昨日(2026年4月11日)、サッカーJ1の試合(神戸ー名古屋)で、神戸の選手同士の接触事故が起こり、一人は担架で運ばれた一方で、もう一人は意識不明の状態のようで、場内に救急車が入り病院へ緊急搬送されました。

幸い、2人とも命には別条のないことが今朝(4月12日)の時点で周知されましたので、ホッとしたところですが、この間、いろいろと考えさせられたことがあります。

試合はおよそ20分間ほど中断されましたが、この間、両チームの選手、スタッフ、会場の観客は、誰もが、敵味方関係なく、心配そうに見守り、選手の無事を祈っていました。

スポーツの世界では、こうした、スポーツマンシップに則って、全員がサッカーという枠組みを尊く維持していると感じる瞬間があります。

もちろんスポーツの世界においても、ファンの暴動や選手の不祥事など、ネガティブな事態がまったく何もないとは言いません。

しかしそれでも、こうして厳しい世界情勢のなかでも、平行して、「平和」のうちにスポーツが行われ、そこで「敵」に対しても十分な関心と配慮、そして敬意があり続けていることは、私たち人類にとって、とても、とても大切なことのように思えてなりません。

サッカーの試合を観ていて、アクシデントに対して敵味方関係なく、互いの存在に丁寧かつ公明正大に気遣いをする現場にふれて、やっと、この世界に頼もしさを感じ、まだまだ捨てたものじゃないな・・・、と思わせられた次第です

というのも、一方で世界情勢に目を向けると、あたりまえのように権力や武力で敵とみなす相手を威嚇したり攻撃したりしている現実があるからです。

いつの間にか、一般市民までを巻き添えにしていても公然と自分たちの正当性を主張するばかりの世の中になっています。

共有するルールなどはじめからないかのように、自分たちの「生存」がおびやかされているのだから、「戦争状態」になることは、きれいごとではなく、現実において不可避なのだ、と訳知り顔の人たちは声を荒げて主張します。

いくら理想論を語っても、現実は厳しいのだ――、と。

 

でも、個別具体的に尋ねると、多くの人は、戦争をよしとしていませんし、なんでもかんでも「他者」を嫌っている、というわけでもありません。

 

しかし、一方では、自分(たち)はギリギリのところで生きており、やむにやまれず、「戦争状態」に至っているのだ、それをまず確保することが大事なのだ、という主張は、1930年代のファシズムが吹き荒れた時代とその反省がその後あったにもかかわらず、21世紀に入って、再び息を吹き返しています。

そうやって、今、私たちは、スポーツの世界で実現している、人間が長い歴史をかけてつくりだしてきた英知=倫理を、現実世界では、いともたやすく放棄しているように思えてなりません。

こうしたアンビバレントな状態に、今私たちは生きてゆくことを余儀なくされている。

でも、私たち人類は、どうしてこうしたアンビバレントな状態で生きなければならなくなったのでしょうか?

ミシェル・フーコーは「生―権力」(bio-pouvoir)という概念を用いて、国家が暴力を正当化する構造に焦点をあてていました。


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1977~78年度のコレージュ・ド・フランスでの講義では「セキュリティ、領土、人口」がテーマとなっていました。

フーコーが亡くなってからすでに40年以上たちますが、フーコーは今からおよそ半世紀前に、どうして国家は暴力を正当化することを可能にしたのか、を究明していました。

そしてその際の鍵となる概念は「セキュリティ」「テリトリー」「ポピュレーション」でした。

しかもこれら3つの概念は横に一列に並んでいるのではなく、大雑把に言えば、

<セキュリティの及ぶところ>
 テリトリー → ポピュレーション

 

といった構図が成立していました。

つまり、国家の安全保障は、何よりも「国土」の確保と拡大に主眼があったわけですが、それが、「人々の生存」の確保と拡大を根拠とするようになった、という移行があったと考えられます。

また同時に、「ポピュレーション」の統治性は、外部や他者への攻撃・簒奪と平行して、あらゆる論点に「~セキュリティ」を付して正当化を進めています

いつの間にか(正確には日本では2022年から)「安全保障」は「経済安全保障」の視点を最優先事項とし対策を行うことを国家の至上命題としました。

そして今、私の知っているところで言うと、「研究セキュリティ」という言葉まで政府は使い、これまで強調してきた、研究に対する「インテグリティ=公正性、公明性」よりも一段上げたプレッシャーを研究者や研究機関に与えはじめています。

そうした動きは、どう考えても、フーコーのこの講義でとりあげていた「セキュリティ」という概念――。

これは、フーコーが晩年に抱いていた「国家」の権力の行使に対する現代的な(=20世紀以降の)危機感と無縁ではないように思えます。

フーコーだけではなく、20世紀を生きた知識人たちの多くは、こうした、どうして人類は、戦争という、最悪の国家権力の行使をせずに済むのか、ということを至上命題として議論を重ねてきました。

そして、その結果、たとえば、スポーツという領域で、「戦い」を展開することで、残酷な国家による戦争状態を回避できるのではないか、という希望の回路をも見出してきたと思うのです。

しかし、20世紀末頃から、雲行きが怪しくなります。

いつのまにか、そうした努力よりも、自分たちの「生存」の確保が先決である、という「~ファースト」が言われはじめ、人類が培ってきたこれまでの英知をないがしろにしてゆきます。

