「子供は出来るだけ褒めた方がいいですよ」って前は思っていたし、そう言っていたけど。


でも、カウンセリングの仕事をやっているうちに、子供の主体性や自尊心を高めるためには、「褒めること」はけして「最良」の方法ではないことが、実感としてだんだん分かってきました。



先に結論を言うと、言葉で褒めるよりも、関心を持った目線や、子供が取り組んだことへの質問、プロセスへの肯定的関心や、達成したことを一緒に素直に喜ぶことの方が、子供の主体性や自尊心を高めることに繋がると僕は思っています。



そりゃあ無関心や批判よりは、褒めた方がいいとは思います。



褒めるっていうことは、一見いいことのように見えるけど、その実、常に子供を親や世間の尺度で「評価」しているということです。



「評価」ってのはつまり「条件付きの承認」ってこ。



「ああ、こうすれば褒められるんだな」ってのは分かるけど、一番大事な自発的な心の動機みたいのが、あんまり強化されない。


場合によっては動機を失わせてしまうこともあります。この話はまた今度するとして。


まあ子供ってのは、自分の大事な人に褒められて嬉しいからより頑張るわけだけど。


そしてその感張りを見て余計に褒めたくなるし、そうすると子供は余計頑張って、うまくいけば自信がつく、っていう理想的なストーリーを人は当然のように思い描くんだけど。


そのストーリーについて、いつまで適用可能なのか?ってことを具体的に考えている人はまれで。


だいたいにおいて小学校の中学年や高学年になると、それまで無条件に取り入れて来た親や先生、大人の言うことに対して「批判的」に受け止めるようになります。


自分がいいと思った人の言うことは真剣に聞くけど、こりゃ違うだろ、と思ったことは真剣に聞かないでいるとか。


つまり相手の言葉を「評価」して、取り入れるかどうかを自分の心で「判断」するようになるということです。


「親に褒められるから」ということよりも「自分がやりたいから」「自分にとって必要だから」ということの方が重要になる。


そうするとそのストーリーは適用出来なくなるし、「本当にうちの子は全くしょうがないんだから」ということになって、子供を不必要に怒ったり、せかしたりすることになる。



その親の気持ちの根底には「ちゃんとやったら褒めてあげるのに、なんで一生懸命やらないの?」って考えがあるのかもしれない。



でも主体性がついてきて、そういう親の考え方、関わり方が子供だましだなと無意識に思い始めた子供たちは、うん、と言いつつほっておいて自分の好きなことをギリギリまでやる、という方略に出ることが多い。



こういうのって、親にとっては嬉しくないかもしれないけど、これは子供の主体性がちゃんと育っている証拠と考えてもいいかもしれない。


でも下手すると、子供が高校生や大学生、社会人になってもそのやり方を適用しようとする親もいて。

いっつも子供が言うことを聞かないことに不満を抱いているかもしれない。


これが上手く行く場合は、子供の中で「親が褒めてくれて嬉しい」から「親が喜んでくれて嬉しい」に変わっている場合。


親は子供だと思って「褒めて」あげてるんだけど、子供はすでに大人になっているので、親の喜ぶ姿を見たくて頑張る、ってことになっているかもしれません。



でも、恐ろしいというか悲しいことに、親が褒めてくれることや喜ぶことを、自分が嬉しかったりやりがいを感じることよりも大事に思い続ける人もいるんです。



それが恐ろしいことだと思わない人もいるとは思うけど。


僕は恐ろしいことだと思います。



たいがいは親が褒めたってけなしたって、子供は独自の考えや意思を持って、自分で考えて行動できるようになる場合が多いのですが、俗にいう親孝行な子、ほど、影響を受け、縛られ、自分の道を歩き出すのに苦しむことが多いのでは?と思います。


みなさんはNHK教育で放送されているのTEDスーパープレゼンテーションという番組を知っているでしょうか?

 

今回はそのTEDの中から社会心理学者のエイミー・カディさんのポーズと心の関係についての話を取り上げてみようと思います。

 

 

 

 

人は言葉よりも、態度や表情といったボディーランゲージで相手により多くのメッセージを与えていると言われています。

 

でも、実はボディーランゲージの方からも、自分の心にも影響を与えているということがわかってきました。

 

 

①自信にあふれる「力のポーズ」をすると

脳の中で自信に関係あるホルモンであるテストロンが放出される

 

→もっと自信があふれてくる

         

 

②自信のない「無力のポーズ」をすることで

脳内のうつに関係のあるホルモンであるコルチゾールが放出される結果

 

 

→もっと自信がなくなる

 

 

ということが起こっているようです。

    

 例えばお笑い芸人のサンシャイン池崎は、あの自信にあふれたポーズをすることで、さらに彼の自信を高めていると言えます。

 

人は自信のあって落ち着いている人を求めますし、面接の結果などにも、話す内容よりも自信のある態度の方が影響を与えると言われています。

 

 この実験をしたエイミー・カディさんは、自信が無いときはまず「自信のあるフリ」をすることが大事だと話しています。

 

