昨日もちょっと書いたのだけど、スクールカウンセラーが、カウンセリングよりも手前の業務、例えば今ちょっと大変になってきた子を支える先生に専門的な見立てと、具体的な対処や介入についての方針設定を明らかにするようなことが出来るようになって来ると。

カウンセリングまでいく手前で対処ができるようになっていき、件数が減っていくようになる。

そういった専門家に対する専門家同士の助言をコンサルテーションと呼び、それが相互的になることでコラボレーションになっていくのだけど。

それが出来るようになってくると、今度は緊急対応のような学校全体のある事例に対するコンサルテーションとが依頼されるようになり、それはカウンセラーの仕事の範疇を超えた、(その事例限りの)学校コンサルティングということになっていく。

今の時点でもそういう視点を持ってスクールカウンセリングに取り組んでいる人、いつの間にか取り組まざるを得ない状況になっている人もいるかと思うけど、従来の、2.30年前から言っているような受容と共感レベルの話では、とても対応出来ない話で。

そこが当たり前のように十分に出来た上で、コミュニティ的なものの見方や発想がないと、そういう介入はむずかしいし、かといってそういう力がつくような教育体制が出来ていないし、教える側が必要性を感じていないのだろうな、とも感じる。

僕らは新しいのとを取り入れたいと思って頑張って学んでいるのに、頑張りすぎるとそこを脅かす新しい考えや感覚を無意識に拒否するようになってしまうのかもしれない。

今の時点でも、なんか感覚として受け付けにくい、頭に入って来ない考え方や技法もすでにあるんだけど、出来れば他の人が学んだり実践していることについては、よく分からずに拒否したり否定しないでいれると良いなと思う。

11月12日に東京の某所でアンガーマネージメントに関する支援者向けの研修をさせていただくことになりました。


内容は支援者の怒りだけでなく、支援者がどのように誰かの怒りに対処するのか?という包括的な内容になりそうです。

 

面白い、というかありがたいのは、企画について、あれこれ考える仲間が集まってきてくれたことです。

 

今の仕事は、多職種のチームワークで臨まねばならないところで、それまではずっと10年位、外部の専門家として関わってきたこともあって、なかなか戸惑うことが多かったですが。

 

二年目になって、やっとチームで動くコツというか、組織や仕組みを通して、助け合える働き方をデザインしていくことが出来るようになってきた気がします。

 

学校現場のことで考えると、スクールカウンセラーのつもりが、いつのまにか学校コンサルティングに近いことをやっているようになってきて、これはきっとスクールカウンセラーの常勤化が当たり前になった未来のあるべき姿だと思うのですが。

 

状況や構造が見えれば見えるほど、自分の身一つをとうに超えた責任や重圧に気付かされ、今まで感じたことのないプレッシャーを感じることが増えてきました。

 

どこに行って、どこで働いたとしても、そこにある「必要」を吸収して、一歩先に進めたらいいなと思っているのですが、そのためには自分の枠を広げなければなりません。

 

枠はただ単に広いとか大きいことだけではなく、ものの見方を変えないと、今ある必要を吸収できなかったり、見方を変えるまでにとても苦しい思いをすることが多いなと思います。

 

チームで動く仕事で、そういう事になった場合、人間関係も含めてどん詰まりのような状態になって、いろんな人に迷惑をかけたり、感情に振り回されながら、少しずついろんなことに気づき、枠を広げることで、やっと「必要」を吸収し、仕事が本当に「仕事」になっていくのだなと感じます。

 

でもそれにはしんどい時に生き延びねばならないですよね。

 

仕事を続けながら、支え合える仲間や安心できる場所や、自分を助けてくれるコミュニティーや、師匠なんかを見つけて、いざっていうときにちゃんとSOSが出せるようになっていく。

 

そして、そういう時に自分の足りないところを感じたり、The人生みたいな話になってしまいましたね。

 

 

話はメッチャ戻りますが、僕はやりたいことがたくさんある上に、人の何倍もの時間を掛けてもうまくいかないような苦手なこともたくさんあって、その上、人に何かを頼むのもあまり上手くないという、自分自身を振り返っても本当に困った人で。

 