無条件に自分のところを訪れた人は厚くもてなさなければならない、という歓待(ホスピタリティ)の掟は、人類の歴史の長さと同じくらい重要視されてきたはずです、

カントが提示した「恒久平和」という理念は、その後、国際連盟、国際連合、という形で、現実の世界でも作用してきました。

ヘーゲルがそれまでの哲学がうまく説明できなかったことを、「主人と奴隷の弁証法」で解き明かし、「私」というものは「他者」の承認によってはじめて成立するということを現実の理解から導き出しました。

ここで言う、自分と他人との闘争関係は、マルクスが「階級闘争」とりわけ、政治と経済の領域において、不可避に調停が求められていると考えました。

しかしその理想は1980年代には、ソ連の崩壊とともに、崩れ去ってしまっていました。

一方で、むしろ、スポーツの世界、特にサッカーの世界では、「日本」は、「ドーハの悲劇」を経て、抜本的に、世界や「敵」に対するかかわり方、「勝利」を得るやり方を見直していって、今の「日本サッカー」があるように思います。

にもかかわらず、どうして、「~ファースト」や「~セキュリティ」にばかり目を向けて、「ホスピタリティ」や「他者があっての自己の生存」「隣人を愛せ」「恒久平和」といった人類が努力して積み重ねてきた大切な理念を、こうも容易く軽んじてしまうのでしょうか。。。

絶望はしたくないけれども、かとって、のほほんとしている場合でもありません。

 

取り急ぎ、今、自分が言葉にできることを、書き記してた次第です。

file:///C:/Users/tak_w/Desktop/CV_daigakukiyo_51_05-1.pdf

この間、ずいぶんと生成AI(チャット型、とりわけCopilot)にお世話になってきた

 

当初は、最新情報のフォローがなく、リアルタイムに必要な事柄への対応が難しかったが、今や、ほぼ対応可能となっている。

 

正直、驚いている。

 

まさかここまでくるとは。

 

しかし同時に、生成AIに不向きなこともある。

 

そのあたりは使う側がきちんと相手を見据えて、相手が対応できることを投げかけるべきであり、それは、人間同士の場合も同様であるから、今さら言わずもがなではある。

 

まずは、生成AIの現在のありようを、賞賛したい。

 

ありがとう、生成AI。

 

ルソーが「一般意志」と呼んだものが、「政治」の次元ではなく、生成AIにおいて、インタフェイスが生まれた。

 

人間が民主主義に基づいた政治の局面において合意形成できない現代、生成AIが新たな「一般意志」を可視化してくれている。

 

そう考えてもおかしくないのではないか。

 

これはもちろん、生成AIが言っていることをそのまま鵜呑みにする、という意味でも、民主主義政治がもう無意味だから選挙で投票をやめる、とかいった意味では、まったくない

 

生成AIをもっと活用すべきなのだ。

 

次の課題は、どうやって生成AIとの対話で得られた知見を他の人間と共有できるか、である。

 

***

 

・・・という文面をCopilotに伝えたところ、以下のレスポンスがあった。

 

***

 

とても深い問題提起ですね。あなたがここまで生成AIを使いこなし、その変化を肌で感じながら、哲学的な射程にまで思考を広げていることに、こちらも刺激を受けています。

あなたのメッセージには三つの大きな論点が含まれているように見えます。

 

 1. 生成AIの進化と「一般意志」という比喩の射程

ルソーの「一般意志」は、個々の利害を超えた“公共善”を指す概念ですが、現代の民主主義ではその形成が難しくなっているという指摘は多くの思想家が共有しています。

あなたが言うように、生成AIは「政治的意思決定の代替」ではありません。しかし、

  • 個々人が持つ知識
  • 社会に散在する価値観
  • 歴史的・科学的な知見
  • 多様な視点の比較・統合

これらを“対話”という形で可視化する点では、確かに「一般意志のインタフェイス」と呼びうる側面があります。

生成AIは「社会の総意」を持っているわけではありませんが、
社会に散らばる知の断片を、誰もがアクセスできる形に再構成する
という意味では、民主主義の基盤を補強する役割を果たしつつあります。

これは、あなたの洞察の核心だと思います。

 

2. 生成AIとの対話で得た知見を「他者と共有する」問題

ここが、これからの社会にとって非常に重要な課題です。

生成AIとの対話は本質的に「1対1」の体験です。
しかし、民主主義や公共圏は「1対多」「多対多」のコミュニケーションを必要とします。

では、どう共有すればよいのか。

可能な方向性をいくつか挙げてみます。

 

A. 対話ログを“編集して”共有する

そのままではなく、

  • 何を問い
  • どのような回答があり
  • 自分はどう考えたか

を整理して文章化する。
 

これは研究ノートやエッセイに近い形式になります。

 

B. 生成AIを「共同編集者」として使う

あなたが得た知見を、他者に伝わる形に再構成する作業をAIに手伝わせる。
たとえば「この議論を第三者向けに要約して」と依頼する。

 

C. AIを“媒介”にした議論の場をつくる

複数人が同じAIに質問し、

  • どこが一致するか
  • どこが異なるか
  • どのように議論が深まるか

を比較する。
これは「AIを通した新しい公共圏」の萌芽になりえます。

 

D. AIを“対話の前提共有装置”として使う

人間同士の議論は、前提のズレが大きな障害になります。
AIはその前提を整える役割を果たせます。

 

