませんでしたが藤田の父は陸軍軍医で台湾や朝鮮などで衛生行政に尽力し、最後は陸軍軍医総監となりました。

医者から政治家になった後藤新平、あるいは小説家・森鴎外として知られる陸軍軍医総監・森林太郎のことを思い出しました。

藤田はこの父に距離感を覚えつつも画家修業やパリ留学を認めてくれたことに大変感謝していたそうです。

もしかしたら嗣章も先輩の森鴎外のように近代日本のあり方に苦悩し、その苦悩が息子嗣治に引き継がれ、結果として嗣治が振幅の大きい人生を歩むことになったのかもしれません。

 

「朝鮮風景」1913年 千葉市立美術館

1913年当時朝鮮に赴任していた父嗣章を訪れた時に描いたもの。

フジタが朝鮮にも行ったことがあるとは知りませんでした。

川辺の一般庶民の穏やかな暮らしぶりが色鮮やかな色彩で描かれています。

この作風も後には見られなくなります。

 

「パリ風景、モンマルトルのチルトル広場とサクレ・クール寺院」1918年 個人蔵(日本)

留学先のパリのモンマルトルを描いた作品で、一瞬ユトリロ!!かと思いました。

藤田と同じエコール・土・パリの画家とみなされることもあるモーリス・ユトリロも藤田と同じ白を基調とする絵画を描いていた時期がありましたね。

この頃の藤田の描いた風景画はユトリロに似ています。

 

 

「二人の少女」1918年 プティ・パレ美術館

モディリアーニをさらにディフォルメしたような少女の作品。

藤田はこの頃の藤田はかなりモディリアーニの影響下にあったようです。

あからさまにキュビズムの影響を受けた作品もあり、試行錯誤のあとが読み取れます。

 

「二人の女」1913年北海道立近代美術館

上記の「二人の少女」よりもモディリアーニの影響が伺える作品。

ただし服装は黄色でモディリアーニよりかなり落ち着いており、白を基調とした絵の具を用いるなど、藤田らしさが現れています。

 

 

「私の部屋、目覚まし時計のある静物」1921年 ボンピドゥー・センター

藤田の日本での出世作。

白を基調とした輪郭線のはっきりしたカチッとした構成美の静物画。

このスタイルはその後あまり変わらなかったように思えます。

 

 

「自画像」1929年 国立近代美術館

16年ぶりに一時帰国した時に帝展のために描かれたもの。

藤田の作品によく出てくる猫ちゃんが描かれています。

オカッパ頭に丸メガネをかけた一般的によく知られた藤田のイメージで描かれています。

 

「舞踏会の前」1925年 大原美術館

仮面舞踏会で出番を待つ女性を描いたもので中央の裸婦が当時同棲していた女性ユキ。

この頃の藤田は本当にエロティックな魅力あふれる裸婦、女性画を描いています。

このように女性の魅力をストレートに描いてしまえる感性と才能が日本の画壇に合わなかった理由の一つかもしれないですね。

 

 

「タピスリーの裸婦」1923年 京都国立近代美術館

白を全面に押し出した猫ちゃんを従えた裸婦。

藤田の描く女性は堂々としたポーズを取っているものが多いですね。

このあたりも当時の日本では受け入れてもらえなかった理由ではないでしょうか。

 

「五人の裸婦」1925年 東京国立近代美術館

触覚、聴覚、視覚、味覚、嗅覚の五覚を表しているそうです。

私にはパブロ・ピカソの「アビニヨンの女」の影響を受けているようにも見えました。

なお、これらの作品は階段を登ってすぐの部屋に展示されていますが、大作揃いで圧倒されます。

 

 

「メキシコにおけるマドレーヌ」1934年 京都国立近代美術館

1930年代前半、藤田は大恐慌により経済的に立ち行かなくなり、中南米を旅し、現地制作して展示・販売する生活に入ります。

この頃の作品はそれまでの白基調とは異なり、濃厚な多くの色を使った同一人物とは思えない作品となっています。

 

「リオの人々」1932年 東京国立近代美術館

この時期多く制作された水彩技法の作品。黒い肌の現地の人たちをリアルに描いています。

それにしてもここまで見事に作風が変わるとは藤田の非凡な才能を伺わせます。

彼は同じ様にしばしば作風を大きく変えた20世紀の巨匠パブロ・ピカソとも親交があったそうですが、お互い似たような歩みを辿ったことも大きかったかもしれません。

 

