穴と橋とあれやらこれやら -334ページ目

穴と橋とあれやらこれやら

初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

 

先日chinuさんがアップされた、美作河井駅に現存している転車台についての浪漫あふれる記事。


 

これを読んで思い出したのが、乗り鉄時代に訪れた国鉄長井線(山形県)の終端駅・荒砥駅にあった転車台。正確に言えば現物は一切覚えてないんですが、撮った写真が残ってて、それがまた印象的で。

 

 

 

で、写真の山から探しまくって発見したその写真がこれ。

どうでしょうか、ちょっと離れてズームしてるので正確なサイズ感がよくわかりませんが、かなり立派な転車台。美作河井駅のと同じ40ftオーバーくらいありそうに見えません?

 

さらに言えば、めっちゃ立派な石積みの給水塔もあるとか、いま改めて見ると凄いっすな。まさに失われた鉄道風景そのもので。いや~このコンボは反則だ。


ちなみにわが記録によれば、ここを訪ねたのは1986(昭和61)年3月30日のこと。34年前の記録ですな・・・。


 

 

 

国鉄長井線は 奥羽本線の赤湯駅からこの荒砥駅までを結んでいた路線で、ウィキ先生によれば荒砥駅の開業は1923(大正12)年4月22日だそう。現在も山形鉄道フラワー長井線として、元気に存続しているのですが…

 

 

 

気になりません?現在の荒砥駅の様子。

 

 

 

 

なので、航空写真で見てみたらですね…

うーん。残念ながらどちらも撤去されてしまっているようですね~。

 

 

 

かつて蒸気機関車が入線していた路線では、終端駅を中心に全国あちこちに存在したはずの転車台。ここのように、ほとんどが撤去されてしまったのか…。いま全国的にはどのくらい現存してるんでしょうね。

 

 

 

 

 

【前篇】より続く。

 

 

 

 

全面的に煉瓦で巻かれた洞内は、

驚くばかりの状態の良さ!

 

 

 

 

 

 

 

 

例えばこんな感じでイギリス積みの側壁、長手積みのアーチ部を切り取ってみても、

120年前の隧道だとはとても思えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、側壁部のあちこちで

このような穴が設けられていた。

 

オリジナルなのかそうでないのかは不明だが、おそらくは水抜き穴なのではないかと。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここまでを見てきておわかりいただける通り、

隧道そのものには、なんら瑕疵は見られない。つまり、この旧道が放棄された原因は、隧道ではなかった、ということだ。

 

なんなら、保守なしでここまで状態のいい明治隧道なんてどんだけあるのかと考えれば、施工者たちは素晴らしい仕事をしたと言える。もちろん、地元の有志の皆さんが隧道保全に力を入れてくださっていることも非常に大きいだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、まもなく隧道を抜ける。

絶品すぎる、鉄板の構図。

 

 

120年前の隧道から望む、その先は…

道がなくなっている。

 

マトモな写真を撮ってないのが悔やまれるが、隧道を出たところで路盤が大きく崩落、道がなくなってしまっている。そう、ここから先、隧道東側の路盤が大きく損壊したことが、初代隧道を含む旧道がわずか11年で放棄された理由だったのである。

 

苦労して建造した、かくも立派な隧道を諦めて、新しく道と隧道を造ることを選択するというのは、当時の土木技術では到底復旧できないほどのダメージがあったからに他ならない。

 

ちなみにこの崩落旧道も、地元の方々の熱意で補修され、徒歩で抜けられるようにはなっているようである。もちろん危険個所はあるようだし、自分では歩いたことがないので、興味のある方は各自現状を調べてくだされ。ちなみに旧道は、坂場トンネル尾鷲側で現道に合流する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、抜けて振り返り。

おりしも朝日が直射で隧道を照らす。カッコイイが、写真は撮りにくい…(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

コチラ東側の扁額は、

「坂下隧道」。揮毫者は判読できないが、こちらも小倉知事か。

 

 

 

 

 

 

 

 

少し引くと、この感じ。

倒木が折り重なって、まともにポータルが拝めなくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここが限界ギリギリ。背後では

スッパリ切れ落ちての断崖絶壁。

 

ド逆光すぎてピントが合わなかったが、朝日に煌めく尾鷲湾までが一望できた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここから二枚は2011年4月23日の夕刻、四国からのスペシャルゲストをお迎えしての紀伊半島ハードコア接待で訪れた際の写真。

何人いたんだっけか。わたくし入れて8人?9人?くらいか。

 

 

 

 

 

 

 

雨の夕刻ということで、洞内もこの通り、

同業者あるあるの「心霊現象」(笑)。

 

いや、湿度が高く風が吹いていない洞内でフラッシュ撮影すると、こうなるのですよ…。まあこの日もまともな写真は撮れず(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後はまた2010年2月の写真で、

