著者の荒井裕樹さんの執筆の出発点は、
日本社会をむしばむ「言葉の壊れ」への危機感だった。
SNS上で、社会的に弱い立場の人に向けられる憎悪。
重みと責任を失った政治家の発言。
負の力に満ちた言葉、人の心を削る言葉、息苦しい言葉が溢れる時代に、もどかしさを感じながら執筆した。
3刷8000部。この分野の本では、異例の売れ行きだ。
言葉には、「降り積もる」という性質がある。
言葉の蓄積が、価値観を作る。
SNSの影響で「言葉の蓄積」と「価値観の形成」が加速度を増してきた。それを誰もが仕掛けることが出来る。
「誰かを黙らせるための言葉」が降り積もれば、「生きづらさを抱えた人」を黙らせる「圧力」となる。圧力を高めてはいけない。
「がんばれ」「負けるな」「大丈夫」…人を励ます言葉の代表格。
だが、日本語では「激励」と「叱咤」はコインの裏表。
励ましたつもりが、時と場合によって、人を叱る言葉や、人と距離をとる言葉に姿を変える。
東日本大震災のあと、「ひとりじゃない」という言葉が聞かれた。それも使い方次第で「苦しいのはあなただけじゃない」からガマンしようという
意味になりえてしまう。
「期待」という言葉には、純粋な思いを託しただけでなく、多かれ少なかれ見返りを求める気持ちが混じる。
「希待」という造語がある。人間の可能性を無条件に信頼しようという姿勢が込められている。いまは悩んでもいいよと寄り添う意味が込められている。
著者の荒井さんが、危ない遊びをしている子どもに注意したら「別にいいよ。怪我しても自己責任だから」と言われ、少なからず驚いたことがある。「自己責任」という言葉が、子どもの世界でもまかり通っている。
病気になるのも、貧困になるのも、老後の蓄えがないのも、みんな「自己責任」。
「自己責任」が人を黙らせる言葉になり、他人の痛みへの想像力を削いでしまう言葉になっている。特に最近、社会に蔓延している「自粛」「緊縮」という風潮が拍車をかけている。
荒井さんは、「自己責任という言葉で、理不尽な目にあっていることを何とも思わない社会を次世代に引き継ぎたくない」という。言葉には、受け止める人、耳を傾ける人が必要だ。
言葉というものを、責任逃れのために、虚像を膨らませるために、敵を作り上げて憂さを晴らすために、誰かを威圧して黙らせるために使われ続けたらどうなるのだろう。多くの人が言葉を諦め、言葉を軽んじ続けたら、世界はどうなるのだろう。
この社会は「安易な要約主義」に走っているような気がしてならない。
速く、短く、わかりやすく、白黒つけて、敵味方区別して、感情の整理して…。
パンデミックや災害は、人間を数字に置き換える。死亡者、陽性確認者などの数字化は「究極の要約」かもしれない。「人間を数値化すれば世界を理解したことになる」という過信は恐ろしいことだ。
「うまく言葉でまとめられないものの尊さ」を大事にしたい。
「まとまらない」愛おしさが、涼しい顔して、ちょこんと座っていられる世界でありますように…。そう荒井さんは、この本を締めくくっている。