1933年11月藤田は久しぶりに日本に帰国し、東京に居を定めます。

1935年10月海外に日本を紹介する映画「現代日本」の制作に携わります。

その映画が上映されており、今ではもう日本では見ることのできない穏やかな一般人の暮らしが収められています。

しかしこの映画は内務省警保局の受け入れるところとならず、宣伝用映画として輸出されることはありませんでした。

このときすでに藤田が日本を棄てることになる理由が芽生えていたのではないでしょうか。

 

争闘(猫)1940年 東京国立近代美術館

この作品は近代美術館で良く見ています。

実際に猫が争う場面に遭遇したことがありますが、この作品からは争いの場面につきものの殺伐さが抑えられている気がします。

 

 

「アッツ島玉砕」1943年 東京国立近代美術館

東京国立近代美術館には第二次世界大戦中に藤田が描き、戦後アメリカ合衆国に接収されて近年無期限貸与されることになった「作戦記録画」が収蔵されており、この展覧会でもそのうち2点が展示されています。

凄惨な戦場の有様を描いたこの絵を正視することはとても難しく、藤田にこの様な絵を描いてほしくはなかったです。

ただ、戦争という異常事態下でこの作品を描いた藤田をむやみに批判することはしたくありません。

言えることは藤田はこの作品でも画家として必死に自らの表現を追求し続けていることです。

恐らく世界では認められた自分の才能を正道ではない方法とは言え、何とか日本人にも認めさせたい、と言う画家としての願望がこの様な作品を描かせたのではないかと思います。

しかし、その代償は大きすぎました。

 

「優美神」1946~48年 聖徳大学

敗戦直後に描かれた色鮮やかな三人の裸婦を描いた作品。

ルネサンス期の作品を思わせます。

藤田が未曾有の戦争をくぐり抜けて画家として再出発するにあたり、自らの作品のルーツである西洋絵画の原点に立ち戻ろうと思ったのでしょうか。

 

そして1946年頃から藤田は「作戦戦争画」を描いたことで戦争協力者として彼と同様に戦争に協力した日本の他の画家たちから指弾されることになります。

確かに「アッツ島玉砕」の様な作品を描いた藤田が全く無罪であるとは言えないでしょう。

しかし、同じ様に戦意高揚の作品を多数描きながらそれほど戦争協力について批判されていないらしい横山大観はどうなのでしょうか。

もっとも大観も藤田同様に異常な時代状況の中で自らの表現を守り抜きたいという意志を貫き通した、ということであり、その戦争協力について藤田同様にむやみに批判は出来ないとは思いますが。

 

ただ、この「戦争協力」と言うレッテル貼りにより世界的画家の藤田嗣治が祖国日本を棄ててフランス人レオナール・フジタとなった事実はよく考えないといけないでしょう。

戦後目覚ましい復興を遂げながら巨大な人口を持った国内市場を有するゆえに日本国内でしか通用しない製品・サービスを生み出し続けて世界市場での競争力を失い、「ガラパゴス化」と揶揄されている現代日本の姿を藤田が見捨てた敗戦直後の日本の姿に重ねるのは考えすぎでしょうか。

1949年3月10日 藤田は日本を発ち、そして二度と祖国日本の土を踏むことはありませんでした。

 

 

「カフェ」1949年 ポンピドゥー・センター

フジタが日本出国後のニューヨークで描いた作品。

白を基調とするパリ時代の作風が用いられています。

作品中の女性は物思いにふけっていますが、これからどうするかを真剣に考えていたであろう当時のフジタの心境を表しているのでしょうか。

 

「ビストロ」1958年 カルナヴァレ美術館

一般庶民の集まる食堂の様子を描いた作品。

戦前のフジタはこの様な都市の日常生活をあまり描いていなかったのではないでしょうか。

フジタが一人のフランス人として生きようとする決意を表したのかもしれません。

 

 

展覧会の最後の作品はこの絵です。

「礼拝」1962年~63年 パリ市立近代美術館

この作品を見たとき、ようやくレオナール・フジタが安息の地を見出したように思えてほっとした気分になりました。

この作品の直前に新約聖書の「黙示録」を題材にした作品を見ただけになおさらです。

 

 

鑑賞時間は1時間20分程度でした。

藤田嗣治/レオナール・フジタの波乱の生涯を良く理解できるとても素晴らしい展覧会でした。

特設ミュージアムショップで絵葉書4枚、そして図録を購入しました。

図録を買うのは久しぶりですが、それだけフジタの生涯に感動したからです。

 

