大津にある聖衆来迎寺です。

 

 

紫雲山聖衆来迎寺という天台宗の寺。

古くは地蔵教院と号し、長保3年(1001年)、源信が入寺して現在の寺号となったといいます。大永7年(1527年)、真玄(六角高信/近江守護六角高頼の五男)が中興。

元亀元年(1570年)、室町幕府15代将軍足利義昭が主導する信長包囲網に味方した比叡山延暦寺は、浅井長政・朝倉義景連合軍と組んで織田信長に対抗。信長は家臣の森可成に近江宇佐山城を築かせ、防戦を命じます。浅井・朝倉軍が森可成を攻めた宇佐山城の戦いで、可成は城の外に討って出、この寺の角に位置する比叡辻で討死。この寺は延暦寺の末寺であったため織田は敵方でしたが、住職が見過ごすわけにはいかないと可成の遺体を境内に運び入れて葬ったといいます。元亀2年、織田信長による比叡山焼き討ちの際、寺は仏像を船に乗せて琵琶湖対岸の兵主大社に避難させましたが、ここに可成の墓があることをもって焼き討ちを免れたといいます。

比叡山焼き討ち後、坂本の地は信長家臣明智光秀に与えられ、光秀は坂本城を築きます。光秀が坂本城門を移築したと伝えられる表門が現存。令和2年(2020年)、この寺に天正19年(1581年)に故人供養のために寄進された涅槃図に、光秀の正室煕子の戒名「福月真祐大姉」があることが発見され、「明智軍記」では坂本城落城時に死んだとされる光秀の妻は、本能寺の変より前に亡くなっていたことが有力となりました。

びわ湖百八霊場12番札所。

 

  

表門。

明智光秀が坂本城の城門を移築したと伝えられます。重要文化財。

 

 

本堂。

寛文5年の建造物で、重要文化財。

本尊の阿弥陀如来像(江戸時代)、釈迦如来像(鎌倉時代/重要文化財)、薬師如来像(室町時代)の三尊を安置します。

 

   

開山堂。

江戸時代初期の建造物で、重要文化財。

 

  

客殿。

寛文16年の建造物で、重要文化財。

 

 

鐘楼。

 

 

森可成之墓。

森可成(1523~1570)は織田信長の家臣。森可行の子。森蘭丸の父。森家は代々美濃の守護大名・土岐氏に仕えていましたが、土岐氏が家臣の斎藤道三に下克上されて美濃を奪われると、尾張に逃れて織田信秀・信長に仕えました。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いに参陣。永禄8年、美濃金山城主。永禄13年、近江宇佐山城主。元亀元年(1570年)、姉川の戦いに参加。同年、宇佐山城の戦いで、浅井長政・朝倉義景連合軍に攻められ、宇佐山城から出て比叡辻で戦い、討死。享年、48歳。

 

  

寿々(鈴姫)之墓。

鈴姫は、織田信長の嫡男・織田信忠の側室で織田秀信(三法師)の母とされる人物。出自や生涯ははっきりしません。一説に塩川長満女とされますが、森可成女であるという異説もあり、この寺では鈴姫の位牌(法号・徳寿院殿繁林恵昌大姉)や肖像画を所有しています。

 

 

 

聖衆来迎寺;滋賀県大津市比叡辻2-4-17