唐招提寺(トウショウダイジ) | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

ちょっと間があいてしまいましたが_
暮の奈良の旅の続き、です。

旅館三笠で一泊した後は 近鉄線で唐招提寺へ行ってみました。




唐招提寺は、いうまでもなく 奈良の朝廷が唐から招聘した僧:鑑真(ガンジン 生688-来日754-没763) さんが天平宝字3年(759年)に開山なさったお寺。(因みに招提は寺や院を意味する言葉だそうですからザっと 唐院寺 みたいな感じ?)

伽藍の完成は 鑑真さんの弟子 孫弟子の時代までかかったそうですが、 いずれにしても 古く そして由緒あるお寺、ですね。

門を潜るとやがて現れる金堂(国宝)。





シンプルで美しい・・・。

水盤から滴る水で手を清めます。


水盤の向こうには 元は経蔵だったろうと言われる鼓楼(国宝)。/金堂の後ろに建つのは講堂(国宝)。

鼓楼の東の礼堂(ライドウ)。

開山堂。

(↑鑑真和上像のレプリカが置かれてました)
本物の鑑真和上像(国宝)は? と思ったら
すぐその北の この御影堂に、との事。


(↑旧興福寺一乗院門跡の建物を移築復元したもの、だそうです)

鑑真さんが眠る御廟へ行ってみましょう。

塀に設けられた簡素な潜り戸を抜けるとー

苔の庭が。

そしてその先に堀を持つ・・・ いや池の中の島というべき、かな?  鑑真さんのお墓がありました。


招聘に応えて海を渡ろうとなさるも 度重なる難儀で 日本に来られた時にはすでに視力を失っておられたという鑑真和上_ お蔭様で日本には平和と秩序を貴ぶ教えがしっかりと根付きました、ありがとうございました。ございました。どうぞ安らかに。(合掌)

↓お墓を囲む池

↑カルガモが沢山いて 参詣者を和ませてました^^)
御廟を後にしー

開山堂を行き過ぎたあたり_ 講堂の裏に小さな社がありました。

MAPには河梨帝母社 って載ってるんですが河梨帝母って?昔の帝(ミカド)のお母さんかなー? と思ったら、これは梵語のHārītīに河梨帝 という漢字を当てはめたもので 鬼子母神の事だそうです。
へー と思ったけれど 鬼子母神の社がなぜここにあるのか はわかりませんでしたー。(わかったら打ち足しますね)

道なりに行くと(西へ向かってます)

藤棚の向こうに 柵で囲われた井戸がありました。


醍醐井戸 だそうです。八枚の石の板で囲われた井戸_。お寺の主水源だったのかな?


井戸からは 方向を変え、南へ歩いて行きます。


この塀の向こうが戒壇(カイダン)、です。

↑夏はきっと水連か蓮華が咲くのでしょうね。
↓東側から見た 戒壇。

階段ピラミッド状の施設の上に宝塔が載っています。


戒壇の南側へ回ります。


南の正面から見た戒壇。

戒壇というのは僧となるための授戒が行われる場所。鑑真は実にこのため_ 仏教を学ぶ日本人に僧としての戒律を授けるため、に来日したのですね。
この石段は創建当時の物と考えられているそうです。再興されたが焼失した、という記録があるので元々は柱や屋根を持つ建屋だったのでしょう。が。
この形、のままというのも又良い、と思います。 岡山の熊山遺跡、奈良市内高畑町の頭塔、堺市の土塔との比較も面白いと思いますし。
ただ_
てっぺんに載ってる宝塔はちょっといただけないかなあー・・・。1980年に、インドのサーンチーの「アショカ王のストゥーパ」をお手本にしたというあの宝塔が設置された、そうなのですけどー。。。(創建当時の姿に近づけての事、でなら良いと思いますがー)

が 現役建屋のほとんどが国宝や重文という境内はやはり素晴らしかった。

人間が作った物に 永遠 は無いけれど、どうぞできるだけ長くこの姿が留められますように、と 思った事です。


続いては すぐ南の薬師寺を訪ねました。

_つづく