フジタの没後50年が経ち、現代日本は草間彌生、奈良美智など世界的な名声を誇る芸術家が同じ様に日本でも名声を博すことが出来るようになりました。

そして藤田嗣治もようやく日本で正当な評価を受けるようになりました。

ただ、油断していると私達は第2、第3のレオナール・フジタを生んでしまうかもしれない。

そのようなことが起きないように気をつけないといけないと思います。

 

2018年8月4日 土曜日の日記です。

サントリー美術館に行った後、午後4時から近くのオフィスビルにある貸し会議室を会場とした猫町倶楽部東京アウトプット勉強会 森本あんり「反知性主義」読書会に参加。

 

今回の課題本はこちら。

 

 

ただし、この帯のアオリは明らかに誇大広告で、この本は2015年2月の刊行で当時は不動産業者に過ぎなかったドナルド・トランプ現アメリカ合衆国大統領の名前は一切出てきません。

帯から連想される政治関連の本というよりもアメリカの独特なキリスト教の信仰についての本というのが正解です。

著者の森本さんは国際基督教大学を卒業後、東京神学大学大学院を経てプリンストン神学大学院博士課程と言うバリバリのプロテスタント神学を修めた牧師様でもあり、著書多数でwikiでみるとプロテスタント神学に関する著書が多い。

私もクリスチャンですが、カトリックでプロテスタントとは異なるので多分ついて行けなさそう。

 

この本はとても面白くて3日間で読み終え、直前に再読しました。

読書メーターから感想を転載します。

「猫町倶楽部東京アウトプット勉強会の7月課題本。前から気になっていた本で3日間で一気に読んだ。反知性主義とはわかりにくいが反エリート主義に近く、知性と権力との結び付きに反発する動きのこと。リヴァイヴァリズム、伝道集会などアメリカの福音主義と呼ばれるキリスト教信仰の広がりに大きく貢献し平等を指向する傾向が強く、ジャクソン大統領によるジャクソニアン・デモクラシーなどアメリカの民主主義の発展にも大きく貢献している。ただし反知性主義のもたらした負の面、マッカーシズム、創造論などの言及が少ないのが難点だと思う。」

 

今回の読書会は一週間延期という異例の展開になりました。

7月28日台風が日本を逆走しながら直撃すると言う事態になり、関東地方も天候が荒れたため、やむなく一週間延期になりました。

今回の参加者は40人程度でしたが、サポーターによると3分の1がキャンセルしたそうです。

逆に延期になったために参加できた幸運な方もいました。

私は幸い予定がなかったのでそのまま参加。

延期のおかげで二回目も無事完読でき、理解を深めることが出来ました。

 

前回の日記に書いたサントリー美術館を出たのが午後2時半。

読書会の受付開始が午後3時半だったのでその間の時間を潰すのが大変でした。

おまけに猛暑でなおさらでした。

とは言うものの無事に午後4時読書会開始。

今回は6つのグループに別れ、私のグループは6人。

アウトプット初参加者もいました。

今回の参加者が少なかったのはサポーターの一人が言っていましたが内容が難しかったからでしょう。

 

読書会のはじめに自己紹介。

「夏を感じたエピソードを交えてください」とのサポーターからの注文。

私は母の出身地の行田市の隣が「日本一暑い」熊谷市なので今年もやっぱり熊谷市が日本一暑かったことを話題にしました。

 

そして読書会開始。

例によって他人の意見の批判はせず、本の感想を述べ合うスタイル。

 

ある参加者は「帯と内容が違っていた。最後にトランプ現象のことについて出てくるのかな、と思って読んでみたけど、全然出てこなかったので不思議だった」と言っていました。

これは皆さん同じ意見でした。

新潮社は何でこんなアオリつけたのでしょうか?

