「Someone To Watch Over Me」つながりで、「Shall We Dance?」。おなじみRR=OH2の名作ミュージカルの一つです。

もちろんH2Oの間違いではなく、RRは作曲のリチャード・ロジャーズ、OH2とは作詞のオスカー・ハマースタインII(2世)を指します。

さて「やさしい伴侶を」が、ミュージカル・スターとしてのガートルード・ローレンスの最初の一歩だとすると、ミュージカル『王様と私』(原題:The King And I)が彼女の最後の主演作品でした。1951年に開幕して1年半経過後、ガートルードはガンで亡くなっています。

まずはユル・ブリンナーとガートルード・ローレンスが公演開始後1カ月後に録音したこのミュージカルのオリジナル・キャスト版に収録されている「Shall We Dance?」をお聴きください(ただし動画ではありません)。解説書に掲載されている写真を見ながら・・・。



このオリジナル版ミュージカル『王様と私』は、NYのセント・ジェイムス劇場で、いきなり1246回の公演を記録します。

そもそも企画を立てたのはガートルード自身です。すでにマーガレット・ランドンの原作『アンナとシャム王』は映画化されており、その映画に触発された彼女はミュージカル化のために最初はコール・ポーターに楽曲を依頼したそうですが、断られます。しかし彼女は、さらにハードルの高い作家コンビ、リチャード・ロジャーズとオスカー・ハマースタインIIに楽曲制作を頼みに行き、彼女の熱意にうたれた二人は「ローレンスの歌唱力に難があるのを知りながらも、作品を書き自ら製作することに同意した」(スタンリー・グリーン著『ブロードウェイミュージカル』より引用)のでした。

さらには王様役に、当時無名のユル・ブリンナーをオーディションによって抜擢したのも彼女だったとのことです。

ガートルードの死後もユル・ブリンナーは『王様と私』の再演を続け、彼の生涯最後の公演は4625回目だったそうです。ユル・ブリンナー享年65歳。

このことで、ボクがガートルードにこだわる理由がお分かりいただけたのではないかと思います。




そしてミュージカル・プレイの映画化が、この音楽の数々を世界に広める役割を果たすことになりました。ミュージカルの映画化は1956年です。

映画の王様役は(当然ながら、この人を措いて他はない)ユル・ブリンナー、『私』役にはエレガントでガートルードのイメージに近いデボラ・カーが選ばれています。

映画は吹き替えが自由ですからもちろんデボラ・カーが歌ったわけではありません。吹き替えはマーニ・ニクソンです。

(なおこの人は後に『ウエストサイドストーリー』のマリア(ナタリー・ウッド)の歌の吹き替えをし、さらには『マイ・フェア・レディ』のオードリーの歌の吹き替えもした人です。すごいことですね。)


ちょっと熱が入っちゃいました(笑)。

では映画版の「Shall We Danace?」です。ユル・ブリンナーとマーニ・ニクソンの歌を聴きながら、ガートルードに想いを馳せていただければ幸いです。

Shall We Dance?

movie




さて、幾時代かがありまして。中東で黄色い戦争などもありましたが、映画『Shall We Dance?』からちょうど40年。1996年の1月に公開されたのが、われらが周防正行監督の『Shall We ダンス?』(Danceだけがカタカナなのです。理由はお分かりですよね)

ボクは『しこふんじゃった』ですっかり周防ファンだったこともあって、この映画を劇場で観て深く感動したことをいまもハッキリ覚えています。

Shall We ダンス?予告編



とりわけ最後のシーンの草刈民代の凛々しい立ち居振る舞い(もはや“ダンス”の域を超えた?)は、見事でした。

この映像の、とりわけ役所サンが現れてからの場面をご覧ください(お急ぎのかたは3:00の箇所からでOKです)。

さらに端折ってダンスが始まるシーンからだけでいいかたは、4:15のところから。吹き替えで歌っているのは大貫妙子です。



その後、リチャード・ギアがリメイクしたことは多くの人がご存じでしょう。いまさらボクが付け加えることはありません。

ただ、自らの生命を賭してミュージカル『王様と私』に全力を尽くして逝ったガートルードの熱意がなければ、周防さんも草刈さんと結ばれることはなかったかもしれませんね(笑)。




文化は継承だと思い知らされる『王様と私』です。


【蛇足】日本版『王様と私』の初演の出演者は、市川染五郎(現:松本幸四郎)と越路吹雪でした。1965年のことですが、越路さんもガンで亡くなってしまいましたね。