飛鳥駅。時間より早くついてしまって1時間くらいの余裕があった。炎天下なので怯んだが、せっかくきたのだ。ただエアコンの効いた観光案内所で待っているという感じでもない。誰かが呼んでいる。
1時間くらいで歩けるおすすめコースはないか、聞いてみたら地図をくれて、くるっと一周するルートを書いてくれて、いざ出発。
みみずだって。
そういえば、漢方薬では、みみずって「地竜」っていう。
地を這う龍だ。
丹後からの、W出石神社そして播州への旅(その2:丹後から但馬國一宮・出石神社)で書いたが、丹後の神人は、わたしの誕生日をみて「空高く飛べれば龍に、できなければ、地を這うミミズになる。」とおっしゃったのだった。
しろくまさんが、世界中の海を旅してきた旅人であったのに対して、わたしはアフリカやシベリアの大地を旅してきた。わたしは人の住う大地を旅する旅人だとしたら、わたしは、確かに地を這う龍だ。
わたしの好きな飛鳥では(一応漢方でも日本各地の民間療法にもあるれっきとした生薬である)、みみずは地の龍という名の薬だった。
観光案内所の人の方のおすすめは、石室の中に入れるという岩屋山古墳。
鈴の音を奉納。
古墳自体の説明はあるけど、肝心の被葬者について書かれていない。でもなんか、最初に挨拶に来ることになっていたみたい。
なんて穏やかなお顔なんだろう。
高松塚古墳。
今回は通りかかった挨拶のみ。
竹藪は、竹(たけ)=瀧、っていうけど、虹。
天武・持統天皇陵。
多くの人がそうであるように、持統天皇・天武天皇に対してなんとなく好きになれない印象があったわたし。
もちろん、里中 満智子先生の「天上の虹」を読んで、持統天皇の孤独に触れたときに、何か深い部分で動きがあったけれども、それがなんなのか、はっきりとはよくわかっていない。
だから、別にいかなくてもいいよな、って思いながらも、お勧めルートだからきた。
壬申の乱(672年)に勝利し、律令制の基礎を築いた天武天皇と、その皇后で次に即位し、天皇として初めて火葬された、持統天皇が合葬されている御陵(檜隈大内陵)である。墳丘は現在東西約58M、南北径45M、高さ約9Mの円墳状をなしている。鎌倉時代(
1235年)に盗掘され、その際の記録である)「阿不幾及山陵記」に墳丘・前室・墓室内の様子の記載がある。墳形は八角形で五段構成、周囲に石段を巡らすという。切石積の石室は二室からなり、天武天皇の狭佇棺と持統天皇の金銅製骨蔵器が納められている。
八角形、五段? なんか似たようなの見たことあるよ?
葬儀の様子が記録に残っているから卑弥呼の墓だとか言われる、阿波の八倉比売神社の古墳?
いや、あれは、五角形だ。
八角形といえばDr.コパさんがお勧めしててしろくまさんも持ってた開運鏡?
なんとまあ、なにか中国からきた呪咀的なありそうな形である。
Wikiによると、持統天皇は、史上3人目の女性天皇、とあるし(その前にも女性天皇はいたってことだ)、天皇として最初に火葬されたと案内板に書かれている。
旅から戻って調べたところによると、持統天皇の墓は、その銀製(案内板には金銅製と書かれているが、伝承ではそうなっている)の骨壺を目当てに鎌倉時代に盗掘に遭っており、しかもお骨はその盗掘したものによって道端に捨てられ、探されもしなかった、ということである。つまりは今の御陵に持統天皇のお骨は眠っていないようだ。
参拝。
なんか悲しみが流れ込んでくる。
なんなのこれ??
女性の悲しみ。ただただ沈黙して悲しみだけがある。
もしや持統天皇は、何か事実とは違うことを引き受けているのかな?
配偶者は大海人皇子。
大海人?
海人族?
なんかよくわからないけど、海の匂いがする人。
そして戦が得意(壬申の乱を制した)で、なんかみえる人だったっぽい。
物部?
御陵の裏は竹藪。竹藪=滝。
なんか、この感じは。丹後の旅(月の光に誘われて 安曇野から京都へ 〜その5 空と海が出会うところは)で行った竹野神社の雰囲気に似ている。竹野神社は斎宮神社。京都の野宮神社も斎宮を出している。
そして野宮神社にも嵐山の美しい竹藪がある。
よくわからないが、印象。
なんか、とても清らかで、そして悲しい。
持統天皇は、自分を天照大神に、みたいなことを言ったとかいうけど、本当にそうだったのかもしれない。
アマテラスは、島の女なんじゃないのかなってわたしはなんとなく思っている。
無責任な妄想なのでなんの根拠もない。
ただ、葛の葉をたどる旅の結末は、なんと琉球王朝へ に書いたけど、伊江島の城山(タッチュー=塔頭)は、わたしには女陰にしか見えず、しかも、そこで「天照の鏡が出た」という話があるのである。
それは、こういうことだ。
島の西部、西崎区に照太寺と権現堂と呼ばれる史跡があります。
由来をかいつまんでお話しすると、 尚清王(1527~1555)の時代に、このあたりに毎晩光があって、近所の人々は不審に思っていました。
この話が国王にも届き、使者を送り調べさせた所、古い鏡を見つけました。老僧に聞いてみると、これは伊勢の天照大神の残したもので国家の大事と言う事になり、早速寺社を建てておまつりするようにと上申しました。
(沖縄情報IMAより引用)
旅して、今までノロや専門家、旅先で出会った人たちから話を聞いてきたことを総合すると、
島の女は、きょうだいの男を守る神だった(オナリ神)。
どういった経緯かわからないが、島の中だけじゃなくて、シマを持つ海人族とまじわって、彼らを助けるようになる。
島の女とまぐわうことは、男にとってはどうも霊力を授かることらしい。
島の女は霊力を持つ神なのだ。今でも奥さんのことを「かみさん」という。
まぐわうことによって霊力を得て、その女性の力を戦いに使うこともあったみたいだ。
そして島の女(ノロ)は、戦いに敗れたら、殺され、呪詛をかけて葬られたときく。
なんだか、その情景が浮かんだのだ、持統天皇を想ったときに。
伊勢神宮の滝祭宮、卑弥呼の宮殿、なんだろう、同じ悲しみが横たわっているように感じたのだ。
瀬を早(はや)み岩にせかるる滝川(たきがは)の われても末(すゑ)に逢はむとぞ思ふ 崇徳院
これも、激しい恋の歌、ってことになっているけど、そんなわけないよね。
怨霊になったと恐れられるくらいの崇徳天皇。
この時代は、戦乱の世であったみたい。
「岩」に急かされた、滝川が「割れて」も末には逢おう思う。
彼は何を思ったのだろうか。