恋しくて 〜葛の葉をたどる旅 その3 飛鳥・纏向編(前編) | かんながら

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旅の記録です

 

 

 

天理には、三島神社がある。

だって、この地はいまでも三島町という。

 

 

 

「三島」の名を消し去ることはできず、神社も町の名も残ってる

 

 

 

もちろん知っている。

 

 

 

でも、このタイミングで川口さんがそう言ったのは、わたし自身が今というサインを望んだからだ。

 

 

 

 

橋の向こうに祀られた宮。

川はあの世とこの世を別ける印。

 

 

 

大山祇命は三島が祀る神である。

日本総鎮守 大山祇神社の社家も三島を名乗っている。

 

 

 

 

毎朝お参りにいらしているであろう方に会ったが寂れ具合が気になるところ。

 

 

天理教開祖、中山みきに降りてきて、そちらで立派に祀られているので、それでいいのかもしれないが、

彼女と、それ以降の人たちとは違う。

 

 

 

人にとっては名前は大事。

そこが途切れると、生きている人たちの思いが置き去りになり、不調和を起こすエネルギーとなってしまう。

 

 

横取りされた、とか、忘れられた、とか。

怨みの念は怖いのだ。

 

 

 

 

うらみ くずの葉

 

 

である。

 

クズ?

国栖?

九頭龍?

 

なんだかいろんなことばにみえてくる。

 

 

 

 

人は死んだら、神になる

 

 

まだ神社にまるで興味がなかったころ、高千穂で宮司さんから教わったが、神道では、人は死んだらもれなく神になる。

 

 

日本の神様方は、元は生きていた実在した人なのだ。

だから、血脈というものがあって、子孫がいる。

その人たちには思いがある。

 

 

それは、よくも悪くも今の世に影響を与えている。

 

だからこそ、大物主の子孫だというオオタタネコを探し出して祀らせたのだ。

神さまが抑えきれなくなった今の世の乱れには、それも含まれているのだとわたしは思う。

 

 

神社の数だけ、そこにはその地に影響を与えていた実在した人がいたはずである。

 

 

 

 
なにわの審神者(さにわ)に電話したら繋がらなかったが、おとがきこえてきた。
 
今日は禊か。
 
切ろうと思ったら、
 
「とおつ神 かためおさめし 大八洲

あめつちともに 永遠にさかえむ」

 

 

と聞こえてきた。

 

禊場か。

 

ちょうどこないだ「とおつみおやかみ」は、山で見かけたばかりだ。

 

 

 

禊の奉納と鈴。

光が差してきた。

 

 

 

 

五十鈴姫。

伊勢神宮の五十鈴川の名前の由来。

 

 

 

 

 

 

夏の盛りの時期とはいえ、決して整っているとは言いにくい境内。

 

 

川口由一さんの漢方の学習会の会場は飛鳥祝戸。

何度もはふりとか、ほふりとか間違えた。

ここはなかなかすごい場所だった。

この山には磐座があり、頂上からは藤原京が一望できる。

 

 

棚田のある風景って何で素敵なんだろう。

 

 

漢方の学習会ではいろんなことがあった。
 
治療では、いのちを損なわないこと、が大事だという。
でも人間は、他者のいのちをいただいて生きている。
他のいのちを、食べるだけではない、人間は、とても残酷なやり方で、相手の命を損ねてでも、家族や自分を守ろうとする。
自分が損なわれるって思ったら、平気で人を潰しにかかるではないか。
だから、わたしは自分が目立たないように人を遠ざけて生きてきたのである。
 
 
わたしなんか、いなければよかったのに、と思っていたのはそのためである。
地方都市から東京に出てきて一番ホッとしたのは、「周りと一緒でなくてもいい」という安心感だった。
 
 
薬の影響により、「(わたしの)いのち」は強くなり、ますます息苦しさの方は強まってしまっていた。
 
 

 


わたしは相手が誰であろうが忖度しないが、自分の寿命を意識して生きることをネガティブにとられたり、「緩やかな老い」を求めようとすることについて、考え方の違いで隔たりがあり、「調和」を大事にしている場で、「わたしはそう思いません」ということは、とてもキツかった。
 
わたしが欲しかったのは、無難な言葉や謝罪ではなく、乗り越えるための知恵である。
 
ただただ真剣に求めたら、不思議な奇跡が起きた。
 
季節はずれの木蓮の花が咲いていた、という話題になり、「もうひと花咲かせますか」と纒向の仙人は笑った。
 
 
完全な命の巡りの形代である、「自然農」と言われる手法によって育まれた「妙なる畑」は、自然にその姿になったのではない。
彼の静かな戦いによって、現れたのだ。
 
いのちが尽きるその日まで、守りになんて入らないでもらいたい。
死の瞬間まで生きる。アフリカでワニに狩られるシマウマを見たとき、動物はそうなんだと思った。
絶命する瞬間に目を閉じるまで、身体の半分をワニに飲み込まれながらも、必死に助かろうとしていたのだ。
 
