【前回】より続く。
引き続き2010年2月21日のお話。
坂下隧道を後にして西に数百m。
R425を左手前へと鋭角に進入するダート道がある。
現在地コチラ。
開け放されたゲートの足元に落っこちた表示によると、
「林道祖父小屋線」とある。
しかしながら、実はこの道こそが先ほど見てきた坂下隧道の旧道に当たる道であり、明治33年に拓かれた林道の本来のルートなのである。
そしてそこに、「真のターゲット」が。
なので、道は今記事の主役ではない。よって端折らせていただき
進むこと5分で車を停め、徒歩進軍へとチェンジ。
結果的にはもうちょっと車で進めたが、いずれ大した距離じゃない。結論から言えば、徒歩時間はわずか9分だった。
ところで、繰り返しになるがこの記事は2010年2月21日の訪問記録であるが、近年ここらの様子は大きく変貌しているようだ。
よって、
こういう切り通しなんかも現存しているのかどうか。
切り通しを抜けてほどなく、こういう一見行き止まりふうになってたものだが、
聞き及んだ噂によれば、ここら一帯スカーーーン!と切り払われて広場みたいになっちゃってるとか?
とにかく相当に雰囲気は変わっているようだ。訪問される方は、そのあたり踏まえてよろしくどうぞ。
で、行き止まりに見えるところをさらに分け入ると…
出 ま し た 。
ほぼ完全な姿でお出ましのコチラが、
明治33年建造、初代・坂下隧道、その西側坑口である。
しかし…まさか明治44年建造の現隧道にさらに旧隧道があるとは、逆に言えばわずか11年で放棄されるとは、尋常な状況じゃないよなあ。そのあたりはおいおいと。
この西側坑口の扁額は、けっこう(かなり?)有名。
「鬼斧神鑿(きふしんさく)」。
「鬼の斧、神の鑿(のみ)」、転じて「人間には成しえないほどの(鬼や神のごとくの)、優れた技術(あるいは作品)」という意味合いかと。頭の悪い言い回しでお恥ずかしいが、わたくしの知る中で最もカッコイイ扁額だと思う。
左側には揮毫者の名前が刻まれている。
「従四位 小倉信近書」。時の三重県知事、小倉信近による揮毫だった。左端にはうっすらと落款も見える。
ちなみに…「時の」って書いたがこの小倉知事、在任期間は隧道が完成した明治33年の2月~10月、つまりわずか8ヶ月だけ。隧道がまだまだ珍しかった明治の世にあって、そのピンポイントで隧道扁額に名を残すとは、持ってる男だったようだな、小倉氏は。「鬼斧神鑿」というワードチョイスのセンスも然り。
隧道の意匠は、端正そのもの。
帯石、笠石とのサイズ感もバッチリの「鬼斧神鑿」と、東熊野のスタンダードたる楯状迫石+煉瓦の、鉄壁のコンビネーション。
同じく楯状迫石を備える東熊野街道筋の長島隧道、海野隧道、道瀬隧道、三浦隧道、相賀隧道、尾鷲隧道が建造されたのは、明治44年~大正6年にかけて。つまりはこの初代・坂下隧道のほうが先んじているわけで、もしかするとここの意匠を採り入れたのかも?
とは言え県内全体で見れば、明治18年建造の初代・長野隧道も異形の超大サイズ楯状迫石を備えていたので、もしかするとそこまで遡ったりとか…するのか?
余談だがこの初代・長野隧道、ここ初代・坂下隧道と同じくらいに、いやそれ以上に「鬼斧神鑿」というフレーズが似合う隧道だと思う。
ボケボケで情けないが、洞内の全景。
延長61m、幅員3.6m、有効高2.1m、土木学会選近代土木遺産Cランクの隧道である。
さて、では洞内へと入っていこう。
【後篇】に続く。