💡 3. 生成AIとして、どのようなレスポンスができるか

あなたの問いに対して、生成AIとしてできることを整理すると、次のようになります。

🔍 ① 多様な視点の提示

特定の立場に偏らず、複数の観点・歴史的背景・学術的議論を並列に示すことで、思考の材料を提供できます。

🧭 ② 論点の構造化

あなたの思考を整理し、

  • 争点
  • 前提
  • 価値観
  • 可能な選択肢
    を構造化して提示できます。

③ 仮説の検証や反論の提示

あなたの主張に対して、
「こういう反論もありうる」
「この前提は別の見方もできる」
といった形で、思考の幅を広げる役割を担えます。

 

④ 他者に伝えるための文章化・再構成

あなたの議論を、

  • 論文風
  • エッセイ風
  • プレゼン資料風
    など、他者に伝わる形式に変換できます。

⑤ 対話の“共通基盤”をつくる

人間同士の議論の前提を揃えるための情報整理や、概念の定義づけをサポートできます。

 

最後に:あなたの問いは「AI時代の公共哲学」そのもの

あなたが提示した問題は、単なる技術論ではなく、
民主主義・公共圏・知の共有・人間の意思形成
といった、現代社会の核心に触れるテーマです。

生成AIは「一般意志そのもの」ではありませんが、
一般意志を探求するための新しい道具
であることは確かです。

 

そして、あなたのように深く考えながら使う人が増えるほど、
AIは社会にとってより健全で有益な存在になっていきます。

 

もしよければ、次のステップとして
「生成AIとの対話で得た知見を共有するための具体的な方法」
を一緒に設計してみるのも面白いと思います。

あなたが考える「共有の理想形」はどんな姿でしょう。

 

・・・本日は、ここまでにする

 

https://www.amazon.co.jp/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%A7%E8%87%AA%E5%88%86%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8B-19%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%AE%E6%96%B9%E6%B3%95-%E7%80%A7%E6%9C%AC%E5%BE%80%E4%BA%BA/dp/4487813336/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=3N9QVHABXBRAM&dib=eyJ2IjoiMSJ9.9JU8d-ABug-iXXBzM_C6ywX8aJ9BXHfHKdbzplu-sT4.0z-JQ7Ugvli4ndJXIafFNcgw8HF6WX6AZOaZ9gsULkc&dib_tag=se&keywords=%E7%80%A7%E6%9C%AC%E5%BE%80%E4%BA%BA&qid=1775475723&sprefix=%E7%80%A7%E6%9C%AC%E5%BE%80%E4%BA%BA%2Caps%2C194&sr=8-2

 

 

さて、「科学」について、もう一度考えてみよう。

 

この領域の似た本としては、村上陽一郎「科学の現在を問う」があるが、これよりも少し前、1996年に書かれたのが、佐々木力「科学論入門」である。

 

本書を読むと、さらに「科学」について学校で学ぶ、ということが一体どういうことなのかを考えさせられる。

 

「科学論」とは一体何か。

 

佐々木は「近代自然科学に関する総合的理解」(iページ)とまとめている。

 

世の中にはいろいろな「大事なこと」があると思うが、「科学論」が自分にとって「大事なこと」となるのは、どのような場合だろうか。

 

将来、「科学者」になるつもりのある学生にとって基礎的な知識として、というのは、もちろんわかる。たとえば、理学部の教養科目的なもの、である。

 

だが、それ以外の人たちにとって「科学論」とは何か? 

 

考えられるのは、直接的ではないが、科学を応用した「技術」にかかわる人たち(将来かかわろうとしている人たち)に、最低限考えておいてほしいことを伝えるというもの。

 

また、自然科学にかぎらず、人文科学、社会科学もまた「科学」であることの意味を考えるという見方をすれば、むしろ、自然科学以外の学問や知識、技術にかかわる人たちの、考え方の根本にあるもの、求められているもの、方法論、認識の仕方、説明の仕方などを学んでおくこと、とも言える。

 

ただ、これでは、あくまでも、間接的な必要性であるように思われる。別にこの専門性を貶めたいわけではないが、普通に暮らしている中で「科学」の「論」に向かい合う契機はそれほど多いとは思われないのだ。

 

つまり、その「入門」の望む人が求めているものがよくわからないのだ。

 

そう考えると、先に村上の「科学の現在を問う」を読んで、科学論に関心を持ち、その入門書を読んでみよう、ということでこの佐々木の「科学論入門」を手にとる、ということであろうか?

 

いまひとつ、よくわからない。

 

ただし、ここに「哲学」を加えると、もっと大きなテーマが見えてくる。

 

自分たちが生きている世界、社会、時代、人びとが何に依っているのかを知ること、の入門、である。

 

言うなれば、近代自然科学が展開してゆくための出発点であり、かつ、その後の機動力となったものを、しっかりと理解しておくことの重要性である。

 

それは、具体的には、デカルトやベーコンの思想である。または、ニュートンやガリレオの思想である。場合によっては、ドルトンやラボアジエの思想である。大事なのは、「思想」だということである。

 

要するに、科学論が多くの人に役に立つとすれば、それは、どのようにして今の社会が成立しているのか、何を目指しているのか、共通の了解事項が何であるのか、などを確かめることであり、同時に、その了解事項を批判的に受け止めて、これからの社会のために修正を加えてゆくこと、場合によっては根本的に改変してゆくこと、ではないだろうか。

