大津にある西教寺です。

 

 

 
戒光山兼法勝西教寺といい、天台真盛宗総本山。
創建は諸説あり、平安時代中期には比叡山延暦寺の末寺であったといいます。室町時代、天台宗真盛派を創始した真盛が入寺して興隆。元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちで焼失。天正2年(1574年)、坂本城主・明智光秀が復興し、明智家菩提所としました。天正18年、後陽成天皇の命により、承暦元年(1077年)に白河天皇が創建し応仁の乱で廃絶した京・岡崎の法勝寺を併合、法勝寺の仏像仏具がこの寺に移されたことから、寺号に兼法勝が付随するようになりました。
江戸時代には江戸幕府の命令により天台宗日光山輪王寺の末寺となります。明治11年、天台宗真盛派として輪王寺から独立。昭和21年、天台真盛宗となりました。
神仏霊場巡拝の道148番(滋賀16番)。びわ湖百八霊場11番札所。
 
 
総門。
明智光秀が坂本城の城門を移築したと伝えられるもの。
 
 
参道。
 
 
勅使門。
 
  
宗祖大師殿。
 
 
 
唐門。
  
 
唐門から見る琵琶湖。
 
 
本堂。
元文4年(1739年)の建造物で、重要文化財。
  
 
客殿。
慶長2年(1597年)、東殿(豊臣秀吉の正室北政所付きの上臈)らが伏見城に建造した客殿を、慶長3年、こちらに移築したもの。
重要文化財。
 
 
客殿庭園。
小堀遠州が作庭。
 
 
明智光秀一族の墓。
   
 
光秀の妻煕子の墓。
妻木煕子(?~1576)は明智光秀の正室。妻木範煕女。この寺の過去帳では、天正4年に死去。光秀がこの寺に墓を作ったといいます。江戸時代成立の「明智軍記」では光秀の妻は坂本城落城まで生きていたとしていますが、令和2年、聖衆来迎寺で天正9年に寄進された涅槃図に煕子の戒名「福月真祐大姉」があることが発見され、本能寺の変より前に亡くなっていたことは確実視されています。
 
 
 
西教寺;滋賀県大津市坂本5-13-1