次へ、向かう旅 | かんながら

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旅の記録です

新しいステージがみえて、一歩を踏み出し始めた。

ひとつ、今までになかった遠い点を見つけて、そこにひとつ自分の意識を置いた。

そうすることで自分の意識が広がり、長い閉塞感から抜け出せた。

 

まるで碁盤に置く石に囲まれたスペースが自分の陣地になるように。

 
 
このところ、東京に出てきた頃の記憶がつながりつつある。
なぜあのとき、あの場所にいたのか。
やはり、何か大きな意思の力に動かされていたとしか思えない。
 
港、橋、街道と宿場町、そして遊郭。
 
 
当時は目に入っても意識に上らなかったものがそこにはある。
 
 
遠回りしたな。
 
 
 
でも当時のわたしにはそれを紡ぐだけの知識も、それを評価できる経験値もまるでなかった。
そして、それにいろんな示唆を与えてくれる人たちも。
 
いたけど、圧倒的に少なかった。
もたらされる情報の質と量には到底見合わなかった。
 
 
稲の実りの季節になった。
少し早いような気がするのは気のせいだろうか。
 
 
稲穂をくわえたお稲荷さん。
稲荷の御用が始まったのは2年前のこの頃だ。
 
 
外宮の正式参拝の前に。
そして外宮でなにわの審神者(さにわ)を紹介されて、「天気の子を見てください!!って言われたんだった。
 
 
それからの、わたしの波瀾万丈ぶりは、そして、またくくりの日 〜虹と歩んだ2年半 にも書いたけど、よく生きてたね」って心から思う。
 
書いてて思うけど、私の旅はもうずいぶん前から始まってた。
高千穂のお水取りに行かせてもらったのが最初のような気がしていたけど、その前にも高千穂に行っている。
しろくまさんと結婚して高千穂峰に新婚旅行に行った、ことが始まりのように思ってたけど、もっと前には久高島から高千穂に行っているし、その久高島に運ばれたのはもう25年以上前になる。
 

 

 

 

くくりの日。

あることを思いついた。

それで久しぶりに台場に近いエリアに通うことになった。

 

バスに乗っていたら、懐かしい町名のバス停。

魚籃坂下。

東京にはじめてきたとき住んだ場所。

 

そして長年の日記仲間がその当時背中合わせのビルに住んでいた、と最近聞いた。

そういうの、すごく多い。

 

 

対面同席五百生っていうけどさ。

ほんとすべてがミシマ劇場。

 

 

はじまったとたんに、今週は自分のことをやる!!って宣言していた伊勢平氏おじさんから電話。

 

 

 

流れを遮るよな。
仕方ないけど。
だって、住んでる次元が違うんだから。
 
 
どっちが上とかじゃなくて、もう別の星って感じ。
でもそんな人だから睦み合いたいって思ってたんだもん。
この世界の隔たりのカタシロとして。
 

 

 

「絶対に許せない!」って怒鳴られたり、殴りかかってケガしたり、まあ、いろいろ。

いままでは逃げ出されないようにってとにかく怒らせないようにがんばってたけどね、身体はって言いたいことを言った。

 

そうしたら伊勢平氏おじさん、はじめて私の2年間のことをちょっとだけ聞いた。

断片的には伝えてたけど、わたしが伝えていたことは何も聞いてなかった。

 

わたしの周りは、「自分にないものは来ない」ってずっとずっと言い続けてきたけど、ようやく彼の中に「障りがきた」ことに思い当たる節があったらしい。

 

 

濡れ衣を脱ぎ去るのは大変だった。

よごれちまったかなしみの革裘(月蝕満月と、恋のゆくえ)に包まれているのは恋心かもしれないが、こちらが着せられているのは拒絶と憎悪だったし。
それ、そのまま返したら「絶対許せない」って言われたけど、それ、もともとそちらから来たものだから。
 

「あなたの存在は絶対に認めない」
 

きつかったな。
なんでこんなに私のことを否定する人に関わるんだろうって当然自分自身だって気づいていた。
 
 
 
久しぶりになにわの審神者(さにわ)に電話した。
 
だって、ふと思い出したタイミングが、出会って2周年記念だったから。
恋愛的なアニバーサリーだからではなくて、その日がまさに外宮の正式参拝の日(真名井の縁の伊勢神宮〜橿原神宮〜罔象の女神〜大神神社に続く旅まとめ【その1】)だったから。
丹後の神人から「この人がお稲荷さんを連れてきた人」と紹介されて、なにわの審神者(さにわ)が「天気の子を観てください!!」って言った、というそれ。
 
なにわの審神者(さにわ)に近況を報告してて「まるで同じ」って気づく。
ザ・輪廻。
 

「同じとこグルグル回るし、回らされる」
 
まったくその通りである。
 
 

「相手だけではない、自分に引き寄せるものがあるから延々と繰り返す」って指摘されて、「確かに」って思った。
でもなんなんだろ。
 
で、気づいた。
 
 
父はわたしが生まれてすぐに家を出されて、私は父の記憶がない。
わたしは「いないこと」として父の家で扱われた。
 
ずっと「わたしのお父さんは神様」って言ってる手のかからない子だった。
 
「得られなかった代わりに得られたもの(得られなかった代わりに、得られたもの)」があるって思ってきた。


父が再婚して持った家族がしあわせでいられるなら、それで報われるって思ってた。


でも後妻さんは、とことんわたしを拒絶する。
父にはわからないように。

前に父とふたり旅とかで、何度か書いたけど、父がのんきにわたしを父の親族に紹介したとき、彼女は「これほどの屈辱」とキッチンで泣いて、叔母に嗜められていた。

空気の読める人たちは、わたしをまるでいないように扱い、わたしはひとりで味のしないビールをひたすら飲んでその場をしのいだ。


一晩の滞在中、わたしに声をかけたのは、父を事実上育てたその場の最年長の叔母と、空気の読めない、いまだに独身のいとこひとりだけだった。
 
 
 

それって、おじさんの娘とおじさんと、私と同じ構図。
父は、後妻さんがそんな人じゃないっていうし、おじさんもいう。


でもさ、客観的に分析したら、「何もできない」は事実である。



それでもいいって思ってた。
わたしほんとに子どものときから、母の希望通り生きてきて、自分の希望なんか何もなかったし。

人がしあわせにしているのをみてるのがしあわせだったし、今もそう。



でも。
 
 

「わたしの居場所」を求めてたんだなって、気づいた。
そして泣いた。
 
 
 
 おじさんに父を投影してるなんて当然気づいてた。
だってファザコンだもん。
でももっというなら、わたし誰かの願いを叶えることしか自分の生きる希望ないの。


今まではしろくまさんの。
その前は会社の。
その前は母の。


突然しろくまさんをうしなって、わたしは生きる糧をうしなった。
伊勢平氏おじさんがその代わりになるはずだったけど、起きたことをみて怖くなって逃げちゃった。

 


わたしはひとり取り残された。

そこにきたのが稲荷の御用だった。

そしてそれも終えた、と思う。


そこから1年経とうとしてる。



おじさんはようやくハッとしたみたいだったけど、気づいたかな。

しろくまさんと、伊勢平氏おじさんと、そしてわたしの祖父が願っていたことは、たぶん同じだったと思うよ。



 

 

 

 

 

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