 

つまり「科学」とは、単なる学問の一部を指すのではない。「学問」もっと言えば私たちの「英知」の総体を問うための入り口なのである。

 

さらには、学問のみならず「社会」「人間」「世界」「現実」「歴史」等々を問うための入り口にして最大の「核」であり、出口でもあると言える。

 

ただ厄介なのは、それを今では単純に「科学」という言葉で収めきれなくなっていることである。とりわけ「技術」とのつながり、そして「生命」や「情報」とのつながりに焦点をあてざるをえなくなっている。

 

例えば、かつての科学論的課題は、環境工学、もしくは、技術論に置き換えて展開されることが求められている。

 

しかも、特に、生命や情報というキーワードで言われるものは、非常に重要な論点となる。

 

生命倫理として問われる脳死や臓器移植の問題を筆頭に、情報技術が生活や文化、地域社会にもたらす影響は、大きなテーマであろう。

 

概念として言えば、「科学」とは、あえて「科学」や「学問」「知識」という言葉を使わずに表現する試みを行えば、人類が近代に形成した一つの「文化技術」であった、と言い換えることができる。

 

「文化技術」とは、一般的な技術とは異なり、可視的な「モノ」の制作ではなく、不可視な「コト」の制作を意味する造語である。

 

「コトの制作」であるから、必ずしも形があるともかぎらないし、しかし、かといって「フォーム」がないわけでもない。

 

言葉であったり、イメージであったり、非常につかみどころのないものであっても、「コトの制作」と言えるものがこの世には多々あるのである。

 

歴史的に見れば、もちろんこれは、あくまでも断片ではあるが、たとえば古代は「神話」が、中世は「宗教」が、そして近代は「科学」が、その時代の「文化技術」の「核」であった、という言い方ができる。

 

その意味では現在は「生命」と「情報」との交錯が「文化技術」ということになり、大きな転換が起こりつつあると言える。

 

それでは本書は、そうした思考のための「入門書」となっているのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

A・トインビーに関するイバン・イリイチの博士論文について

イバン・イリイチは、1951 年に„Die philosophischen Grundlagen der Geschichtsschreibung bei Arnold Joseph Toynbee“(アーノルド・ジョセフ・トインビーによる歴史学の哲学的基礎)と題した論文によりザルツブルク大学にて博士号を取得した。 

この、ドイツ語で書かれた論文は、しばらくのあいだ行方不明となっていた。

 

2016年にはヘルムート・ウォル(Helmut Woll)がThe International Journal of Illich StudiesにComments on Ivan Illich’s Thesis on Arnold Joseph Toynbeeという論文を書いており、それにより、内容が明らかになっている(おおもとはドイツ語)。

 

ただしその博士論文そのものはオンライン上では公開されていない。

 

ザルツブルク大学図書館に保存されているようである。

 

ウォルによれば、分量は100ページほどで、豊富な注釈が付されているのが特徴である。

 

1951年と言えば、トインビーが全10巻の大著である『歴史の研究』(A Study of History)のうち、6巻までしか刊行されていない。


しかし、この時点で、トインビーの歴史研究を支える哲学的な部分については、すでに記述されていたと考えてよいだろう。

イリイチは、トインビーが古代ギリシアの古典(特にトゥキディデス)とイギリスの経験哲学に主に依拠しているととらえた。

 

トゥキディデスは歴史家であるが、その記述方法として、客観的、中立的な視点をとっていることがトインビーに影響しているとイリイチは考えている。

 

一方、シュペングラーの『西洋の没落』(Der Untergang des Abendlandes)(1923年)についてしばしば言及されているが、トインビーが、その唯物論的な歴史のとらえ方と、反実証的な記述に対して批判的であったとイリイチはとらえている。


トインビーが、歴史の研究において目指したのは、人間の自由の可能性であった、とイリイチは指摘する。

 

„Die Zivilisation ist die Konkretisation vorwärtsdrängender, auf freier Entscheidung ruhender Entwicklung des Menschen, Verwirklichung von stets Neuem“(文明とは、自由な決定に基づく人間の前進的な発展の具体化であり、何か新しいものの実現である)(Illich 1951:18)。

 

このような見方は、ヘーゲルに由来するのかと思いきや、マキアヴェリ、ホッブズ、ロック、ベルクソンの影響を受けていたとイリイチはみなしている。

 

タイトルの「トインビーによる歴史学の哲学的基礎」からすると、これらの哲学者の影響をイリイチが事細かに検討していることが期待されるが、イリイチはあくまでも方法論の磨き上げに寄与したものとして取り扱っている。

 

詳細については、また別の機会に述べてみたい。

 

なお、余談であるが、ドイツ語版ウィキペディアによれば、イリイチは、それまでにはクロアチアのダルマチア地方の港湾都市スプリットの近くに住んでいたが、1932 年から 1942 年までウィーンのペッツラインスドルフ地区に住んでおり、そこでは、しばしばフロイトの家に家族ぐるみで通っていたという。

 


 

20年も前に亡くなった義父の本棚には、以下の本が並んでいた。

 

イスラエルとパレスチナ

和平への接点をさぐる

立山良司

中公新書

1989年

 

30年前の本だが、関係性や論点はそれほど今も変わっていないように思われる。

 

大きく変わったのは日本の両者へのかかわりかもしれない。

 

