室町通下立売下るにある此付近斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址碑です。

 

 

室町時代、三管領筆頭・斯波氏が邸宅を構えた場所。

斯波氏は足利一門ですが、鎌倉時代には幕府と直接主従関係を結ぶ御家人であり、足利氏と同格でした。足利尊氏が挙兵すると斯波高経は協力。室町幕府が成立すると越前、尾張、遠江の守護大名となります。尊氏の執事・高師直が観応の擾乱で殺害された後、足利一門の仁木頼章や細川頼氏が執事に就任しますが、頼氏が室町幕府2代将軍・足利義詮と対立して失脚すると、高経は執事要請を受けます。しかし足利家と同格の意識の強い高経は足利家家司の執事への就任を渋り、貞治元年(1362年)、高経の四男で13歳の斯波義将が就任しました。

貞治5年、義将は義詮に謀反の疑いをかけられ執事を罷免され、越前へ逃亡(貞治の変)。細川頼之が執事に復帰。頼之は義詮死後、11歳で室町幕府3代将軍となった足利義満の補佐役となって執事の権限は拡大、管領と呼ばれるようになります。義将は義詮の未亡人・渋川幸子と結んで室町第を取り囲み、義満に頼之罷免を要求(康暦の政変)。頼之は四国へ落ち、義将は管領に返り咲きます。畠山氏、細川氏と共に管領を出す家となり、三管領と呼ばれました。斯波義将の京における邸宅・勘解由小路第は、勘解由小路、室町小路、烏丸小路、中御門小路の一町にありました。斯波氏は兵衛府の唐名・武衛を称しており、勘解由小路第は武衛陣と呼ばれました。

享徳元年(1452年)、斯波義建が18歳で早世し斯波宗家は断絶。斯波氏分流・大野氏から義敏が養子に入り継承。長禄3年(1459年)、義敏は遠江守護代・甲斐氏との対立を室町幕府8代将軍・足利義政に咎められて失脚、実子の松王丸に家督を譲って隠居するも、その2年後、足利義政の命により松王丸も家督を失い、足利一門の渋川氏から斯波義廉(斯波義将の曽孫)が入り武衛家の家督を継ぎます。しかし、義廉の実父・渋川義鏡が失脚したことから義廉も連座、文正元年(1466年)、幕府は義敏を武衛家当主に戻すも、同年、再び家督は義廉に戻されます(武衛騒動)。

応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発。義廉は西軍、義敏は東軍につきます。応仁2年、斯波宗家の家督は義敏と松王丸に戻され、義廉は尾張国守護代・織田氏を頼って尾張に下るものの幕府から暴徒とされ尾張を追われます。文明3年(1471年)、越前国守護代・朝倉孝景が密約により東軍に寝返り、斯波氏から越前国守護の座を奪います(義廉の子・義俊が越前に下り、朝倉氏滅亡まで旧主として存続)。遠江国も今川家客将・伊勢盛時(北条早雲)に攻め込まれ、駿河国守護・今川氏親に遠江国守護の座を奪われました。天文23年(1554年)、当主・斯波義統が尾張国守護代・織田信友に殺害され、義統の嫡子・斯波義銀を擁した分家の織田信長が信友を討ち尾張統一。義銀は尾張を追われたもののその後和解して秀吉に仕え、子孫は松山藩や加賀藩に藩士として仕えました。

武衛陣は大変堅固であり、室町時代末期まで残っていました。天文15年、逃亡先の近江国で室町幕府13代将軍となった足利義輝は、永禄元年(1558年)、三好長慶と和睦して上洛、焼失していた室町第の再建は行わず、武衛陣を新造して将軍御所とします。これは二条城、もしくは二条御所と呼ばれました。永禄8年、三好三人衆は二条御所にいた足利義輝を襲撃。義輝は長刀を振るって応戦の末、討ち取られます。このとき二条御所は火にかけられ、焼失しました。

武衛陣と足利義輝の二条御所は同じ場所にあったことから、碑が建てられています。

 

 

 

斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址碑;京都市上京区室町通下立売下る