2009年1月。この趣味にハマり、先人のサイトやブログを閲覧するようになり、ちょっとずつ自分でも動き始めていたこの頃に、以後のわたくしを決定づける、ある「出会い」があった。
前年12月に発売された、その名も「廃道本」というムック本。その冒頭を見開きで飾っていたある隧道の写真に、ブチのめされたような衝撃を受けた。古代巨石文明の神殿遺跡じみたその威容、写真であるにもかかわらず、それ自体の放つオーラを感じ、完全に心を持って行かれた。まさに運命の出会い。
そしてその隧道が、我が家から行けなくもない距離に存在していることを知った時…それが真の我がキャリア(何のやねん・笑)の始まりだった。
運命の出会いからおよそ2ヶ月後の2009年3月20日。嫁さんと日帰り温泉に行く途中という理想的とは言えない(笑)条件下ながら、
ついにその隧道…初代・長野隧道を訪ねた。
この峠には、三代のトンネルが存在している。
そのうち平成の新トンネルと、その開通に伴い封鎖された二代目・昭和の隧道(上の写真)については、以前に記事にしているのでまずはそちらをご覧あれ。
上の写真左端あたりに、山に分け入る道…というか踏み跡があり(現在ではかなり整備されているらしいが、この時点では積み跡レベルだった)、そこに「明治のトンネル」と書かれた小さな立て札が立てられていた。そこを上がっていく。
嫁さんを車に待たせている。写真は少ない。
よって、タメませんぞ。
…(色々書きたいのを、グッと我慢・笑)。
憧れの隧道が、ついに我が目前に。しばし立ち尽くし、その威容を噛みしめた。
総石造の重厚な…という表現では生ぬるいほどのマッシヴなその威風堂々たる坑門。これが初代の隧道。
その建造、明治18年。凄い、凄すぎる。
とりあえず、デカイ。
いや、物理的な隧道サイズもさることながら、巨石文明の遺跡と表現した理由がわかっていただけるだろうか。
ひとつひとつの石材が
ハンパなくデカイ!
このゴツいピラスター(付け柱)を見ても感じていただけるかもしれないが、特にアーチ環を構成する迫石と要石は、常軌を逸した超弩級サイズ。大きさを実感していただけるような比較物がないのが残念だが…。
この時点では経験も知識もゼロ同然、これが盾状迫石と呼ばれる形状であることも後で知ったが、今こうして見ると、通常の楯状迫石をさらに二分割したような薄い迫石を重ねた仕様となっているのがわかる。それでも充分以上にデカイのだが。
この仕様では、迫石すべてがそれぞれ違う形状となるため、ひとつひとつを成型しなくてはならなかったはず。
いやもう、凄い…それしか出てこなかった。
扁額は抜き取られ、上からの土砂の崩落も見られるものの、ポータルそのものは引くほどに(笑)堅牢そうだった。
そして、洞内は?
半水没しているものの、この時点ではなんら封鎖措置はなかった。
今思えばもったいなかったが、何しろこの時点でのわたくし、長靴さえも持っていないド素人、しかも嫁さんを待たせている(笑)。
そそくさと撤収。
二代目昭和隧道脇には、こんなものが。
どうもコレが、抜き取られた扁額であるらしい。
「其功以裕」と刻まれているらしいが、そう教えてもらえばなんとなく…のレベル。
実は、近辺にもうひとつ、同じような石板がある。このふたつが両側坑口に掲げられていた扁額だということだが、
この日に撮った写真は、コレが全て。
当然ながらせわしない思いもしつつ、改めてゆっくりと、また反対側である伊賀市側も探索してみたかった。改めての再訪を(嫁には内緒で)心に誓った。
【次回】は、その時の報告を。