 

最後の方で成功哲学や自己啓発のことが出てくるあたりも皆さんかなり

違和感があったようです。

日本でも盛んな自己啓発、あるいはポジティブ思考はアメリカのキリスト教の信仰から派生したものです。

アメリカのように(アメリカ先住民のことはさておき)何もないところへ他の土地から移民してきた人たちがたくましく生き抜くためには自己啓発のような考え方が必要だったとは思いますが、カトリックの私にもそれは違う、と言う気がします。

キリスト教は本当はルカ福音書の「放蕩息子の譬え」や鶏が鳴く前に三度イエスを否認した第一の使徒ペドロが復活したイエスに許されたエピソードに見る如く失敗だらけでみっともない人間でも精一杯生きることが出来るようにする教えだと思います。

 

その他、文中に出てくる映画「リバー・ランズ・スルー・イット」の話から釣りのことに話が発展したり、といつものように面白い読書会になりました。

 

私は今回の読書会でグループでは唯一のクリスチャンだったのでクリスチャンとしてどう思ったかを中心に話しました。

以下、「反知性主義」を読んで、また読書会で皆さんの話を聞いて考えたことを下記にまとめておきます。

まず最初にこの本の冒頭で「知性主義」的なアメリカのプロテスタントの信仰の有様が出てきます。

手短に言うと豊富な知識を交えて日曜日に延々と三時間近くも牧師さんが説教するスタイルの礼拝を中心とする信仰生活です。

この長時間の説教ですが、私にも苦い思い出があります。

私が洗礼を受ける前に一度だけプロテスタントの教会に行ったことがあります。

復活祭の日に行ったのでルカ福音書の「エマオの旅人」をもとにした説教を一時間も聞く羽目になったのです(ToT)

・・・あまりの長さに辟易してすっかりプロテスタント教会は嫌いになってしまいました。

・・・いや、誰でも嫌になるでしょうね。

99匹の子羊を置いて一匹の迷った子羊を探しに出かけた羊飼いとしてはこれはまずいんじゃないの?

しばらくして行ったカトリック教会のミサでは儀式は綺麗だし、説教は10分ぐらいだし、すっかりカトリックが気に入ってしまい、最終的にカトリックになったわけです。

多分多くのアメリカ人も「知性主義」的な教会に辟易して信仰復興運動、野外伝道集会主体の「反知性主義」的な信仰に走るであろうことは理解できます。

 

とは言えじゃあ「反知性主義」的な信仰ならどうか?と言うと、多分これも日本人には違和感ありまくりでしょう。

日本人の信仰は神道や仏教でもキリスト教でも共通すると思いますが、「手を合わせて静かに祈る」スタイルだと思います。

神社でもじっと手を合わせていますし、坐禅会も盛んに行われていますし、教会でも静かに祈ることが多いように思います。

その様な日本にセールスマンのセールストークよろしく伝道師が信仰の素晴らしさを訴える「反知性主義」的な信仰を持ち込んでもうまくいくわけはないでしょう。

明治以降アメリカの伝道師を中心にキリスト教の布教が活発に行われましたが上手く行かなかったのは多分「知性主義」「反知性主義」的な信仰が合わなかったからだと思います。

カトリックの静かに祈る形は仏教や神道がすでに合ったから入り込めなかった。

ただ、「知性主義」的な信仰を持つ人は明治以降の日本人が必要とした社会科学、自然科学に詳しい人が多く、そのために日本の知識人層に「知性主義」的なプロテスタントの信仰を持つ人(新島襄、内村鑑三など)が少しは増えた、ということではないでしょうか。

 

ちなみにアメリカのこの「反知性主義」的な野外伝道集会を中心とする信仰が根付いたのはアメリカが移民社会で一人ひとり人種などが異なり、しゃべらないと理解し合えない社会だったからではないか、と言う感想を述べた参加者がいました。

私も同じ考えです。

 

さて、この「反知性主義」はアメリカのキリスト教の信仰を知る上でとても役に立つ本ではあるのですが、問題もあります。

それは著者の森本さんが「反知性主義」の負の面についてあまりページを割いていないことです。

アメリカでは1000万人から2000万人が聖書の記述、特に「創世記」の「この世界は神様が7日間でお作りになった」という物語をそのまま信じる人、創造論者だと言われています。

彼らは教科書に進化論を載せるな、などかなりメチャクチャなことをやっています。

この創造論者のルーツがまさにここで取り上げた「反知性主義」です。

ところが森本さんはこのことについて一切書いていません。

森本さんは「反知性主義」を「知性主義」の行き過ぎに歯止めをかける存在として捉え、好意的に書こうとしていますが、私に言わせれば「反知性主義」は創造論者に見られるようにもはや弊害を撒き散らしつつある危険な存在になりつつあるように思えます。

その様な認識を森本さんが欠いていることに憤りを感じます。

これは森本さんが前に書いたようにバリバリの「知性主義」的な信仰を持っていることが仇になっていると思えます。

森本さんは「知性主義」の負の面を自覚しており、それが「反知性主義」への期待となっていてこの本を書かせたのではないかと思えますが、しかしそれで良いのでしょうか。

「反知性主義」の負の面をもっと書くべきではないのか?