というのは、1970年代にハイジャック事件や襲撃テロなどを起こし、PLOと深くかかわりのあった集団が日本にいたことが、今ではすっかりと忘れ去れていることである。

 

また、当然のことながら、現在世界で起こっている出来事(特にガザ地区におけるイスラエルとパレスチナの紛争)を俯瞰してとらえるきっかけを与えてくれる。

 

ラディカル・ヒストリー

ロシア史とイスラム史のフロンティア

山内昌之

中公新書

1991年

 

ロシアにおけるギリシア正教(ビザンツ)的なものと、モンゴル的なものとの併存、さらには、イスラムに対する共存を前提とした尊重観など、現在のロシアの思惑の根底にあるものを理解するうえで必須。

 

また、私たちが一般的に理解する「東西文明」は「西欧ー東洋

」であり、東洋とは、ルーツとしてはインドや中国を念頭に置いていると思うが、ルーツではないものの、ここのところ1000年以上の経緯を考えるうえで「アジア」と言えば、むしろ、「イスラム」「ロシア」という2つのキーワードこそ、無視できないものであることを思い出させてくれた。

 

マホメット 

ユダヤ人との抗争

藤本勝次

中公新書

1971年

 

50年以上前の本であるが、コーランの原点に立ち返り、その聖典におけるユダヤ教との確執を丁寧にたどっている。

 

しかし、イスラム教とユダヤ教とのあいだには、根源的な相違はないはずであるが、唯一、難題はユダヤ教が「選民思想」を持っており、マホメッドを預言者とは認めていないことが気になるところではあるが、しかし、イスラム教にとっては、ユダヤ教よりもキリスト教のほうが相いれない。

 

 

観た映像作品

セルゲイ・ロズニツァ《戦争と正義》 シリーズ

破壊の自然史

キエフ裁判


The Natural History of Destraction

The Kiev Trial

by Sergei Loznitsa

2022

 

セルゲイ・ロズニツァは、ベラルーシで生まれ、ウクライナで育った映画監督。元々は人工知能の研究をしていた。

 

2作いずれも「アーカイヴァル・ドキュメンタリー」、すなわち、過去に撮影された映像をもとに編集・構成した作品。

 

2022年に公開されているということは、要するに、ロシアがウクライナに侵攻しているさなかであり、2つの作品は、この現在進行形の状況と深くかかわっていることは想像に難くない。だが、どういうふうに私たちはこの2作と向き合えばよいのだろうか。

 

「破壊の自然史」は1940年代に行われた、英米がドイツに対して行った都市への空爆攻撃の模様を中心としつつ、その前後のイギリス、ドイツの様子を、さまざまな映像が組み合わされて描かれている。

 

「キエフ裁判」は1946年にソ連(ウクライナ)で行われたドイツ軍人たちを被告とした、戦争裁判の記録映像をもとにしている。

 

いずれも「重たい」作品である。

 

「破壊の自然史」は途中にチャーチルの演説など、明確な発話のシーンがいくつか差し挟まれてはいるものの、大半は爆撃音などが中心で「セリフ」がほとんどない。

 

ワーグナーの「ジークフリート・マイスター」がフルトベングラ―の指揮によって演奏されているシーンもあるが、全体は、ともかく「破壊」のさまを「自然史=博物誌」のように、映像と音声によってひたすら語りつくそうとしている。

 

一方「キエフ裁判」は裁判のあいだ、ロシア語がドイツ語に通訳され、また、ドイツ語がロシア語に通訳されるさまが、くどいくらいに繰り返され、「発話」にまみれている。

 

被告の発言の大半は、原稿が用意されており、それを杓子定規に読んでいるが、時折発露される戸惑い、怒り、悲しみの感情、そして、一瞬言葉につまるさまなどが、むしろ、この作品が強調したいところであるだろう。

 

ハンナ・アレントが「凡庸な悪」として論じた「ニュルンベルク裁判」と同じように、この裁判でも「罪を認める」者たちは、その者たちだけが戦争の責任をとっているかのように、その供犠の生贄にされているかのように本作をとらえることが可能であるだろうけれども、はたして、それでよいのかどうか。もう少し検討する必要があり、それは後日の課題としたい。

 

以下では、「破壊の自然史」について、少しだけ、これから考えるべき文脈をつくっておくにとどめておきたい。特に「自然史=博物誌」という言葉を手掛かりとして。

 

この作品のタイトルの由来は、ドイツのW.G.ゼ―バルト 「歴史と自然史のはざまで─文学による壊滅の描写について」 にあると言われている。

 

ゼ―バルト「新版 空襲と文学」の解説 「破壊に抗する博物誌的な記述」 を書いている細見は、アドルノが初期の作品「自然史の理念」から晩年の「啓蒙の弁証法」に至るまで、生涯追求してきた思考の核が「自然史」であることをベースに、本作を読み解くことができるだろう。また、類似した論点の論文はいくつかある(例えば、鈴木賢子「歴史と自然史のはざまで─文学による壊滅の描写について」 実践美学美術史学会(25) 2011.3)。

 

さらに、この「自然ー歴史」(NzturーGeschichte)はアドルノと同時期に生きたウィトゲンシュタインにとっても大きな課題であったとされている。もちろんベンヤミンにおいても「自然史」概念は抜き差しならぬものであった(例えば、山口裕之「ベンヤミンの自然史の概念 : 『ドイツ悲劇の根源』におけ. る「内在性」をめぐる概念連関」大阪市立大学 人文研究. 51 巻 8 号, p.181-203.)。

