W杯サッカーを契機に、気づいたのが、「Unite for Peace」という言葉である。
この言葉は、以下のURLにある。
https://inside.fifa.com/campaigns/football-unites-the-world/unite-for-peace
FIFA公式 Football Unites the World キャンペーン内の言葉である。
これまで「理念としての平和」を考え続けてきたが、FIFAが制度的に展開している「平和メッセージ」とを重ねて考える機会が、たまたま得られた。
FIFAは、今年の大会のみならず、少し前から国際キャンペーンとして平和の物語を構築していたようだ。
2022年以降、Football Unites the World(サッカーは世界をつなぐ)という大きな取組を展開していた。
その中に、
Unite for Peace
Unite for Education
Unite for Inclusion
Unite for Gender Equality
など、複数の「Unite for ...」が並んでいる。
つまり「Unite for Peace」は今年の大会スローガンでも、唯一の全体的な標語でもなく、ここ数年FIFAが世界に向けて発信してきた「価値」理念の一部であった。
2026年6月、 W杯という巨大イベントがはじまり、この理念が「大会の空気」と重なって浮かび上がってきた。
まず、2026年大会は、しばしば「平和」にふれる機会があった。
・アメリカ、カナダ、メキシコの三カ国共催
・ 国境問題、移民問題、政治的分断
・イランなど制裁対象国の入国問題
・国際緊張の高まり(G7が同時期に開催)
こうした背景のなかで「平和」という言葉が、政治的にも象徴的にも避けて通れないテーマとして、存在していた。
他方、G7の模様の一部が切り抜かれ、SNSなどで話題となっていた。
「どれ」とは言わないが、ここでは各国の代表の映像を利用して、分断や揶揄、嘲笑を増幅させていた。
それとくらべると、W杯の映像は、正反対に、「共存」や「一体感」そして「平和」を増幅させるものであった。
こうしたコントラストがあって、Unite for Peace が、より強く、W杯の理念として感じさせることとなった。
そもそも私は、W杯をほとんど見ていない。
見たのは、日本―オランダ戦だけである、
イランの試合における、国旗のデモンストレーションは、SNSで垣間見ただけである。
それでも私は、W杯という装置が、G7の映像とはまったく違う、人間の共存、平和への希求を映し出している、 と思えた。
これは、FIFAの意図した「Unite for Peace」の理念が、 私のなかで現実の経験として立ち上がった瞬間とも言える。
理念は、言葉や文字で書かれているだけでは、本当の意味での「理念」ではない。
一方で、イランの国旗が広げられるシーンや、皇室と王室が並んで観戦する姿、そして、試合後に交わし合う対戦相手との握手や抱擁――こういった具体的な場面にふれると、理念は実在感をもちはじめる。
たまたま偶然なのかもしれないが、これと同時に、G7の切り抜き動画がSNSで拡散した。
これは、文脈を奪い嘲笑を増幅し分断を可視化する、という、現代政治の負の側面を象徴している、と言えるだろう。
その直後、W杯の映像に目を転じると、人間は本来、こういうふうに共存できるのではないか、 という希望の側面が浮かび上がった。
SNSの書き込みだけでは、本当の「世界」、本当の「現実」、本当の「他者」は見えない。
スポーツはもちろんのこと、歴史、政治、哲学ほか、さまざまな側面から人間の共生、共存、平和のありようを考え続けねばならないし、問い続けねばならない
そして、理念(Unite for Peace)と現実(W杯の一瞬)を結びつける感受性を、私(たち)は、大切にしなければならないだろう。
有難う、FIFA。有難う、KANT。











