恋しくて 〜葛の葉をたどる旅 その4 飛鳥・纏向編 (後編) | かんながら

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旅の記録です

 
東大寺二月堂は修二会の舞台である。

修二会とは、正式名称を「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と言い、十一面悔過とは、われわれが日常に犯しているさまざまな過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔(さんげ)することを意味し、修二会が創始された古代では、それは国家や万民のためになされる宗教行事を意味した。
そして、東大寺のながい歴史にあって、二度までもその大伽藍の大半が灰盤に帰してしまった時ですら、修二会だけは「不退の行法」として、1250有余年もの間一度も絶えることなく、連綿と今日に至るまで引き継がれてきた。
とある。
(東大寺HPより)
 
とても重要な儀式なのである。
 
なぜ、このタイミングで東大寺なのか、というと、予期せず連れられていった「鵜の瀬」からの流れ(恋しくて 〜葛の葉をたどる旅)である。
鵜の瀬は、福井神宮寺の閼伽(あか)井で汲まれた水が、東大寺二月堂向けて送られ、10日かけて東大寺の若狭井に届けられると言われている。
 
 
 
福井神宮寺の、閼伽井には三つの石がおかれていた。
そこで汲んだ水を鵜の瀬に届け、Sarah(サラ)さんと鈴をふった。
なんだか悲しくて涙が止まらなかった場所。
 
後で知ってなるほど納得。
鵜の瀬は、若狭彦と若狭姫の別れの場所だったのだ。
大丹生送りがなんたるかはまだ私にはわからないのであるが。
 
そのせいなのかなんなのかはわからないが、とにかく深い部分から悲しみがこみ上げてくるのを感じたのであった。
 

 

 

 

東大寺って、こんなところだったんだ。

しばらく来ていなかったから忘れてた。好きな建物。とても馴染みのある時代のそれ。

「大華厳寺」の扁額。

国宝の南大門。鎌倉時代に再建された「宋」の様式を取りいれた建築様式で「天竺(てんじく)様」ともいうらしい。

天竺か。普通に考えたら天竺はインドだ。

 

 

 

 

 

 

仁王さんも立派。私の原点の仁王さんはこれだった。

 

本来は、阿形が右側、吽形が左側に安置されているが、ここの仁王像は左右逆になっていて、しかも対面している。

子どもの頃のざっくりした記憶では、東大寺といえば、「運慶・快慶」って習った気がするが、今では、平成元年~5年にかけて行われた解体修理の結果、阿形像は運慶・快慶の作、 吽形像は定覚・湛慶の作であることが分かっている。

 

 

 

 

 

 

この石獅子さんも、素晴らしい。

獅子なんだ。

なんだかオリエント的な?

 

なんだろう、こうして振り返りの記事を書いているだけで懐かしさがこみ上げてきて泣けてきちゃうのはなぜ。

とても愛しい場所。そしてとても愛おしい文化。

 

 

 

 

今日は時間の都合で二月堂へ直行。

 

 

 

なんて気持ちのいい素敵な場所なんだろう。

 

しばらく歩いていて、やっと気づく。

 

ここは・・・

最初のダンナと付き合っていた頃に何度か歩いた大好きなとこだ。

 

 

 

最初のダンナは入学式の日に知り合って、お互いの墓が住まいから遠く離れた場所で向かい合わせなど、いろんな因縁が重なり合って、結婚したが、ずっと付き合っていたわけではない。

 

彼はわたしが惹かれるだけあって、不思議な趣味の持ち主であったが、中学生ぐらいの時から、毎年修二会に行っていた(らしい)。

というのは、わたしは一緒に行ったことがないのでわからない。

 

箱入り娘だったウチの門限は中学生の時は6時、高校生が8時、下宿を許されず片道2時間はかかる田舎の大学に通った時代ですら10時であった。実験の途中で「門限あるんですみません」と帰ることもざらだった。

しかも1分でも遅れたら厳しく怒られて締め出された。

 

そういう時は、家出すればいいのであろう。しかし今からは想像もつかないであろうが、本当に箱入り娘で友達もいなかったので、そういう知恵がてんでなかった。

 

 

わたしの家が厳しすぎて、彼とデートした記憶がほとんどない。

わたしは結局新卒で内定していた仕事を辞退して結婚した。

相手には迷惑だったであろうが、そうでもしなければ家から出られなかった。

家から出てもなお、経済的に自立できていないわたしには完全な自由はなかったが。

 

 

