{作詞:岩谷時子、作編曲:宮川泰(ひろし)} 

 

音楽チャート誌「オリコン」のランキングが始まったのが1968年1月4日で、第一回の1位曲は「ラブユー東京/黒沢明とロス・プリモス」だったのですが、実はこの曲の発売はその2年前でした。

 

オリコンチャートが売上・人気のバロメーターとなるのはそれ以降のことで、それ以前にはレコード売上枚数やラジオ番組での人気ランキングだけが頼りでした。 例えば、1959年に発売された「黒い花びら/水原弘」は、同年末の第1回レコード大賞を受賞した(三橋道也の「古城」と競ったそうです)のですが、売上枚数などは不明です。

 

 同様に「恋のバカンス」もヒットの規模は分かりませんが、発売された1963年(東京五輪の前年)のレコード大賞・編曲賞を宮川泰が受賞しています。ラテンリズムの軽快さと、マイナー・メロディがメジャーに転じて、再びマイナーに戻るという“日本人の琴線に触れる”メロディ&サウンドに、ザ・ピーナッツの二人の同質の声による見事なハーモニーがマッチしたのがヒットした要因でしょうか。

 

さらには、この年に東レが「バカンス・ルック」の名で出したサマー・ウェアがヒットしたのをきっかけに、トヨタ、東芝、ヤマハを始め、日本交通公社などレジャー関連産業3社が「バカンス」の大キャンペーンを展開。この曲のヒットと相まってこの年の流行語として記録されています(河出書房新書・現代風俗史年表による)。 また、1960年前後からテレビの音楽番組「ザ・ヒットパレード」(フジテレビ)などから、アメリカのヒット・ポップスを日本語に訳した「カヴァーポップス」(訳詞では漣健児が大活躍)が大ヒットしていました。

 

その動きの中でオリジナル・ポップスを先取りして制作し始めたのが渡辺プロダクションで、デビュー前からザ・ピーナッツの音楽教育係を頼まれていた宮川泰が、越路吹雪のマネージャー兼作詞家として活躍を始めていた岩谷時子と組んで1963年に作ったのが「恋のバカンス」でした。 

 

その3年前の1960年の代表的なヒット曲は、橋幸夫「潮来笠」、ザ・ピーナッツ「悲しき16才」(ケイシー・リンデンのカヴァー) など。

 

2年前の1961年では、「東京ドドンパ娘/渡辺マリ」の国産リズムのドドンパが大流行。 また4月から始まったバラエディ番組「夢で逢いましょう」(NHK)の今月の歌で人気を呼び、2年後にはアメリカのビルボード誌で3週連No.1ヒットとなった「上を向いて歩こう/坂本九」、さらにはザ・ピーナッツと共に音楽バラエティ番組「シャボン玉ホリデー」(NTV)のレギュラー出演者だったハナ肇とクレイジー・キャッツの植木等がメンバーと共に歌った「スーダラ節」、また1960年安保運動の挫折ソングといわれた西田佐知子の「アカシヤの雨がやむとき」など、まさに混沌とした音楽状況だったようです。 

 

さて「恋のバカンス」がヒットした1963年のレコード大賞グランプリ曲は、「こんにちは赤ちゃん」で、歌唱は梓みちよ。作曲・編曲は中村八大、作詩は永六輔のコンビでした。

 

 同年のレコ大作曲賞は、いずみたく(坂本九「見上げてごらん夜の星を」)、作詞賞、丘灯至夫(舟木一夫「高校三年生」)、編曲賞、宮川泰(ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」)という各賞を見ると、オリジナル曲がヒットの中枢を占めるようになってきたことと、歌謡曲系、ポップス系に音楽の流れが分かれてきたことが分かります(この後に「演歌」という呼称が一般的となり、さらに分派するのですが、それは別の機会に・・)。という意味で「恋のバカンス」は、その年の時代感覚を吸収してJ-POPの源流となった貴重な1曲だとボクは確信しています。 やたら前置きが長くなりました。 

 

では、ザ・ピーナッツのテレビ出演映像による「恋のバカンス」

 

 

日本のカヴァーポップスの源流の一人だったカテリーナ・ヴァレンテは、自分のレコードを各国語で発売しています。この人のカヴァー曲集を聴くと驚くのは、英語はもとよりフランス語(情熱の花)、ドイツ語(元はイタリア語詞のチャオチャオ・バンビーナ)など、彼女の歌唱言語の多才ぶりに驚きます。

 

いきなり21世紀にジャンプして、乃木坂46(生田絵梨花がメンバーだった時期)の「恋のバカンス」。オリジナル同様、ハモっていますね。

 

 

さて最後は、「カテリーナ・ヴァレンテ・ショウ」に出演した際のザ・ピーナッツの歌唱映像で「恋のバカンス」です。(レコード音源をバックに構成されたものです)

 

 

【番外編】 どうやら、この曲はロシアのアイドル・グループ、「ファブリカ」によってカヴァーされ、一時ソ連で人気だったそうです。YouTubeのみの情報なので、ご興味がある方はチェックしてみてください。  

 

ことのいきさつは、当時のゴステレラジオ(ソ連国営放送局)東京特派員が気に入って本国へ持ち帰り、1965年にソ連でレコード化されたとのこと。 どうやらソ連では(ロシアとなった今も)この曲が日本人の作詞・作曲であることを知らない人もいるほどの有名曲だそうです。映像は2012年のTV番組より。歌はロシアの女性アイドルグループ、ファブリカだそうです。