自信がなくて困っている人は、まず自信のあるポーズをすることで、脳の中から自分を変えていくことができるかもしれませんね。

   

○力のポーズ   胸を張る、腕を高く上げて広げる等 

   

○無力のポーズ  背を丸める、首元に手を当てる等

 

 

依存と自立は対として扱われることが多いけど、自立の反対にあるものとして、依存が悪いこととして扱われている事が多いですよね。
 
親や親しい人、あるいは医療機関や地方自治体やNPOなんかの世話になったり助けてもらっている人を見ると「とりあえず自立しなきゃいけないんじゃないの?」みたいなことをポンと言う人って割と多くいるし、そりゃ自立できることは大事なことだと思うけど、そういう人にとって「自立」とは「誰にも依存せずに一人で生きること」、「依存をしないことで初めて自立できる」みたいに思ってるんじゃないのかな?と感じます。

それは自立ではなくて、実は孤立なのかもしれません。
 
自立とは、依存の反対にあるのではなくて、自分が多くの人や存在に少しずつ知らぬ間に依存したり世話になっている事に気づいた上で、そこに感謝しつつ、自分の力や心遣いで還元していくことが出来ることだと思っています。
 
「私は自立しているから誰にも迷惑をかけたことがない」と言って自由気ままにふるまっている人が本当にいるかどうかわからないですが、そういっている人がいるとするならば、その人の自立は「金銭」や「労働」あるいは「人間関係」などのある狭い範囲に限定して人の世話になっていないわけであって、その人が焦点づけられていない、あらゆるところで他人に気を遣わせ、金銭や労働を負担させ、それに気づくことが出来ていないということだと思います。
 
そして多かれ少なかれ、親しい人間や距離の近い関係の人に対して、人はそのようにふるまってしまっており、それこそ本当の意味での「依存」なのではないかと思います。
 
自分自身もそうしてしまっているなと思うのですが、家族や恋人、ごく親しい仲間などは、こういった「依存」が互いに許せる関係だからこそ、その中で喧嘩が出来たり、ブツブツ言いながらも付き合いが続けられるのかもしれません。
 
しかし、こういうことが相互了解的でなく、一方的に起こってしまうと、パワハラやセクハラ、アカハラといったハラスメントということになってしまうのではないでしょうか。
 
例えばこんな人はいませんか?会議で自分の意見が通らなかったり反対されたときに、猛烈に不機嫌になって、自分のイライラを誰かにぶつけたり、意見が通るまでごり押しをしようとする人。
 
そういう人って「自分の意見がちゃんとある人」とも言えますが、周囲が自分の意見や感情を何も言わずに受け入れてくれることを期待している人」ともいえるんじゃないでしょうか。
 
つまり自分の感情やわがままを「何も言わずに母親に認めてほしい」という幼児の持つ母親への依存や万能感とも似ているかもしれません。
 
こういう人は経済的にも「自立」して「立場」も「権力」も「責任」も持っているかもしれませんが、それってつまり「万能感」が高まってしまう、「なんでも思い通りになる」と勘違いしてしまう可能性も高まりますし、その「依存」が周りに与える影響も大きくなってしまいます。
 
自立ってのは「健康な依存状態」といっていいかと思います。
人は生まれた時は、自分の家族、その多くの場合は母親との間でみっちりと依存関係を築き上げ、そこから自分で世界を探索することで、様々な立場の人と出会い、新しい関係性を作っていくことで社会のなかに自分の「居場所」つまり「支え合える関係性」つまり「ちょっとずついろんな人に世話になりながら自分も誰かの世話をして、互いに感謝し合える関係性」を持てることだと思うんです。
 
「健康な依存状態」というのは、「多くの人に少しずつ依存し合えて生きていける状態」と言い換えてもいいかもしれません。
 
つまり「相互的な依存関係」があちこちの方向に伸びていて、そういったネットワークの上で個々が自由に感情や考え、個性を表現し、受け止め合える環境で生きる、ということなのかもしれないなと思います。
 
逆に「一方的」もしくは「限られた関係性」の中で起こっている依存関係は「不健康な依存関係」なのではないでしょうか。
 
なぜなら依存関係は関係している相手の数が少ないほど、その依存関係に乗る感情の力は強くなり、環境が閉じられていれば閉じられているほど、その関係性は強固なものになっていきます。
 
狭い、限られた関係性の中で出来てしまった依存関係の悪循環から抜け出すために大事なのは、「自立」を促すことではなく、依存できる他者が生活の中にそっと入り込むことなのかもしれません。
 
 
「自立支援」てのもありますが、実際は「自立」を促すことよりも、信頼できる他者がその場にいること、その存在自体が、不健康な依存関係から、健康な依存関係へ変化していく重要なきっかけになっていると考えることもできるかと思います。
 

絆という言葉は、他者と繋がりを持つことなのだと思いますが、その繋がりはクモの糸のように細くて、でもしなやかで、まさにWEB のように近くの遠くの多くの人をゆるくつなぎとめ、お互いをささやかに支え合っている、そういうのが安心して過ごせる社会であり、個人が自立した、健康な依存関係なのではないかと思います。