昨日(2026年4月11日)、サッカーJ1の試合(神戸ー名古屋)で、神戸の選手同士の接触事故が起こり、一人は担架で運ばれた一方で、もう一人は意識不明の状態のようで、場内に救急車が入り病院へ緊急搬送されました。
幸い、2人とも命には別条のないことが今朝(4月12日)の時点で周知されましたので、ホッとしたところですが、この間、いろいろと考えさせられたことがあります。
試合はおよそ20分間ほど中断されましたが、この間、両チームの選手、スタッフ、会場の観客は、誰もが、敵味方関係なく、心配そうに見守り、選手の無事を祈っていました。
スポーツの世界では、こうした、スポーツマンシップに則って、全員がサッカーという枠組みを尊く維持していると感じる瞬間があります。
もちろんスポーツの世界においても、ファンの暴動や選手の不祥事など、ネガティブな事態がまったく何もないとは言いません。
しかしそれでも、こうして厳しい世界情勢のなかでも、平行して、「平和」のうちにスポーツが行われ、そこで「敵」に対しても十分な関心と配慮、そして敬意があり続けていることは、私たち人類にとって、とても、とても大切なことのように思えてなりません。
サッカーの試合を観ていて、アクシデントに対して敵味方関係なく、互いの存在に丁寧かつ公明正大に気遣いをする現場にふれて、やっと、この世界に頼もしさを感じ、まだまだ捨てたものじゃないな・・・、と思わせられた次第です
というのも、一方で世界情勢に目を向けると、あたりまえのように権力や武力で敵とみなす相手を威嚇したり攻撃したりしている現実があるからです。
いつの間にか、一般市民までを巻き添えにしていても公然と自分たちの正当性を主張するばかりの世の中になっています。
共有するルールなどはじめからないかのように、自分たちの「生存」がおびやかされているのだから、「戦争状態」になることは、きれいごとではなく、現実において不可避なのだ、と訳知り顔の人たちは声を荒げて主張します。
いくら理想論を語っても、現実は厳しいのだ――、と。
でも、個別具体的に尋ねると、多くの人は、戦争をよしとしていませんし、なんでもかんでも「他者」を嫌っている、というわけでもありません。
しかし、一方では、自分(たち)はギリギリのところで生きており、やむにやまれず、「戦争状態」に至っているのだ、それをまず確保することが大事なのだ、という主張は、1930年代のファシズムが吹き荒れた時代とその反省がその後あったにもかかわらず、21世紀に入って、再び息を吹き返しています。
そうやって、今、私たちは、スポーツの世界で実現している、人間が長い歴史をかけてつくりだしてきた英知=倫理を、現実世界では、いともたやすく放棄しているように思えてなりません。
こうしたアンビバレントな状態に、今私たちは生きてゆくことを余儀なくされている。
でも、私たち人類は、どうしてこうしたアンビバレントな状態で生きなければならなくなったのでしょうか?
ミシェル・フーコーは「生―権力」(bio-pouvoir)という概念を用いて、国家が暴力を正当化する構造に焦点をあてていました。
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1977~78年度のコレージュ・ド・フランスでの講義では「セキュリティ、領土、人口」がテーマとなっていました。
フーコーが亡くなってからすでに40年以上たちますが、フーコーは今からおよそ半世紀前に、どうして国家は暴力を正当化することを可能にしたのか、を究明していました。
そしてその際の鍵となる概念は「セキュリティ」「テリトリー」「ポピュレーション」でした。
しかもこれら3つの概念は横に一列に並んでいるのではなく、大雑把に言えば、
<セキュリティの及ぶところ>
テリトリー → ポピュレーション
といった構図が成立していました。
つまり、国家の安全保障は、何よりも「国土」の確保と拡大に主眼があったわけですが、それが、「人々の生存」の確保と拡大を根拠とするようになった、という移行があったと考えられます。
また同時に、「ポピュレーション」の統治性は、外部や他者への攻撃・簒奪と平行して、あらゆる論点に「~セキュリティ」を付して正当化を進めています
いつの間にか(正確には日本では2022年から)「安全保障」は「経済安全保障」の視点を最優先事項とし対策を行うことを国家の至上命題としました。
そして今、私の知っているところで言うと、「研究セキュリティ」という言葉まで政府は使い、これまで強調してきた、研究に対する「インテグリティ=公正性、公明性」よりも一段上げたプレッシャーを研究者や研究機関に与えはじめています。
そうした動きは、どう考えても、フーコーのこの講義でとりあげていた「セキュリティ」という概念――。
これは、フーコーが晩年に抱いていた「国家」の権力の行使に対する現代的な(=20世紀以降の)危機感と無縁ではないように思えます。
フーコーだけではなく、20世紀を生きた知識人たちの多くは、こうした、どうして人類は、戦争という、最悪の国家権力の行使をせずに済むのか、ということを至上命題として議論を重ねてきました。
そして、その結果、たとえば、スポーツという領域で、「戦い」を展開することで、残酷な国家による戦争状態を回避できるのではないか、という希望の回路をも見出してきたと思うのです。
しかし、20世紀末頃から、雲行きが怪しくなります。
いつのまにか、そうした努力よりも、自分たちの「生存」の確保が先決である、という「~ファースト」が言われはじめ、人類が培ってきたこれまでの英知をないがしろにしてゆきます。
無条件に自分のところを訪れた人は厚くもてなさなければならない、という歓待(ホスピタリティ)の掟は、人類の歴史の長さと同じくらい重要視されてきたはずです、
カントが提示した「恒久平和」という理念は、その後、国際連盟、国際連合、という形で、現実の世界でも作用してきました。
ヘーゲルがそれまでの哲学がうまく説明できなかったことを、「主人と奴隷の弁証法」で解き明かし、「私」というものは「他者」の承認によってはじめて成立するということを現実の理解から導き出しました。
ここで言う、自分と他人との闘争関係は、マルクスが「階級闘争」とりわけ、政治と経済の領域において、不可避に調停が求められていると考えました。
しかしその理想は1980年代には、ソ連の崩壊とともに、崩れ去ってしまっていました。
一方で、むしろ、スポーツの世界、特にサッカーの世界では、「日本」は、「ドーハの悲劇」を経て、抜本的に、世界や「敵」に対するかかわり方、「勝利」を得るやり方を見直していって、今の「日本サッカー」があるように思います。
にもかかわらず、どうして、「~ファースト」や「~セキュリティ」にばかり目を向けて、「ホスピタリティ」や「他者があっての自己の生存」「隣人を愛せ」「恒久平和」といった人類が努力して積み重ねてきた大切な理念を、こうも容易く軽んじてしまうのでしょうか。。。
絶望はしたくないけれども、かとって、のほほんとしている場合でもありません。
取り急ぎ、今、自分が言葉にできることを、書き記してた次第です。
file:///C:/Users/tak_w/Desktop/CV_daigakukiyo_51_05-1.pdf