撤収の一枚。

 

 

 

改めて記事にして見ると、まあとにかく写真が酷い。でもまあなんとか、ずっと出しそびれていたネタをリリースできてよかった。

 

ここもまた、いつか撮り直しに行きたい。その際には旧道東側も踏破して、ぐるっと回ってみたいと思う。

 

 

 

 

ちなみに、この日のこの後のネタで記事にしているのは、瀧トンネルサンギリトンネル追憶の熊交バス入之波大橋

 

 

 

 

以上、完結。

 

 

余談…この記事の「おすすめのハッシュタグ」に「♯月の写真」って出たけど、なんでだ?(笑)

 

 

 

 

 

【前回】より続く。

 

 

 

 

引き続き2010年2月21日のお話。

 

 

坂下隧道を後にして西に数百m。

R425を左手前へと鋭角に進入するダート道がある。

 

現在地コチラ

 

 

 

 

 

 

 

 

開け放されたゲートの足元に落っこちた表示によると、

「林道祖父小屋線」とある。

 

しかしながら、実はこの道こそが先ほど見てきた坂下隧道の旧道に当たる道であり、明治33年に拓かれた林道の本来のルートなのである。

 

そしてそこに、「真のターゲット」が。

 

 

 

 

 

 

なので、道は今記事の主役ではない。よって端折らせていただき

進むこと5分で車を停め、徒歩進軍へとチェンジ。

 

結果的にはもうちょっと車で進めたが、いずれ大した距離じゃない。結論から言えば、徒歩時間はわずか9分だった。

 

 

 

 

 

 

 

ところで、繰り返しになるがこの記事は2010年2月21日の訪問記録であるが、近年ここらの様子は大きく変貌しているようだ。

 

 

よって、

こういう切り通しなんかも現存しているのかどうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

切り通しを抜けてほどなく、こういう一見行き止まりふうになってたものだが、

聞き及んだ噂によれば、ここら一帯スカーーーン!と切り払われて広場みたいになっちゃってるとか?

 

とにかく相当に雰囲気は変わっているようだ。訪問される方は、そのあたり踏まえてよろしくどうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

で、行き止まりに見えるところをさらに分け入ると…

出 ま し た 。

 

 

 

 

 

 

 

 

ほぼ完全な姿でお出ましのコチラが、

明治33年建造、初代・坂下隧道、その西側坑口である。

 

しかし…まさか明治44年建造の現隧道にさらに旧隧道があるとは、逆に言えばわずか11年で放棄されるとは、尋常な状況じゃないよなあ。そのあたりはおいおいと。

 

 

 

 

 

 

 

 

この西側坑口の扁額は、けっこう(かなり?)有名。

「鬼斧神鑿(きふしんさく)」。

 

「鬼の斧、神の鑿(のみ)」、転じて「人間には成しえないほどの(鬼や神のごとくの)、優れた技術(あるいは作品)」という意味合いかと。頭の悪い言い回しでお恥ずかしいが、わたくしの知る中で最もカッコイイ扁額だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

左側には揮毫者の名前が刻まれている。

「従四位 小倉信近書」。時の三重県知事、小倉信近による揮毫だった。左端にはうっすらと落款も見える。

 

ちなみに…「時の」って書いたがこの小倉知事、在任期間は隧道が完成した明治33年の2月~10月、つまりわずか8ヶ月だけ。隧道がまだまだ珍しかった明治の世にあって、そのピンポイントで隧道扁額に名を残すとは、持ってる男だったようだな、小倉氏は。「鬼斧神鑿」というワードチョイスのセンスも然り。

 

 

 

 

 

 

 

隧道の意匠は、端正そのもの。

帯石、笠石とのサイズ感もバッチリの「鬼斧神鑿」と、東熊野のスタンダードたる楯状迫石+煉瓦の、鉄壁のコンビネーション。

 

同じく楯状迫石を備える東熊野街道筋の長島隧道、海野隧道、道瀬隧道、三浦隧道、相賀隧道、尾鷲隧道が建造されたのは、明治44年~大正6年にかけて。つまりはこの初代・坂下隧道のほうが先んじているわけで、もしかするとここの意匠を採り入れたのかも?

とは言え県内全体で見れば、明治18年建造の初代・長野隧道も異形の超大サイズ楯状迫石を備えていたので、もしかするとそこまで遡ったりとか…するのか?