その数少ないデートの思い出のひとつが、この若草山に向かう道と、明日香、そして哲学の道。

ただ歩くだけのデート。

 

わたしが箱入り娘で世間知らずというか、普通の暮らしや考えを知らなかったから、婚約してから5年ほどの結婚生活は、ドラマにもならないであろうほどの壮絶な体験だった。

 

そこに阪神淡路大震災がやってきて、「わたし」は壊れた。

そして、わたしは不思議な導きによって、自分自身が無力であると思い知り、自分より大きな力に委ねる決心をするようになり、回復が始まった。

 

そしてダンナとは、ソウルメイトとしての関係になった。

だから、その関係はずっと続くと思っていた。

 

でも、彼の家族(やわたしの家族)はそうではない、ということを当時のわたしは愚かにも理解していなかった。

 

 

今回は、鵜の瀬の水を、良弁杉に届ける、というミッションのためにここにきた。

閼伽井、鵜の瀬、二月堂が結ばれる。

 

ついでに言うと、恋しくて 〜葛の葉をたどる旅 若狭への旅 に引用したこれ。image

 
小浜〜若狭彦・姫神社〜平安京〜平城京〜飛鳥京〜熊野本宮は一直線。
 
そして、伊吹山、淡路の「伊弉諾神社」、伊勢内宮、元伊勢、熊野本宮を結ぶと現われる五芒星。
 
 

 

良弁杉って言われてもわからなかったが、「行けばわかる」となにわの審神者(さにわ)に言われてて、やはりすぐにわかった。

 

 

 

しかし、何かが違う。ここじゃない。本当に行く場所は。

しばし休みながら待っていた。

 

ふと裏側に引きを感じて歩いていくと、

 

 

あった。遠敷(おにう)神社。

若狭彦神社(御祭神は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと))の遠敷明神を勧請したものである。

 

遠敷とは「大丹生送り」の大丹生。

つまり若狭(福井)と奈良は深い縁があるということである。
 

 

 

こちら興成(こうじょう)神社は、遠敷明神が若狭より送水されたおり、黒白二羽の鵜が岩盤を打ち破って飛び出で、甘泉涌出したのが若狭井である、とある。

 

白と黒の鵜が飛び出したのか。

鵜といえば、天皇がいらした土地って聞いたけどな。

でも白の鵜ってなんだ?

 

今山梨で流行のヨゲンノトリか?

あれは身体は一つなんだけれども。伝承では、加賀国白山にあらわれた、ってあるみたい。

鵜といえば、能登の気多大社の「鵜祭」を思い出すけど。

 

「白と黒の鵜が岩盤を打ち破って、甘泉が涌く」ってなんとなくわかる気がする。

白と黒が一緒に岩盤を打ち破るのか。

深い意味がありそうである。

 

 
 
このたびは ぬさもとりあえず たむけやま
もみじのにしき かみのまにまに
菅家(菅原道真)の歌。
 
一般的な訳では、
 
今度の旅は急のことで、道祖神に捧げる幣(ぬさ)も用意することができませんでした。手向けの山の紅葉を捧げるので、神よ御心のままにお受け取りください。
 
とある
 
 
うーん。
入ってこない。
 
このたび=旅、度をかけている。と言うのはわかる。
でも、幣を忘れるとか、ないでしょ。
それに菅原道真公くらいの人であれば調達できるでしょうに。
 
紅葉で代用とかわたしじゃあるまいし。
 
「うさ」と「幣」をかけてるようにも見えたり。
 
 
神のまにまに、もよくわからない。
摩尼(如意宝珠)?
マニ教?
 
 
何か、ある。
でも何かはわからない。
 
紅葉といえば、昨年の八ヶ岳からあるこれ。
 
 
でちょくちょく話題にしている
 
「ちはやふる かみよもきかず たつたがわ からくれないに みずくくるとは」
 
 
これも、まだ何を歌っているのか、わたしにはわからない。
 
 
 
 
 
