烏丸今出川上るにある大聖寺です。

 

 

岳松山大聖寺という臨済宗系単立寺院。

開基は無相定円尼(日野宣子)。

日野宣子は南北朝時代の女官。権大納言日野資名の子。北朝・光厳上皇に仕えて寵妾となり、従二位典侍に叙せられます。正平6年(1351年)、光厳上皇が正平の御一統で南朝・後村上天皇に連れ去られた後も、新たに即位した北朝・後光厳天皇の典侍として権力を持ちました。正平16年、光厳法皇が都に戻り、正平19年入滅。正平23年、宣子は天龍寺で光厳法皇の供養を行い、春屋妙葩を戒師として出家。永和元年(1375年)、室町幕府3代将軍足利義満は、宣子の勧めで宣子の姪・日野業子と結婚。以降、足利将軍が代々日野家から正室を娶る慣例となりました。永和4年、義満は室町第(花の御所)を造営して業子と共に移り住むと、室町第内に岡松殿を建造して宣子を住まわせます。弘和元年(1381年)、後円融天皇室町第行幸の賞として従一位。岡松一品と呼ばれました。

宣子の没後、義満が岡松殿を尼寺に改めたのがこちらの寺になります。寺名は宣子の法号・大聖院殿無相定円尼から取られました。開山は無相定円尼(日野宣子)で大聖寺1世、開基は宣子の姪・玉巌悟心で大聖寺2世としています。

大聖寺3世は後円融天皇皇女・円光女王であり、以降、大聖寺は代々皇室から門主を迎える尼門跡寺院となり、御寺御所と呼ばれました。大聖寺6世・覚鎮女王(後柏原天皇皇女)が門主を勤めていた時、正親町天皇の皇女が大聖寺に入るに当たり、尼寺第一位の綸旨。大聖寺は焼失により長谷や毘沙門町に移転。江戸時代の元禄10年(1697年)より現在地にあります。明治以降も華族末裔の入寺が続きました。

神仏巡礼巡拝の道98番(京都18番)札所。

大聖寺は通常非公開。

 

 

玄関。

 

 

花の御所碑。

大聖寺は、足利将軍の居所である室町第(花の御所)内に建てられた岡松殿を尼寺に改めて創建されました。大聖寺は焼失により何度か移転しますが、元禄10年より現在地にあります。創建当初の場所とは違っていると考えられているものの、現地は室町第(花の御所)跡の一角に当たり、北隣にある同志社大学寒梅館の発掘調査では花の御所のものと思われる石畳遺構が確認されています。平成7年(1995年)、大聖寺境内に花の御所の碑が建てられました。

 

 

 

大聖寺;京都市上京区烏丸今出川上る御所八幡町109