 

 

余談だがこの初代・長野隧道、ここ初代・坂下隧道と同じくらいに、いやそれ以上に「鬼斧神鑿」というフレーズが似合う隧道だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

ボケボケで情けないが、洞内の全景。

延長61m、幅員3.6m、有効高2.1m、土木学会選近代土木遺産Cランクの隧道である。

 

 

 

 

 

 

さて、では洞内へと入っていこう。

 

 

 

 

【後篇】に続く。

 

 

 

2010年2月21日、第六次三重県遠征。この日唯一にして最大のターゲットを訪ねた記録を、何回かに分けてご紹介する。

 

 

 

酷道425号を坂場トンネルからさらに走ることわずか3分。

現れたのは、煉瓦ポータルの隧道。

 

 

 

 

 

 

 

 

その名を、

(判読しづらいが)坂下(サカゲ)隧道という。現在地コチラ

 

見た目の通りこの隧道は古く、明治44年の建造。そのスペックは、延長334m、幅員3.7m、有効高3.8m。堂々たるサイズである。

 

街道筋でもないこんな山中に、なぜ明治という極めて早い時期に隧道が穿たれたかというと、そこには林業との深い関わりがあった。すなわちこの隧道は、又口川流域で伐り出された木材を搬出するための、いわば「業務用隧道」だったのである。

そのためか当初からこの隧道は有料トンネル(!)として通行料金が課せられていた。「尾鷲市史」によるとその通行料、「大八車で二銭、牛馬車は五銭で、徒歩は無料」であったという。

 

ちなみに…現在R425に指定されているこの区間、その前身は、主要地方道尾鷲上池原線…の前が一般県道尾鷲折立線、さらに遡れば…明治33年に完成した又口林道。すなわち、この地方で最初に「林産物搬出を主目的とした林道」として生まれた道だ。

 

明治33年に完成した林道に対し、この隧道は明治44年建造。この差が気になるアナタであってほしい(笑)。これについては、末尾に。

 

 

 

 

 

 

 

さてこの隧道、左右の迫受石に

 

 

関わった人たちの名前が刻まれている。が…

 

絶妙に高い位置にあるのと汚れているのと画素極小の初代機クオリティにより、あいにく判読は困難。

 

 

 

 

 

 

 

こっから三枚は、

2018年2月11日、二ノ俣林鉄探索OFFの独り後祭りで訪れた際の写真。

 

 

 

 

 

 

 

ほぼまるまる8年が経過しているだけに、


なんだか色々とエライことになっている。扁額ももはや判読不可。

 

 

 

 

 

 

もちろん、

迫受石の記述も然り。

 

 

 

 

 

 

 

 

では、車に乗って、

西側へと抜ける。

 

 

 

 

 

 

こっから三枚、また2018年2月の写真で洞内をご紹介。

 

この日は西から来たので、記事とは方向が逆だが

 

 

 

 

こんな感じで、素掘りのモルタル覆工と波型ライナープレート区間が交互に出てくる。先人のレポによれば、ポータルだけでなく洞内にも一部煉瓦で巻かれた部分があるらしいが、気づかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

はい、またまた2010年の写真に戻って、

坂下隧道・西側坑口。

 

こちらは陽が当らないからか、ポータルに余計な緑の繁殖もなく、比較的しっかりと観賞が可能だ。

 

 

 

 

 

 

 

が、わたくし訪ねる時間が早かったり遅かったり雨が降ってたりで、

この隧道のマトモな写真があまりなかったりする(ヲイ)。

 

何回行っても写真を失敗するってなんやねん。もしかして心霊現象か?(笑)

 

 

じゃあなんで記事にした?とのお叱りは甘んじて受けるが、まあ「流れ上、必要だったから」ってとこかな(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

コレも酷ぇ写真だが、まあそれでも

概ねフォーマットは理解できる。

 

帯石と笠石と扁額に囲まれた長方形部分を飾るデンティルは素敵なんだが、要石も含めた石材が上部に固まったこの「頭の重たい感じ」、さほど好みじゃないかな~。個人的には、ピラスターも欲しいところ。

 

 

 

 

 

 

 

こっからは、三たび2018年2月の写真にバトンタッチ。

 

隧道あるあるの

偽ブロッケン現象(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に引きで西側坑口を。ほぼ日が沈みかけてたな。

手前の擁壁に…見えますかね?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

坂下名物(ウソ)、

ヒューム管住まいのお地蔵様。

 

こちらもまた、しっかりと拝んだことがないなあ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて。

 

 

途中に書いたが、又口川流域からの木材を搬出すべく林道が開かれたのは明治33年。しかるに、この坂下隧道が建造されたのは明治44年のこと。これが意味するものはただ一つ。

 

 

 

11年しか使われなかった旧道がある、ということだ。

 

 

 

そして、そこには「真のターゲット」が…。

 

 

 

 

 

【次回】に続く。

 

 

 

 

 

 

暫しの暇、ありがとうございました。再開いたします。

 

 

野辺の送りから鬼神の世界へと。

 

 

 

 

【本篇】に続く。