空蝉発見。
 
菅原道真は、「うるさい人」だったので蝉と言われたらしい。
 
「本当のことを世に出すべきだ」と助言して、太宰府に左遷。
梅の小枝が京都に天を通って京都の北野に戻ってきた。
だから、天神さんとして祀られた。
 
八坂神社の祇園祭の後に、天神祭がある、という順番に意味があるらしい、とやんごとなきお方から聞いた。
でもまだその意味もわからない。
 
今このタイミングで抜け殻を見ると言うのは、蝉(菅原道真公)は、解き放たれたのか。
怨霊とも恐れられる菅原道真。
でもわたしは怨霊とは思わない。
 
自分の信じる道に対して真剣で融通の効かない存在だったであろうから、蝉のようにうるさがられた、というのは想像できる。
 
 
こういう「うるさい人」を活用できるかどうかで、組織は強くなる。
 
法隆寺の宮大工であった西岡常一さんも言っていたではないか。
曲がった木をうまく利用したので、法隆寺はあれほどの強度を保てたのである。
 
 
 
 
駅への帰り道。
やっぱりこの道好きだな。
わたしは歴史にまるで興味がなかったが、彼はたくさんのことを知っていた。
今わたしが漠然といろんなところでぶつかる疑問は、彼に投げかければ結構返ってきたと思われる。
なぜなら彼も、自分のルーツをあれこれ調べ探したりしていたから。
 
でも当時のわたしは結婚の意味を何も知らなかったし、好きな人と結婚できれば幸せって思ってて、なんでこんな因縁深い人と出会ったのか考えたこともなかった。
 

わざわざ、わたしはこんな難易度の高いテーマを選んで生まれてきたんだろうか?

 
 
纒向遺跡を電車から眺めて、桜井へ。そして次なる目的地は、笠山三宝荒神。
纏向での川口由一さんとの最初の出会い(卑弥呼時代の豊かな営み〜 その2 たまきの秘宝と穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社とおぢば)で偶然お参りすることになった、穴師坐兵主神社。
 
ここは、昔はもっと山の上にあった、ときいた。
だから、山の上の本宮はどこなんだろう?と探していて、ふと地図で目に止まった場所に、ここがあった。
今回の旅でも、天理からの帰り道、クルマから「笠山荒神」の文字が見えたので気になっていたのである。
 
なんと言っても荒神さんは、三宝荒神という火伏せの神様である。
三宝に乗っている火伏せの神と言えば、わたしには龍蛇神。それが意味するのは沖縄の女が台所に祀る火伏せの神「ヒヌカン」だからだ。
 
そしてついでに言うと、ヒヌカンは三ツ石である。
古くは3つの石として祀ったのである。
だから、古い拝場には、その印がある。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
境内を下っていくと、不動明王が祀られている。そこが滝とある。
 
 
 
滝のある場所のお不動さんの鳥居には、
「閼伽井不動」の扁額が。
 
 
なんと、福井((追記あり)恋しくて 〜葛の葉をたどる旅 若狭への旅)からここまで繋がっていたとは。
 
 
 
わたしには笑っているようにしか見えない不動明王。
 
白龍社、黒龍社。
 
 
 
どうも、旧正月に宮島と呉を訪れた(姫神を訪ねる旅〜その1 厳島・弥山姫神を訪ねる旅〜その2 棚田のある場所)呉が調わない理由に、ここがあるような気がしてならなくて、気になっていた。
 
 
 
山間に突如現れる整った集落。物部の香りがするところ。
この辺を、布留(ふる)という。
 
 
大和神社。
参道は、戦艦大和の長さと同じ270メートル。
 
 
 
 
水の神様も祀られている。
 

 

飛鳥に置いてあったパンフレットで気になっていた黒塚古墳が近くにあることがわかったので立ち寄る。

わたしがなぜかこの鏡にだけ惹かれる、三角縁神獣鏡がたくさん出たところ。
天理・柳本地区にあるのだが、それは纒向遺跡のある纏向駅の隣駅である。
 
 
 
この石室の中が赤いってこれ、近江神宮の古墳もそうだったかな?
記憶は曖昧。
 
 
 
 
 
黒塚古墳の上からの眺め。
美しい場所。纏向には特別な感情がある。
実際に、不思議なご縁が重なり合う場所でもある。
 
 
 
直会。大阪の20年以上の付き合いの日記仲間がご馳走してくれた岩がき。
他にも食べたけど、写真は撮り忘れた。
 
派手な人生のわたしに呆れながらもまだ付き合ってくれている。
3番目の夫の時くらいに「この人と別れたら承知せんぞ!」と釘を刺されたし、「フラフラ生きるな!」と何度も怒られたがいまだに気にかけてくれている。
 
「人間苦手」って割にはすごくいい人たちに恵まれてるんだよな。
肉親に恵まれるより、豊かな人生なのかもしれない。
それが真実かはわからないが、負け惜しみであったとしても、わたしはそう思って生きていこう。
 
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