それでこそ「知性主義」ももっと鍛えられるのではないだろうか。

そう感じるのです。

 

読書会の後は近くの居酒屋での懇親会に参加。

以前聖書の読書会に参加して聖書に馴染んでいたので今回参加した、という方がいて彼は新共同訳続編付き聖書を持参していました。

やはり聖書は非キリスト教国の日本でもよく読まれていますね。

 

午後9時で懇親会もお開きになりました。

参加者の皆様、そして一週間延期にもかかわらず読書会を無事終わらせることの出来たサポーターの皆様ありがとうございました。

 

 

 

 

2018年8月4日 土曜日の日記です。

この日は六本木にあるサントリー美術館「琉球 美の宝庫」を見た後、猫町倶楽部東京アウトプット勉強会 森本あんり「反知性主義」読書会に参加。

 

この日は猫町倶楽部に参加することが決まっており、ならばすぐ近くのサントリー美術館を見よう、と言うことで「琉球 美の宝庫」展を見ることにしました。

 

サントリー美術館公式サイト

 

サントリー美術館に着いたのは午後1時20分頃。

土曜日の午後でしたが、混雑せずにゆっくり鑑賞できました。

 

 

沖縄県はかつて第一尚氏、第二尚氏の王朝による琉球王国が存在し、中国との朝貢貿易や東南アジアとの海上貿易で繁栄しました。

20年以上前に故陳舜臣さん原作の大河ドラマ「琉球の風」とタイアップした展覧会が東京国立博物館で開かれていますが、沖縄の美術の展覧会を見るのはそれ以来だと思います。

私自身は1990年代後半に一度だけ沖縄に行ったことがあり、海が綺麗だったこと、そして沖縄ロックの雄・喜納昌吉さんのライブをライブハウスで見たことを覚えています。

 

展覧会の構成です。

 

第1章 琉球の染織

第2章 琉球絵画の世界

第3章 琉球王国尚家の美

第4章 琉球漆芸の煌き

エピローグ 琉球王国の記憶

 

普段であれば気に入った作品を挙げていくのですが、この展覧会は作品数がとても多くて160点もあり、一つ一つの作品を覚えていないです。

という事で一部の作品の傾向を書いておきます。

 

第2章 琉球絵画の世界は花鳥図、人物画、港や船など貿易に関係する物を描いた絵画を展示しています。

花鳥図は日本のものとテーマはそれほど変わらないようですが、何となく色が違う気がします。

面白いのは雪が降らない沖縄で雪景色が描かれた絵画があったことです。

なんのために描いたのか?疑問が湧いてきます。

人物は中国の清王朝時代の西洋絵画の影響を受けた人物画に似ています。

ただし、服装が中国よりもさらに平面的な描かれ方になっています。

そして「琉球交易港図屏風」(第二尚氏時代・19世紀 浦添市美術館)のような琉球の交易の有様を描いた作品に海上貿易で栄えた琉球らしい、当時の海禁政策下にあった日本と異なる文化の発展を見ることが出来ると思います。

 

エピローグ:琉球王国の記憶では戦前の沖縄で首里城などの琉球王国の文化を写真に収め、沖縄文化財の研究に勤しんだ鎌倉芳太郎の活動についての展示。

彼は首里城のほか、琉球歴代国王の肖像画も写真に収めており、その写真は現物が第二次世界大戦の沖縄戦で焼失した今、当時の姿を伝える貴重な資料となっています。

以前から沖縄の歴史の本で歴代国王の肖像画がいずれも白黒なので何でだろうな、と思っていたのですが、これは鎌倉芳太郎が肖像画を撮影した写真を注釈なしに載せていたからだったのでしょうね。

 

一時間程度の鑑賞時間でした。

 

 

 

 

 

 

2018年8月3日 金曜日の日記です。

この日は会社の帰りに東京国立博物館で開催中の「縄文 1万年の美の鼓動」展に行きました。

「縄文 1万年の美の鼓動」公式サイト

火焔式土器などの数多くの土器、あるいは縄文のヴィーナス、合掌土偶などの沢山の個性的な土偶の持つ独特の美しさにただただ圧倒されました。

 