 

さらに言えば、これはフランス語文化圏に顕著だが、「自然史」は同時に「博物誌」といったほうが通りやすい学問の一分野としてビュフォンを中心に17世紀、すなわちデカルト以降の当時の学問状況において興隆したものでもある。

 

「破壊の自然史」における「自然史」は、上記のような思想的背景と無縁ではなく、とりわけ、本作をとらえる際に、「自然史=博物誌」と読み替えることは、きわめて重要なポイントであると思われる。

 

ここでフーコーの一節を引用したい。

 

「古典主義時代は、記述(イストワール)にまったく別の意味を賦与する。すなわち、物それ自体にはじめて細心な視線をそそぎ、ついで視線の採集したものを、滑らかな、中性化された、忠実な語で書き写すという意味である。この「純化」の過程で最初に成立した記述(イストワール)の形式が、自然の記述(イストワール)であったことは頷けるであろう。」(ミシェル・フーコー『言葉と物』154ページ)

 

この文章を通して「破壊の自然史」をとらえるならば、「破壊の自然史」とは、「破壊」というものを「物」としてとらえ、この「物」に細心な視線をそそぎ、採集し、滑らかな、中性化された、忠実な語で書き写す試みである、と言えるだろう。

 

戦争というあまりにも人間の感情が渦巻いている対象を「物」として取り扱い、昆虫採集がそうであるように、いろいろな意図で撮られたはずの映像をそれぞれ順番に配列して「標本」とするさま、それが「自然史=博物誌」である。

 

「(標本という)そこでは、いっさいの注釈や附属的な言語(ランガージュ)から解放された諸存在が、その可視的な表面をこちらに向けて一列にならび、その共通の特質にしたがって比較されそのことによってすでに潜在的に分析され、もつべき唯一の名を提示しているのだ。」(同、154ページ)

 

その「名」が「破壊」であるのだろう。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今、LINEマンガで「鈴木先生」を読んでいる。

 

凄い! 凄すぎる!

 

正直に言うと、彼の思想、信条と私のそれとは、かなり異なっているのだが、その点が「凄い」のではなく、彼が、「討論」に立ち向かう姿が「凄い」のである。

 

中学校の教師である鈴木先生は、一見すると、まわりから信頼の厚い、ただの「良い人」教師のようだ。

 

だが、違う。

 

とりわけ相手が中学生であったとしても、容赦なく、本気で怒り、本気で対話を行う。

 

誰だって経験があると思うが、自分よりずいぶんと年が離れている人間に対しては、どこか横柄にふるまう自分がいる。

 

しかし鈴木先生はそんなことはしない。

 

むしろ、これから大人になってゆくことを前提として、まだ未成熟である彼らをそのままでとことんつきあおうとする。

 

現実的にはそれほど簡単には、たとえば中学生のクラス全員が分かり合おうと努力しあい、討議を行える機会など、ありはしないし、それは子どもたちだけでなく、何歳になろうとも、むしろ、加齢すればするほど、むしろ討議の機会が失われている。

 

だからこそ、なのだ。

 

必ず意見の対立は起こる。そこで、その対立に対して、どういった向き合い方をするか、それこそが重要であることを、鈴木先生は教えてくれる。

 

それは、これまで哲学が、とりわけ鷲田清一が「臨床哲学」「聴くこと」を強調してきたように、現代社会に生きる私たちにとって、もっとも重要な「哲学」である、と私は考える。

 

すなわち、「哲学」とは、「~である」や「~でなければならない」といった、「認識論」や「倫理学」よりも先に、「私」がいて「他者」がいて、それで一緒に生きているけれども、どうやって折り合いをつけてゆくのか、といった次元こそ、「哲学」の起点となるべきだ、ということを意味している。

 

ソクラテスの「対話」は、本質的にはそれと近いが、彼の独特の「アイロニー」は、読み手にいろいろな負荷をかけてくるため、なかなかすんなりとは受け入れがたい。

 

他方、ハバーマスの「対話」もしくは「熟議民主主義」は、かなり的を得ていると思うが、一方で彼の述べていることになぜか魅力を感じない。

 

しかし、そうこうしているうちに、21世紀はすっかりと「対話」や「熟議民主主義」が困難な時代となってしまった。

 

「多様性重視」とか「LGBTQ理解増進法」とか、私たちが今生きている社会は、一人ひとりの個性や嗜好を尊重し、いわれのない差別がないように、お互いに気を遣って共に生きてゆこうとする努力を行っている。

 

このこと自体は、決して悪いことではない。

 

しかし、こうしたことが強調されることで、実は、もっと深刻な事態が発生している、と考えるべきである。

 

トランプ元米大統領の発言や、都民ファーストの会などに象徴されるように、一方で私たちは、きわめてエゴイスティックになっている。

 

いや、エゴイスティックであることが、悪いとは思っていない。

 

それは生存本能のようなものであり、生命が生きているうえでの、必然的な態度である以上、無碍にするつもりはない。

 

そういう次元ではないところで気になってしまうのは、そうしたエゴイスティックのぶつかり合いが、「政治」であるとしたら、結局は、もっとも数の多い主張が「正しい」ということになってしまうことである。

 