まーやりたいことが出来なくて困っていたのですが、これまた僕の苦手な、誰かと協力して何かを作り上げたり仕事をする、っていう機会がこの1年でポコポコと増えてきて、そこで意外と人と何かを一緒にやるってことは「ええもんやん」って思えたんですよね。

 

今気がついたのですが。

そういえば、僕は誰かの企画に「ここ」って決めたところに一方的に得意分野で協力するのは得意だったりするんです。

 

キャンプであってもLIVEであっても、結婚式であっても、スクールカウンセリングであっても、どんなに目立っても中心にはならないけど、「外部性」を持ってそこに関わるのは得意だったんです。

 

でも、自分が中心に成ったり、そのものの中に入って、誰かと一緒に足並みをそろえたり、協力して何かを行うってことが出来なかったんですよね。

 

ん〜なんかこれは、本当に僕の中心にあるものなのかもしれないですね。

合気道やTEDxみたいな「個人戦」の集まったような「団体戦」は好き。

でもチームで連動して動く球技は苦手、みたいな。

 

「自分一人分の責任は喜んで負う、でもそれを超えた責任は持てない」

 

という「責任」に関わることが、知らないところで自分の行動や選択を規定していたのかも??いろんな意味でね。

 

書きながら一人で自分をカウンセリングしてるみたいですが、最近はちょっと様子が違うんです。

 

仕事の中で、「協力」っていいかも?って思うようになってきたところで、冒頭で書いたように、色んな場面で互いの良さを活かしあってやっていこう!みたいな動きが自然に集まってきている気がするんです。

 

「タオ心理学」という本の中に「弟子に準備ができた時に師匠がやってくる」みたいな言葉があるのですが。

 

やはり心のなかで起こっていることは、自分の外側にも知らぬ魔に反映されていて、見えないようで、いろんなところからその繋がりが見えるのだなって、劇的じゃないけど、ユング心理学的な、共時的な体験の中に常にいることを意識させられます。

 

「生きる」上での次の「仕事」は、それ抜きでは決して叶わない「必要」が、今少しずつ整っているのかもしれないなと感じています。

似ている人ってひとことでいうけど、ぱっと見全然似てないのに、なんかやたら考え方や感覚が似てる人がいたり、行動が似ている人がいる時があって、そんな出会いをするとなんかワクワクと奇跡のような気がしたりする。


全く似てないのも面白いけど、共感がしづらかったりするけど、こんなに違うのにここはメチ ャ似てる!ってのは似てるのに違うところがあるからより面白いと思う。


よく似た者夫婦というし、確かに仲のいい夫婦はなんか雰囲気が似てるなと感じることがあるけど、それ以上に真逆じゃん!と思うことも多い。


生物としての保存本能を思えば、遠い遺伝子を持った異性を求めるはずなので、違って当たり前とも言える。


なので、こんな風に考えるのはどうだろう?

人が配偶者を求める時は、遺伝子的に遠くて、文化的に近い人を選びがちなんじゃないだろうかと。


つまり逆の脳の特性を持ちつつも、一緒の生活文化を共有できるってのが、最強のパートナーなんじゃないかと。


夫婦が喧嘩してる話を聞くと、やっぱり脳の特性の違いから、「信じられない!」ってなるし、仲のいい時は同じ価値観や文化を楽しんでる時のように思います。


で、初めの話に戻ると、普通の似てる似てないも、遺伝的な要素の多い認知的な特性やコミュニケーションの取り方が似てる場合と、考え方や思想、志の持ち方が似ている場合があるんじゃないかと。


認知的な特性が似てて、自分とは異なる経験や考え方を持つ人からは学ぶことが多くしっくり来るだろうし、何かことに当たるならば認知特性が違いつつも志を同じくする仲間とするのが良いのだろう。


どちらにしても「違う」ことをメリットとして、協力したり学びあったり、時間を共にするのだから、「違う」ということのデメリットにも当然どこかで出会うわけで、そんな時に「違う」からこそここに今共にいるじゃん!ってことを思い出した上で、道を分かれて行くのか、ここを協力して乗り切っていくのかを、考えることができたら、後悔することは少ないのではないかと思う。


これってつまるところ、多様性、についての話だったかと一人で納得してる京都タワーの見えない京都タワーの下。