小坂諏訪神社(長瀞町野上下郷)
☆☆☆
小坂諏訪神社
御祭神 健御名方神
鎮座地 埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷467
神社入口社号標と鳥居
由緒
正和元年(1312)阿仁和兵助橘基保が仲山城を築き当地を支配した時、基保が常に厚い信仰をささげていた信州一之宮の諏訪大明神の分霊を勧請して、ここに祀ったのが始まりと伝えられています。
狛犬さん
基保が没してから後は、鉢形城主北条氏邦が当社を厚く崇敬し、拝殿や神楽殿を造営、神域を拡張して当地方の総鎮守としましたが、北条氏の滅亡とともに社殿の修理等も行われないまま衰微しました。
豊かな森林を背景に建つ社殿
その後、弘化元年(1844)に、西光寺法印が広く浄財を募り、社殿を再建し、現在に至っています。
(境内案内板より)
長瀞町野上下郷は、荒川が北流して秩父盆地を抜ける手前の左岸に南面する扇状地で、地名を小坂と称し、諏訪神社はその坂上に鎮座しています。
国指定重要文化財「野上下郷石塔婆」
神社の南東、直線で約720mのT字路を、国道140号彩甲斐街道から町道に入ると、国指定重要文化財「野上下郷石塔婆」があります。
野上下郷板石塔婆は、台上高約5.37m、幅約1m、厚さ13cmあり、現存する青石板塔婆としては日本一の大きさです。
大和国阿仁和庄の住人阿仁和兵助橘基保は、観音のお告げによりその地を離れ当地の小坂に仲山城を構え上州金山新田氏に仕えたといいます。
基保は仲山城大手門筋に信州一之宮諏訪大明神を勧請しました。
基保の子兵衛直家は元弘元年(1331)府中六所宮の娘を娶るも、父基保が建武二年(1335)に歿し、直家が城主になりましたが、那賀郡秋山城(現本庄市)の腰元に懸想したため秋山氏と不仲となり、遂に延文二年(1357)二月二十一日討ち死にしました。
奥方は弥陀の御告げにて難を逃れ、縁ある能登の時国家へと落ちて行きました。
手水舎
直家十三回忌に当たる応安二年(1369)十月、比久尼となった奥方と諸衆三十五人がこの地を訪れ、「野上下郷石塔婆」となる供養塔を建立したと「信仰利生鏡」に伝わっています。
その後、鉢形北条氏が厚く信仰し、神域も拡張され小坂の鎮守となりました。
境内の様子
現社殿は弘化元年(1844)別当西光寺住僧が発願し広く浄財を勧化、再建された社殿です。
本殿はじめ拝殿には彫物がよく施され、拝殿の欄間彫刻には二十四孝のうち六面の彫刻が施されています。
(サイト「埼玉県の神社」参照)
「二十四孝(にじゅうしこう)」は、中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物二十四人を取り上げた書物で、元の時代(1271~1368)に編纂されたもので、日本では江戸時代に翻訳され、神社仏閣等の建築物に人物図などが描かれたり、寺子屋での教材として使用されたりしました。
小坂諏訪神社の拝殿欄間彫刻は右壁面から
一、楊香(ようこう)
十四歳の楊香が、父親と田を耕しに出かけた時、山道で虎が現れ二人を襲いました。
楊香は虎が去るようにと願いましたが叶わず、それならば「天の神よ、どうか私だけを食べて、父は助かりますように」と、虎の前に身を投じました。
すると、それまで猛り狂っていた虎が逃げ去り、父子共に命が助かったという物語です。
二、郭巨(かくきょ)
郭巨は貧しいながらも、母と妻を養っていました。
妻に子供が産まれ三歳になったとき、郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていました。
恐らく旱魃などの影響もあったでしょう、日々の食事も十分に摂れない状況下で母が孫に自分の食事を分け与えている姿を見て、郭巨は妻に「夫婦であれば子供はまた授かるだろう、母親は一人しか居ない。その母親に孝を尽くしたい。ここはこの子を埋めて母を養おう」と申し出ました。
妻は悲嘆に暮れましたが夫に同意しました。
郭巨が涙を流しながら地面を少し掘ると、黄金の釜が出て、「孝行な郭巨に天からこれを与える。他人は盗ってはいけない」と記されていました。
郭巨と妻は黄金の釜を見て喜び、子供と一緒に家に帰って、さらに母に孝行を尽くしたという物語です。
正面右側
三、郯子(たんし)
郯子には年老いた両親がいて、眼を患っていました。
鹿の乳が眼の薬になると聞いた両親は、郯子に欲しいと願いました。