この「縄文展」は以前から私の心の中でjは見に行きたい展覧会の上位に入っていましたが。FBの投稿を見たところ、早くも大人気で大混雑していることが分かったので、金土の夜9時までの夜間開館を狙うことにして、この日の会社の帰りに訪れました。

 

 

 

 

この日はトーハクで夜間イベントあり。

 

 

「縄文」展会場の平成館。

 

 

 

「縄文」展は会場の最後の数点を除き撮影不可です。

夜の開館時間はそれほど混んでおらず、ゆっくり鑑賞できました。

 

展覧会の構成です。

第1章 暮らしの美

第2章 美のうねり

第3章 美の競演

第4章 縄文美の最たるもの

第5章 祈りの美、祈りの形

第6章 新たにつむがれる美

 

第2章以下の展示は火焔式土器をまとめて展示したり土偶を年代順にうまく人が流れるように配置するなど見せ方にも工夫がこらされています。

 

印象に残った作品を挙げておきます。

なお、写真転載不可のため文章のみです。

 

木星網籠 縄文ポシェット 青森市三内丸山遺跡。

見たときは気づきませんでしたが、これは三内丸山遺跡が発見されたときに話題になったものです。

三内丸山遺跡の発見は大ニュースになりましたね。

実用品でありながら、美しさを感じさせます。

 

関山式土器 千葉県松戸市 幸田貝塚出土 千葉・松戸市立博物館蔵

これは一つの土器のみを展示しているのではなく、同じ場所で出土した土器を集めて展示しています。

これは圧倒されました。

 

火焔型土器・王冠型土器 新潟県十日町市野首遺跡出土

これも同じ場所から出土した火焔型土器をまとめて展示しています。

これも圧倒されました。

それにしてもこの火焔型土器、そして深鉢形土器は形が大きく、そして過剰とも言える粘土による装飾が目立ちます。

縄文時代の後の弥生時代に制作された弥生式土器は実用的な簡素な造形でそれもまたとても美しいのですが、こちらの縄文式土器の大きさ、装飾が象徴する意味は現代人の理解を超えるものがあります。

彼らの現代人と異なるこの美的感覚はどのようにして養われたのでしょうか?

今回の縄文展を見て一番疑問に思ったことです。

なお、第3章 美の競演では中国、メソポタミア、インダス文明など他の地域の同時代の土器を展示しています。

いずれも縄文式土器よりも簡素で実用的です。

こちらと縄文式土器を比較してみれば縄文人の美的感覚について考えを深めることが出来ると思います。

 

縄文展の土器や土偶を見る人の多くが不思議がっていたように思います。

 

今回の縄文展の目玉は縄文時代の国宝が展示されており、それが第4章 縄文美の最たるもの でまとめて展示されています。

 

火焔型土器 新潟県十日町市笹山遺跡出土 

これは有名ですね。

近くでじっくり見ることが出来ましたが、同じ十日町市野首遺跡の火焔型土器とも何となく印象が異なる印象でした。

野首遺跡のものよりもこちらの笹山遺跡のものの方が粘土の造形が洗練されている気がします。

 

土偶 縄文のビーナス 長野県茅野市棚畑遺跡出土 

世界史の教科書にも古代メソポタミアから出土した地母神信仰に根ざすと言われる女性のある部分を強調した像が出土していますが、この縄文のビーナスとよく似ています。

人間の表現は場所が違えど同じ様な形で表されることがあることが理解できると思います。

 

土偶 合掌土偶 青森県八戸市風張1遺跡出土

手を合わせる合掌している姿を表していますが、不謹慎ながら「合掌というよりも体育ずわりじゃないの?」と思ったのは私だけかしら(^.^;

 

遮光器土偶 青森県つがる市木造亀ケ岡遺跡出土

教科書にもよく載っている、なぜか片足が欠けた土偶。

実物を見て意外と小さく感じました。

余談ですが、これらの土偶を見て中学の美術の先生が◯☓と言うあだ名で呼ばれていたことを思い出しました。

・・・詳細は伏せます(^.^; 

 

土器、土偶の他、土面、あるいは動物をかたどった土器や土製品など自然崇拝によるものらしい縄文独自の造形美をもった作品がずらりでただ圧倒されます。

鑑賞時間は結局1時間20分に及びました。

 

展示の最後に撮影コーナーが設けられています。

 

 

 

夜9時近くになってようやく東博を出ました。