【旧・馬越橋】より続く。今回、半分以上の写真がボケております(泣)。
つうわけで、馬越橋の先にぽっかりと開口するは
一線を退いた、東熊野街道の隧道。これは東側の坑口。
その名は
(ボケてるが)相賀隧道。右書きである。
ポータル向かって左には、
小さなお地蔵さま。
しかし、こんだけ草むしたポータルって珍しいよなあ。あまりに草茫茫(敢えて漢字で書いてみた)でわかりにくいが、ポータルはコンクリート製なようだった。
それがわかるのは、ここ。
コンクリで埋め殺されたポータルの奥に切石のアーチ環、そこからは煉瓦巻き。ですよね~、煉瓦隧道って思って来てるから、こっちは。
はい、ここで
前回ポロリした、鉄板の構図。いいっしょこれ~。
洞内に向かって右側の壁面に、有名な銘板がきれいに残っている。
起工 大正貮年九月
竣工 大正五年七月
設計者 三重縣技師 岩井藤太郎
施工者 三重縣技手 天野 久
石工 西村市蔵
東熊野街道筋の煉瓦隧道群、拙ブログにおいてはなぜかずーっと後回しにしてきてこれが初紹介なので書いておく。
北から順に長島、海野、道瀬、三浦、相賀、尾鷲の六隧道は、東熊野街道の整備に伴い、明治44年~大正6年にかけて相次いで建造された。そのすべてをこの「岩井・天野ペア」(笑)が手がけており、帯石とピラスターのないシンプルな煉瓦ポータルと楯状迫石というフォーマットが共通している。そして各隧道内には、この端正な石板が残されているのだった。
ちなみに、六洞すべてが現存しており、北側の三洞は歩行者トンネルなどで現役だが、南側三洞は廃隧道となっている。そして今回の主役である相賀隧道だけが、現道に新トンネルが掘られることなく路線改良された。
煉瓦隧道とは書いたものの、
実際は素掘りとのハイブリッド。坑口以外は、安定していないとこだけ煉瓦で巻いたのだろうか。
西側(尾鷲側)に抜けて振り返り。
そうそう、この感じ。
これが「岩井・天野ペア」のデフォルト。同じ日に連続で見ると正直ちょっと飽きるのだが(笑)、単品で見るとやっぱいい。特にこの相賀隧道西側は、ロケーションや周辺の雰囲気コミで、全六洞の中で一番好きかも。
あと、草茫茫の東側に引き換え、このすっきりとした見え方よ。日当たりだけでこれだけ違うもんだろうか。
西側扁額。
東側とは全然違う書体で「相賀隧道」と。
左に縦書きで揮毫者?が刻まれてるっぽいが、全然わからん。古ネタはおしなべてそうだが、ここもまた再訪したいなあ…。
そして、これ。
特徴的な、楯状迫石。全国的にみると、なかなか珍しいのだ。
素人目には、通常の迫石よりも力学的にポータルの死荷重がアーチ環にしっかりかかるように思える。それ以前に、ちょっと華やかさが加わるような印象で、好きだ。
引きで。
とってもイイ感じに旧道が残っているように見えるが、確かこの背後でプチ崩落していたような気がする。よって、車での通り抜けはできない。今じゃもっと荒れてるんやろうな~。
戻りに撮った、洞内。
なかなかの巻厚でございますよ。
そうそう、ちゃんとお伝えしてなかったが、
この隧道、東から入ってすぐに曲がってるのだ。これがイイんだな~。
この日は以上。だが約1年半後の2011年4月23日、この隧道には変則な形で再訪している。
この日は四国からのスペシャルゲストをお迎えしての紀伊半島ハードコア接待(爆)で、大人数での訪問となった。以下はその時の様子を。
そうそう、まだ車で(入ろうと思えば)入れたなあ…。たぶん今は、無理やろうな。
その後ここのそばは何度か通っているが、隧道への再訪はしていない。そろそろまた、頃合いかもな。
以上。