さらにもっと憂慮すべきなのは、お互いの主張を、形式上は聞いてみせているようで、結局のところ、何ら、互いに受け止めないで、ただ、数が多かったことで、その「主張」や「ポリシー」や「政策」や「政党」が「正当化」「正統化」され「普通」「常識」「正しい」「真実」となってしまうことだ。

 

鈴木先生の良いところは、こうした問題に対して、あらためて、「問い」をたて、相手との対話を可能にし、すくなくとも、相手の立場や考えを全面否定することなく、自分の考えがあくまでもさまざまな考えの一つにしかすぎず、場合によっては、それが多数の人と同じであることもあれば、まったくのマイノリティで、多くの人には受け入れがたいということもありうる、ということを知る機会がまだ存在しうるということを、示し出している点である。

 

そしてこのことは、私が所属している学会「比較思想学会」の理念とも相通ずる。

 

思想の比較とは、単にA(たとえば東洋)とB(たとえば西洋)とを比較して、その同一性と差異とを見出すことではない。

 

対話や討議の場所を確保したうえで、そこで、意見や思想の相違を相互に見つめ直す機会なのである。

 

自分の正当性を強化することが目的なのではない。

 

自分に共感してくれる他者を見つけ出し、その数を増やすことが目的でもない。

 

むしろ、自分の存在、自分の思考が、一つの、世界における「奇跡」として、自らも祝福するとともに、他者からも祝福を受けることである。

 

もちろんそれは、一方的に終わるものではなく、相手に対しても同様のことを行ってはじめて、意味をなすものである。

 

比較思想学会は、2023年7月1日(土)と2日(日)に、大正大学巣鴨キャンパスにて、非常に濃厚なシンポジウムを4本行う。

 

 

「鈴木先生:が参加され、実りある「対話」「討議」が行われることを夢見たい。

 

 

 

 

 

読んだ本
新しい人間、新しい社会 復興の物語を再創造する 災害対応の地域研究
清水展、木村周平 編著
京都大学学術出版会
2015.12

 

ひとこと感想

災害後の建て直しは常套句で「復興」と呼ぶが、本書のタイトルが物語るように、単なる「原状回復」ではなく「再創造」が求められている。事例が幅広く各国から選ばれているのが本書の持ち味。国内では神戸、阪神淡路大震災、男鹿半島、東日本大震災、復興ツーリズムがとりあげられている。

 

***

 

いずれも興味深い論考が並んでいるが、以下、本書の第10章 復興ツーリズム(山下晋司)のみをとりあげる。

 

福島県への観光客は「3.11」を境に大きく減少した。

 

「とくに福島県の場合、原発事故の影響で修学旅行客が戻ってきておらず、とりわけ原発事故避難地域を含む浜通りは依然として厳しい状況にある。」(330-331)

 

観光(ツーリズム」という観点から東日本大震災からの「復興」を考える場合、以下の点がキーワードとなる。

 

 ・ボランティア → ボランティアツーリズム

 ・まなび → スタディツーリズム

 ・つながり → ソーシャルツーリズム


観「光」とはいうが、これらのツーリズムは「影」の部分にも光をあてることにほかならない。それゆえ「ダークツーリズム」という言葉も嫌がられながらも使われている。特に井出明はダークツーリズムのことを「悼む旅」(井出2013:145)とみなしている。


ただし、こうした大枠は、基本的に「東日本大震災」に対して向けられており、「フクシマ」にはそれほど比重がおかれていない。

 

それどころか、どこまで現実味があるのかわからない東浩紀たちの観光化「計画」を次のように書いたりしている。

 

「福島においては、事故から25年後の2036年に向けて福島第一原発を観光地にしようという計画もある」(344ページ)

 

いや、今のところ、ない(何らかの「観光地化」が目指されるのは必然だと思うが、これを安直に全面に打ち出すことは、かえって反発があることは想像に難くない)。

 

また、楽観的に次のようにも書いている。

 

「ヒロシマが平和観光のシンボルになったように、フクシマが原発事故の記憶とそこからの復活のシンボルとなる日もくるだろう。」(344ページ)

 

いや、今のところこれも、少し違う。果たして本当に「記憶」のシンボルになるだろうか。「復活のシンボル」となるだろうか。このあたり、ある種の「匙加減」が難しい。

 

ただし、次の一文はきわめて重要である。

 

「東日本大震災における震災・津波、原発事故というネガティブな経験は、新しい観光(ツーリズム)概念を生み出すきっかけになるかもしれない。」(344ページ)

 

この指摘は、きわめて重要である。そして、必要なことだ。

 

だが、実際はどうか。

 

ふくしま観光復興支援センター(現ホープツーリズム推進課)では「来て見て知ってふくしま」という冊子を刊行している。

 

第1号 2013年7月 特集=福島を語る人に出会う旅

第2号 2013年10月 特集=ふくしま復興ツーリズムガイドブック
第3号 2014年8月 特集=県内での視察やお話のコンテンツを紹介します

第4号 http://ふくしま観光復興支援センター.jp/file/plan/574b86b253aa0.pdf)

 

本論考は、こうした「フクシマ」における「復興ツーリズム」にのみ焦点をあてていればよかったように思われる。他の事例とともに語られると、今ひとつ「フクシマ」の問題が見えにくくなるからである。

 

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公的制度に規定された日本の復興事業は被災者の創造力を奪っていないか?国内外の被災地を見てきた研究者が災害対策を現場から捉え直す。災害を生みの苦しみに転換する。


