名神大社 越後国一宮 彌彦神社(やひこじんじゃ)
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御祭神 天香山命(伊夜日子大神)
摂社 武呉神社 船山神社 草薙神社 今山神社 勝神社 乙子神社 妻戸神社 桜井神社
末社 祓戸神社 湯神社 上諏訪神社 下諏訪神社 住吉神社 火宮神社 二十二所神社 八所神社 十柱神社
鎮座地 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2887-2
参拝者が途切れない拝殿前の様子
社地南側の一の鳥居
神話に登場する「天香山命」
御祭神の「天香山命」は、皇祖天照大御神の御曾孫で、天孫降臨に供奉して天降りました。
天香山命が紀伊国熊野神邑に住んでいた頃、神倭伊波礼毘古命と皇軍将士が東征の途上に、熊野荒坂津で敵の毒気により昏睡に陥りました。
この危機を救うため、天照大御神と武甕槌命は、天香山命に、かつて武甕槌命が国土平定に用いられた威力ある霊剣「韴靈剣」を、神倭伊波礼毘古命に献ずるよう夢の中で告げられました。
表参道を進むと御手洗川と交差し、奥に「玉の橋」が見えます。
「玉の橋」は神様が御渡りになる橋です。
明治末の社殿焼失以前には拝殿前にありました。
天香山命が、昏睡している神倭伊波礼毘古命に韴靈剣を献じたところ、霊剣の威力によって神倭伊波礼毘古命を始め皇軍将士は忽ち昏睡から覚醒し、敵を撃破しました。
天香山命の韴靈剣献上の大功により危機を乗り越えた皇軍は、その後次々と蛮賊を平定し、神倭伊波礼毘古命は大和国に入り橿原宮で初代天皇「神武天皇」として即位されました。
表参道につながる小道の先には「車清祓所」があります。
天香山命は、神武天皇即位四年(紀元前657)、越の国平定の勅を奉じて日本海を渡り、米水浦(弥彦山の背後・長岡市野積)に上陸しました。
表参道を進むと「手水舎」があります。
天香山命は、当地では住民に漁業・製塩・酒造などの技術を授け、後には弥彦の地に宮居を遷して、国内の悪神凶賊を教え諭し、万民を撫育して、稲作・畑作を始め諸産業の基を築いた神様です。
手水舎の前に「車清祓受付所・神札授与所」があります。
彌彦神社由緒
彌彦神社の創建は、社伝によると、天香山命が第六代孝安天皇元年(紀元前392)二月二日に、越の国開拓の神業を終え、神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、その御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まります。
車清祓受付所・神札授与所の前に米俵を模した記念碑
記念碑の横に「重軽の石」があります。
「重軽の石(火の玉石)」は、心の中で願い事を思いつつ持ち上げて、軽いと感じれば祈願は成就し、重いと感じたならば叶わないと言われています。
東参道側には「鹿苑」と「日本鶏舎」があります。
三嶋大社から譲り受けた神鹿さんもいます。
万葉集の一首「いやひこ 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮服着て 角つきながら」
「日本鶏舎」では、貴重な鶏の在来種を保護育成しています。
私の出身地秋田県の天然記念物である「比内鶏」もいます。
彌彦神社は、第十代崇神天皇の御代(紀元前97~30)に、第六嗣(天香山命より七代)建諸隅命が勅を奉じて社殿を造営しました。
以来、御歴代の天皇の勅による社殿修造がなされ、第四十三代元明天皇和銅四年(711)には勅により神域の拡張と神戸及び神領の境を定めたと伝えられています。
彌彦神社は崇神天皇御代の御創建から現在に至るまでの二千四百年以上に亘り、天皇陛下を始め皇室の御安泰と御繁栄、国家国民の安寧と限りない繁栄のために御神威の御発揚を祈念し続けている社です。