 
だからわたしはこんな風に、いつ死んでもいいという準備をしながら、きっと生きることに執着して死にたくないときっと思う。
わたしが、キリストを生むまで、纒向の仙人には、わたしのいのちがそれに耐えられるようにその凄まじい強さを見せてもらう。
 
彼は、わたしに言ったのだ。「あと、2、3人は産める」と。
 
だからわたしは、7月の日蝕の夏至の日(約束の地、國吉に祀られていた神は 〜372年ぶりの日蝕夏至の日に)に、キリストを産もうと決めたのだ。
 
 
わたしだって人間だが、わたしは、自分の家族と他者、そして自分自身と他人の境界線が薄い。
だから、我が子かわいさのために、なんの悪意もないひとりの人間の存在を「存在をなかったこと」にするという行為がよくわからない。
 
だってそんなの神の目で見たら隠せるわけないのだし。
 
でも人間は「いないこと」にするということを、「悪気なく」やってのけて、それがどれほど人のいのちや尊厳を損なうことなのかあまり分かってないようだ。
「あんたが目障りだ」と言ってくれる方が、言われる方も相手に対して怒りも湧き、生命エネルギーが高まるということは、きっと「残酷な善人」には理解できないであろう。
 
感情をなくすると、いのちのエネルギーは弱まる。
生命エネルギーは感情が盛んで、漏れる(浪費する)こともあるし、命が弱まって、落ちる場合もある。
 
感情って生きていくために必要なのだと思う。
でも、上手く使いこなすには精神の鍛錬が求められる魔法の杖なのであろう。
 

 

祝戸に泊まるのは2回目だ。
前に訪れた時のブログ(飛鳥と卑弥呼と自然農 〜その2 大好きな場所と時代をかんじて)に書いたけど、ここは磐座に囲まれた不思議な場所である。
 
 
神武天皇が占いをしたという夢淵そっくりのロケーションの場所にある石碑には、
 
 
 
明日香川 瀬瀬(せぜ)に玉藻は 生(お)ひたれど 
しがらみあれば 靡(なび)きあはなくに 
 
 
という歌が詠まれている。
 
普通に読めば
明日香川の瀬々に美しい玉藻ははえているのだが、しがらみがあるから靡き合わない。
 
って感じになるのだろうけど、もはや今歌をみたら裏の言葉ばかり探してしまう。
 
 
 
鎮魂祭 〜龍田の神と聖徳太子とともに石上神宮へに書いたけど、八ヶ岳でお祈りしてたら見えてきた情景と歌。
 
「ちはやふる かみよもきかず たつたがわ からくれないに みずくくるとは」も
 
神代も効かず、
 
とかに見えてくるし。
 
唐(韓)・呉(くれ) ないに 見ず 括るとは
 
 
とか見えてくるし。

 

 

図書館の本が充実してて飽きない。

この本には、崇神天皇は、ミムロ神とアマテル神を放遂したとか書いてあるし。

 

一般的な話ではないが、「まあ、そういうことがあったんだろうな」って思うような内容で興味深い。

 

ミムロ神は、三諸神。みーさん。

わたしの中ではみーさんは、沖縄の三ツ石信仰の台所の火の神ヒヌカンと同じ神だと思っている。

三宝にのっかっているのは、龍蛇神として祀られたセグロウミヘビ、イラブーである。

 

そしてそれはわたしの中では「荒神さん」と呼ばれる神様と同じだと睨んでいる。

 

前回も目に入って気になっていたこの遺跡。

今回は場所を確認。なんと、川口さんの畑の近くの天理の柳本。

纒向の卑弥呼の宮殿のすぐ隣にわたしの大好きな三角縁神獣鏡がたくさん出た古墳があったとは。

 

 

 

帰り道。

どうしようかと考える。

玉置神社に行くにも花の窟に行くにも、当日だと遅く、夜通し走るには近すぎる。

 

とにかく談山神社方面に行ってみるか。

で、車を走らせていたら、気になるお宮を発見。


 

 

桜井市鹿路鎮座 天一神社。

御祭神は天目一箇命(あめのまひとのかみ)。

 

一つ目小僧。ダイダラボッチ。たたら。

製鉄の神。

ということは、製鉄の民の神、物部。

ということは、北極星信仰につながるのか。

天御中主につながるってなにわの審神者(さにわ)は言っていた。

 

 

ここはとても気のいい神社だ。

木そのものが御神体。

近くに川が流れる。

 

 

帰りに談山神社を外から参拝。
多武峰。
ようやくきた。
 
 
中に入れないのは、まだ整い切れてはいないからか。
でも確実に、前回よりは近づいてきている。
伊勢平氏おじさんのおかげだな、あの人はバロメータである。
彼との八ヶ岳合宿を終えた翌日から、この旅も始まった。
そしてなんだかんだで、おじさん(他にもいるので伊勢平氏筋、と言っておこう)に縁のある場所に導かれ、調っている気がする。
 
でもまだ終わってないんだな。
ということは、また旅を終えたタイミングでばったり会うのか。
 
帰りまであと一日。

 

 

 

 

 

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