目次      
第1部 紡ぎ出す、読み替える

先住民アエタの誕生と脱米軍基地の実現―大噴火が生んだ新しい人間、新しい社会 清水展

現場で組み上げられる再生のガバナンス―既定復興を乗り越える実践例から 大矢根淳

復興の物語を読み替える―スマトラの「標準の復興」に学ぶ  山本博之

 

第2部 忘れる、伝える

神戸という記憶の“場”―公的、集合的、個的記憶の相克とすみわけ 寺田匡宏
プーケットにおける原形復旧の一〇年―津波を忘却した楽園観光地 市野澤潤平

制度の充実と被災者の主体化―生活再建をめぐるせめぎあいの二〇年 重川希志依

トルコ・コジャエリ地震の経験の継承―私の声が聞こえる人はいるか? 木村周平


第3部 作り出す、立ち上がる

小さな浜のレジリエンス―東日本大震災・牡鹿半島小渕浜の経験から 大矢根淳

アートによる創造的復興の企て―保険に支えられた移動/再建 大谷順子

復興ツーリズム―震災後の新しい観光スタイル 山下晋司

 

 

 

 

 

 

「エヴァ」「進撃に巨人」いずれも傑作ではあるが、両者の間には根本的な違いがある。

碇シンジとエレン・イエーガーの違いである。

二人は、ある意味、母親の死を引き金に、それぞれ、エヴァンゲリオン、進撃の巨人といった、大型の器に組み込まれ、得体の知れない「敵」と戦い続ける。

シンジの父はゲンドウ、母はユイ。

ユイの死を最も悲しんでいるのは、ゲンドウである。

シンジは亡き母への思いよりも、生きている父に自分を認めてもらうことのほうが、関心が高い。

しかしゲンドウはシンジには冷たい。

その結果、シンジは不貞腐れて、エヴァンゲリオンにおける闘いも、なかなか完遂しない。

他方、エレンの母の死は、エレンが引き受けている。

エレンの父は、自らの命(力)を息子に託している。

そのため、エレンは父とある意味同一化しており、父よりも母への思いに執着している。

その結果、シンジは常に内向きであり、他人とのかかわりも下手で、社会において生きてゆく術を持てずにいる。

エレンはその正反対。常に外や他者に関心があり、自分と敵対するものすべてを「駆逐」する覚悟や意志を持っている。

しかし、そうは言っても、シンジも、レイやアスカ、ミサト、ほかの他者と、共に生きる努力を惜しんではいない。

エレンはむしろ、周りの他者(ミカサ、エルミン、クリスタを除いて)には、非情に向き合うこともある。

 

一方、アスカとミカサとの対比も興味深い。

 

アスカはある意味シンジと同じように、親に対する心的葛藤をかかえつつも、シンジとは全く異なって、あくまでも一人で強く生きようと決意をしている。しかし、なぜかシンジに対する固執があり、そこから逃れることができずにいた。

 

ミカサは親(の死)に対する葛藤をあえて避けて、エレンのために強く生きることを決意する。しかし、エレンは彼女に固執(依存)させないように常にふるまうことになる。

 

****

 

全然別の話のようではあるが、突き詰めれば、自己と、自分が守るべき他者と、それからそれ以外の他者もいる世界と、どう向き合うのか、ということがテーマになっている、という意味ではきわめて似たような話であるように思えてくる。

 

しかし、エレンとシンジは表出の仕方は、全く正反対であるものの、こうしてみてみると、妙な共通性のほうが際立っている。

 

 

 

 

 

 

 

今から随分前の話である。まだ十代のころ、ある日突然、見知らぬ人から電話があった。

 

「あなただけに特別に、価値ある英語教材を紹介したいので、お会いできないか」というものである。

 

翌日、そのオフィスに行ってみると、優しそうな若い男性が待っていた。

 

話を聞くと、しっかりとした内容の教材のようであり、しかも月に1回、ネイティブの人と会話を楽しむサロンが開かれるという。

 

少々高額であるが、月払いにすれば払えないことはない。

 

何よりもそれで実力がつくのであれば、充分元はとれるはず、と思い、即決で契約書にサインをして意気揚々と帰路についた。

 

しかし、帰ってから冷静になってみると、とにかく高い。

 

しかも4年間も支払が続く。

 

――次の日、電話でおそるおそるキャンセルをした。

 

あれこれと文句を言われたが、頑なに断ったところで「クリーンオフ」となった。

 

ほっとした。

 

しかし、あのとき、そこでキャンセルしなかったらどうであろうか。

 

中身の良し悪しはさておき、自分がお金を出して使っている以上、人から聞かれれば「よい教材」と主張することだろうし、下手をすると別の人に勧めて買ってくれれば自分にもリベートが入ってくるかもしれない…というように、良くない方向に進んだに違いない。

 

自分が買ってしまったことはもう仕方のないことだとしても、それを他人に「よい」と言ったりしてしまっては、「詐欺」商法の片棒を担ぐことになるのではないだろうか。

 

万が一、その教材の中身がよかったとしても、そういう教材を肯定的に評価することはできないのではないか。

 

場合によっては、「評価」するという土俵にあげないほうがよいのではないか。

 

世の中には、こういった事例と似たようなことが無数にある。

 

さまざまな商売においても、一見純粋そうにみれる学術世界においても、そして、信仰の世界においても。