郯子は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入り、鹿の乳を得ようとしたとき、猟師が本物の鹿と間違えて郯子を射ようとしました。
気付いた郯子は「親の願いの眼病の薬である鹿の乳を集めるために鹿の格好をしているのです」と声を上げ、猟師も寸前で気付きました。
郯子の孝行の志が篤かったので射られる事なく帰ることができ、親孝行をすることが出来たという物語です。
正面左側
四、老莱子(ろうらいし)
老萊子は、両親に孝養を尽くし仕えた人です。
老萊子は七十歳になっても、身体に派手な着物を着て、子供の格好になって遊び、子供のように愚かな振る舞いをし、また親のために食事を運ぶ時もわざと転んで子供が泣くように泣いて見せました。
両親も老いたことを忘れ、笑顔を見せていました。
自分が年老いた姿を、更に老いている両親には見せないようにするという心掛けは、自分の親を見て、「衰えた、呆けた」と思って対応してしまう現代人に、一つの考えを示す物語です。
左壁面には
五、舜(しゅん)
舜は大変孝行な人でした。
父は頑固者で、母はひねくれ者、弟は奢った態度の者でしたが、舜は家族にひたすら孝行を続けました。
舜が田を耕しに行くと象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けました。
その時の天子である堯王は、舜の孝行な心に感心し、「孝行の深い心の者にこそ国を任せられる」と、娘を娶らせ天子の座を舜に譲ったという物語です。
六、孟宗(もうそう)
孟宗は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていました。
病気になった母は、ある冬に筍が食べたいと言いました。
孟宗は竹林に行きましたが、冬に筍があるはずもなく、孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘りました。
すると、あっと言う間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来ました。
孟宗は大変喜び、筍を採って帰り、熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて、そして天寿を全うしたという物語です。
右脇障子は「盧敖仙人」
盧敖仙人は三尺ほどの亀に乗っていました。
その亀は三千年に一度頭を出すのですが、ある人が「今までに何回出したか」と尋ねると、盧敖仙人は「五回出したよ」と答えました。
つまり盧敖仙人は一万年以上生きていたことになります。
左脇障子は「林和靖」
林和靖は中国宋の時代、隠遁して西湖の畔に住み、妻を娶らず梅を植え、子のかわりに鶴を飼い、船を湖に浮かべて清らかに風雅に暮らしたという人物です。
向拝柱頭貫上には「玉巵弾琴」
玉巵(ぎょくし)は西王母の末娘で、彼女が一弦琴を弾くと多くの鳥が集まり、また時には白龍に乗り四海を周遊したといわれています。
拝殿外壁の見事な木彫の彩色は、本庄第一高等学校(本庄市仁手)美術部の部員たちが、平成二十七年(2015)から約五年の歳月をかけて修復を行ったものです。
(「本庄経済新聞」記事より)
社殿左側境内に社日塔、恵比須像、境内社
二十四孝の物語は、現在の豊かな日本に住む私たちから見れば、そんな事はあり得ないと思えるお話しばかりですが、社殿に彫刻されたのが短く見ても江戸後期だったとして、その当時の社会情勢や、人々の未来に向けた夢が垣間見えるようです。
恵比須さま
神社境内が子どもたちの最も安全な遊び場だった時代、学校教育も無かったでしょうから、農作業の合間に子どもたちに、立派な彫刻を指さして物語を教える親の姿が、子どもたちの豊かな心を育んでいたのだと思います。
社殿右側の末社石祠にも側面に龍の彫刻が施されています。
現代になり、社殿の立派な彫刻の色彩修復を行なったのは、歴史専門家でもなく、彫刻専門家でもなく、歴史建造物修理業者でもなく、志ある教員に導かれた一般高校生たちです。
修復に携わった美術部員たちは、「この色彩はオレたちが修復したんだぜ」って、誇りにして一生自慢にしていいし、その誇りを次の世代にも伝えていけたら、とても素晴らしい事だと思います。
(個人的な感想です)
※写真は令和三年(2021)十一月二日に撮影したものです。