日本鶏舎の西側に「御神木」があります。
「御神木」椎の木は、天香山命が携えられた木で、「もし此の地が自分の住むべき土地ならば繁茂せよ」と仰せられたところ、大木となったといわれ、明治末期の大火で焼けた後も、たちまち元の姿になったといいます。
参道に戻り、二の鳥居を潜ると「神馬舎」があります。
立派な馬具を付けた神馬木像です。
彌彦神社は、「続日本後紀」巻第二・仁明天皇天長十年(833)七月戊子条に、「越後國蒲原郡伊夜比古神 名神に預かる 彼の郡旱疫有る毎に雨を致し病を救うを以てなり」と記載されています。
同巻十二・承和九年(844)十月壬戌条では従五位下の神階奉授。
「日本三代実録」巻第五・清和天皇貞観三年(861)八月三日条には従四位下の神階奉授の記載があります。
延喜五年(905)奏進の「延喜式」巻十では越後国で唯一名神大社と記載され、また越後の一宮として朝廷から篤い尊崇を受けました。
神馬舎の先に「舞殿」があります。
八世紀頃成立した我が国最古の歌集「万葉集」巻十六には、伊夜日子大神様の神々しさを詠った二首が納められています。
「いやひこ おのれ神さび 青雲の 棚引く日すら こさめそぼふる」
「いやひこ 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮服着て 角つきながら」
舞殿の先に「摂社・末社」群があります。
摂社・末社群入口の門と狛犬さん
彌彦神社は、鎌倉時代以降、源頼朝が三千貫の神領を寄進。
南北朝時代には後醍醐天皇が「正宮位大明神」の宸筆の勅額を御奉納されています。
室町時代の作と伝えられる境内の絵図には、丹塗りの壮麗な社殿群が描かれ、当時の繁栄ぶりが偲ばれます。
建ち並ぶ摂社・末社群
応仁の乱が地方にも波及すると、社殿をはじめ御鎮座以来の記録・宝物の多くが焼失、神領も押領されるなど一時疲弊しました。
その後、越後を領有した上杉家が三千二百石余の神領を寄進し、社殿を修造・退転した神事の復興をはかりました。
しかし上杉家の会津移封に端を発する越後国内の騒擾から再び神領のほとんどを失いました。
摂社・末社群の一番端に、国指定重要文化財「十柱神社」があります。
江戸時代に入ると、徳川家康からの社殿修理料三百両の奉納をはじめ、三代将軍徳川家光以降歴代将軍による朱印地五百石の安堵、元禄十六年(1703)五代将軍徳川綱吉寄進の社殿修繕が完成しています。
摂社・末社群の先に「随神門」が見えてきました。
左右の随神木像
「ずいしん」は、一般に「随身」と書きますが、彌彦神社では伝統的に「随神」と表記しています。
右側が大神様の宮居を警護する長気(おさげ)、左側が長邊(おさべ)の兄弟神です。
随神の後ろ側の狛犬さん
彌彦神社は、明治四年(1871)五月に国幣中社に列格しました。
明治十一年(1878)九月十一日には明治天皇の御親拝を仰ぎ奉りました。
明治四十五年(1912)三月十一日、門前町で発生した大火に罹災し、善美を極めた御本殿以下の社殿が烏有に帰しました。
越後一宮の焼失は当時非常に大きな衝撃を与え、県内はもとより遠く海外からも復興への志が寄せられ、大正五年(1916)、旧に倍する荘厳且つ壮大なる社殿が再建されました。
右側に抜けると御神札授与や御朱印記帳を行う社務所があります。
彌彦神社は、昭和二十一年(1946)、多くの神社とともに神社本庁包括下となりました。
昭和四十七年(1972)五月二十三日には昭和天皇・香淳皇后の御親拝を仰ぎ奉りました。
同五十六年(1981)には皇太子同妃両殿下の御参拝を仰ぎ奉りました。
翌五十七年(1982)には上越新幹線開通を記念して大鳥居が奉建されました。
(「彌彦神社公式サイト」参照)
※写真は平成三十年(2018)八月二十五日に撮影したものです。
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