「いず松蔭」さんでお昼を食べた後~
お店から一筋先 (大川端通り) に出てみると 漁船が並んでいました。/ ここは稲生沢川(イノウザワガワ)の河口、で 穏やかな良い船溜まり、なんですね。
(↑下流側を見てます)
↓北(川上側)を見ると 寝姿山。
↑角度によってまるで違う顔になる 寝姿山、面白い^^)
近くにあったお稲荷さん。
↑なぜか敷地に「斜め」に建っていた祠。(南東を向いてました) どんな謂れが?
さて街歩きに出発。
散策-1、の折 「アケゴコロ」の 土藤商店さんで飴を二袋買ったのは この時。
(↑街中スタンプラリー! 興味あった~、でも時間は無かったー・・・)
えー この後は了仙寺隣の黒船ミュージアム(Museum of Black Ship)を目指しましたが、
休館日だったので^^;)))
MAPを眺めながら ちょっと考えてー
(↑このMAPは下が北、です)
史跡、を探しながら歩く事に。/ あ、下田開国博物館は前回(十数年昔)に行っているので 選択肢から外してますー。
「欠乏所(ケツボウショ) 跡」
欠乏所って?
これは 下田に入港してきた外国船に対して「欠乏品」を供給する所、だそう。欠乏品というのは 食料 水 薪などが想定されていましたが 実際は外国の船員からは日本のお土産品などが求められ 事実上「交易所」となった~ そうです。
_という訳で「貿易所跡 平野屋」というお店が建つ場所、でもあったのでしたー。
で平野屋さんはー
お食事処、をなさってましたー。(後で 店内に「欠乏所の模型」があった、と知り 「伺ってみればよかったかな」と思ったのですが この時はお昼を食べたばかり で飲食店に入る気持ちにはなれなかったのでございますー)))
この後行ったのは、安直楼(アンチョクロウ)。
↑「唐人お吉」が営んでいた小料理屋跡、だそう。 お吉が店を出したのは明治15年。(後で訪ねた記念館の年表によるとわずか2年程で店をたたんでいます・・・) 明治23年彼女が亡くなると 建屋はお寿司屋さんが所有され 以降三代108年続くお店となった~ そう。// お吉さんについては 気の毒な人生を送った人 と思っていましたがー
↓お店は思いのほかに立派でしたー・・・。
続いて_
「松本旅館」
↑松のロゴが「いいね!」。
それから 前日素通りした
宝福寺へ。
ここは ↑下田の「仮奉行所」だったり 「神子元島(ミコモトシマ)灯台建設技師 異人宿舎」だったりした場所で ↓龍馬にも縁ある場所 (宝福寺に投宿していた土佐藩主;山内容堂に 当時龍馬をかくまっていた海舟が謁見し 龍馬の脱藩の罪を許してくれるよう直談判した~)、 なんですね?
隣接する~「唐人お吉記念館」へも入館してみました。
↑奥の写真は「19歳のお吉?」と言われている美少女の写真。(実際には どうやら別人 のようですがー)
さて、17歳の時 「支度金25両、月給10両」でハリスの「看護人」となったお吉ですが・・・事実 としては意外にも「三日で解雇」されており(何があったのだろうー?) 再雇用を申請するも認められず、、、 後釜の「看護人」には さよ という女性が雇われています・・・。 (お吉については 事実 と 伝わっている話 の間にかなりの「へだたり」がありそうー。もしかして本人もそれに苦しんだ???)
がともかく_彼女が時代に翻弄された幸薄い人 というのは間違いない事で 48で川に身を投げるも亡骸の引き取り手がなかったー と といいます。 それをここ宝福寺の住職が埋葬してあげたそうで、 私達も墓所にお参りしましたよー。
で、この後は電車(サフィール!)で次の宿泊地 伊豆高原へ向かった、のでしたー。/つづく
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宝福寺の「異人宿舎」にいた「灯台建設技師」は_「江戸条約」によって建てられる事になった 神子元島(ミコモトシマ)灯台 の建設指揮をとった「日本の灯台の父」と言われる スコットランド人技師ブラントン達のようですね。(ブラントンは26歳の時 妻子を伴って日本に来ています。神子元島灯台の着工は1869年、竣工は1871年ですから 下田には28~31歳の頃滞在していた事になりましょうか? / ブラントンさん、ちょっと覚えておかねば、な御仁 ですね^^)