2010年2月21日、第六次三重県遠征。この日唯一にして最大のターゲットを訪ねた記録を、何回かに分けてご紹介する。
酷道425号を坂場トンネルからさらに走ることわずか3分。
現れたのは、煉瓦ポータルの隧道。
その名を、
(判読しづらいが)坂下(サカゲ)隧道という。現在地コチラ。
見た目の通りこの隧道は古く、明治44年の建造。そのスペックは、延長334m、幅員3.7m、有効高3.8m。堂々たるサイズである。
街道筋でもないこんな山中に、なぜ明治という極めて早い時期に隧道が穿たれたかというと、そこには林業との深い関わりがあった。すなわちこの隧道は、又口川流域で伐り出された木材を搬出するための、いわば「業務用隧道」だったのである。
そのためか当初からこの隧道は有料トンネル(!)として通行料金が課せられていた。「尾鷲市史」によるとその通行料、「大八車で二銭、牛馬車は五銭で、徒歩は無料」であったという。
ちなみに…現在R425に指定されているこの区間、その前身は、主要地方道尾鷲上池原線…の前が一般県道尾鷲折立線、さらに遡れば…明治33年に完成した又口林道。すなわち、この地方で最初に「林産物搬出を主目的とした林道」として生まれた道だ。
明治33年に完成した林道に対し、この隧道は明治44年建造。この差が気になるアナタであってほしい(笑)。これについては、末尾に。
さてこの隧道、左右の迫受石に
関わった人たちの名前が刻まれている。が…
絶妙に高い位置にあるのと汚れているのと画素極小の初代機クオリティにより、あいにく判読は困難。
こっから三枚は、
2018年2月11日、二ノ俣林鉄探索OFFの独り後祭りで訪れた際の写真。
ほぼまるまる8年が経過しているだけに、
なんだか色々とエライことになっている。扁額ももはや判読不可。
もちろん、
迫受石の記述も然り。
では、車に乗って、
西側へと抜ける。
こっから三枚、また2018年2月の写真で洞内をご紹介。
この日は西から来たので、記事とは方向が逆だが
こんな感じで、素掘りのモルタル覆工と波型ライナープレート区間が交互に出てくる。先人のレポによれば、ポータルだけでなく洞内にも一部煉瓦で巻かれた部分があるらしいが、気づかなかった。
はい、またまた2010年の写真に戻って、
坂下隧道・西側坑口。
こちらは陽が当らないからか、ポータルに余計な緑の繁殖もなく、比較的しっかりと観賞が可能だ。
が、わたくし訪ねる時間が早かったり遅かったり雨が降ってたりで、
この隧道のマトモな写真があまりなかったりする(ヲイ)。
何回行っても写真を失敗するってなんやねん。もしかして心霊現象か?(笑)
じゃあなんで記事にした?とのお叱りは甘んじて受けるが、まあ「流れ上、必要だったから」ってとこかな(笑)。
コレも酷ぇ写真だが、まあそれでも
概ねフォーマットは理解できる。
帯石と笠石と扁額に囲まれた長方形部分を飾るデンティルは素敵なんだが、要石も含めた石材が上部に固まったこの「頭の重たい感じ」、さほど好みじゃないかな~。個人的には、ピラスターも欲しいところ。
こっからは、三たび2018年2月の写真にバトンタッチ。
隧道あるあるの
偽ブロッケン現象(笑)。
最後に引きで西側坑口を。ほぼ日が沈みかけてたな。
手前の擁壁に…見えますかね?
坂下名物(ウソ)、
ヒューム管住まいのお地蔵様。
こちらもまた、しっかりと拝んだことがないなあ…。
さて。
途中に書いたが、又口川流域からの木材を搬出すべく林道が開かれたのは明治33年。しかるに、この坂下隧道が建造されたのは明治44年のこと。これが意味するものはただ一つ。
11年しか使われなかった旧道がある、ということだ。
そして、そこには「真のターゲット」が…。
【次回】に続く。