ゲームデザインエクセレント
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◆進化論からの仮説

ホイジンガの時代とは異なり、現代では「遊び」も社会的な重要テーマとして扱われます。文脈によっては「人間の精神がもたらす高度な喜びである」などと持ち上げられたりしますが、実際のところ、人間だけのものではありません。野生動物のコドモが遊んでいる姿はテレビの自然番組でよく見かけますし、犬や猫なら、成獣になっても遊びが好きです。私たちの大先祖も、そうした「遊び好きの野生のサル」だったことは、想像に難くありません。その意味で「遊びが文明よりも先」というホイジンガの主張は、言われてみれば当然ですね。


  ラフ・コスターは著書『「おもしろい」のゲームデザイン』(オライリー・ジャパン、2005)の中で、「動物にとっての遊びは、生きていくための練習である」という視点を提示しています。そして、人間の遊びもまた進化の過程の中で獲得してきたものとの視点に立って、ゲームにおける面白さを論じています。


  文明の発展した今ではイメージしにくい面がありますが、ヒトは本来狩猟動物です。ただ、食肉目などとは異なり、それほど高度な身体能力を持っているわけではありません。そこで、持っている要素でなし得る独特の狩猟手段がとられました。


  具体的には、頭脳戦・集団戦が基本になります。例えばマンモス狩りをする場合、サーベルタイガーなら「においで探し出し、鋭い牙で噛みつく」となりますが、人間は違います。移動時期やルートなど、さまざまな予測を行って獲物を見つけます。また、落とし穴などの罠も用意しておきます。その上で、獲物の群から一頭を孤立させ、罠に追い込んで動けなくしておいてから、石を投げるなどして仕留めるのです。たくさんの個体がいろいろな役割で参加してこの狩りを行います。


 このような狩猟を行うための能力は、200万年ぐらいの人類史を通じて高められていきました。ダーウィン原理=「有利な特性を持った個体の生存確率は高くなり、繁殖成功率の向上に繋がる結果、種内でのその特性の存在比率が大きくなっていく」が働くためです。ではそれは、具体的にどのような能力なのでしょうか。


  勇気や攻撃心などの個人的な資質は、(全員にではないものの)不可欠です。また、道具を使いこなしたり罠をこしらえたりするためには、器用さも欠かせません。


  そして、推理力。獲物を探すためには、これが重要です。残された痕跡から獲物の種類や規模そして今いる場所を推測したりすることが、ハンティングには重要になるからです。季節や天測などの情報の重要さも考えると、推理の前提となる知識の獲得それ自体も重要な能力となるでしょう。


  複雑な作業の連携のためには、コミュニケーション能力が不可欠になります。特に全体を統括するリーダーには、人を率いていく力が必要です。これが乏しいリーダーしかいない群れは、生存競争に勝つことはできないでしょう。


  このような知見にたったうえで、ゲームを考えて見ましょう。すると、それがまるで野生動物のコドモたちと変わらないように、見えてこないでしょうか。


  動物にとっての遊びは、「生き抜くための練習」です。ライオンのコドモが食べる気もないのに昆虫などを追いかけたりしますが、それを通じて将来の狩りに備えているわけです。その目的は学習でしょうが、赤ちゃんの場合同様、動機は「楽しいから」に尽きます。


  ゲームには、いろいろな種類があります。一つ一つを見ても、狩猟生物たる人間にとっての「生きるための練習」だといえるでしょう。戦略シミュレーションなどの分野も、集団で狩りをする社会的な動物としての人間にとって、リーダーであることを模擬体験できる、またとない遊びなのです。


 また、他の動物との違いとして特に指摘できるのが、「情報」との関わりです。生き物全体にとって、情報は具体的な行動を起こすための前提として重要なものですが、人間にとってのそれは単なる動因であることを超え、あたかも独立した実在であるかのように扱うものとなりました。


  例えば、私たちは他人から話を聞くだけでも、その情景を思い浮かべることができます。これは、古老の経験談などを聞いて参加していない狩猟を"経験"するのに役立ったでしょう。その代償として騙されやすさも身に着けてしまいましたが、それがもたらすメリットはデメリットよりも大きかったため、ダーウィン原理によって私たちの性質に組み込まれることになりました。


  ここにいたると、フィクションというもの全体が、進化論の結果もたらされたものであるということができます。

◆山田の"快感空間理論"

 ここまでは先人の説を紹介してきましたが、ここでオリジナルの考えを述べさせていただきましょう。私が自分で「快感空間理論」と名付けているものです。


 まず、「楽しい」について確実に言えることがあります。心の作用だということです。ある刺激を受けた場合、刺激そのものは物理量として存在しますが、それは直接「楽しい」を導くわけではありません。心の中に「楽しい」を感じる何かがあって、それとの関係で生じてくるはずなのです。


  よく似た別のものとして、食べ物で例えてみましょう。味は、本来なら「食品の持つ、化学的状態」です。味覚受容細胞の反応という意味では、5つの基本=甘味・酸味・塩味・苦味・旨味に分けることができるもので、それが混じり合うことで特定の味となってきます。実際には、辛い・渋いなどの物理的刺激も重なるためもう少しの幅がありますが、だいたい10種類ぐらいのパラメータを想定すれば、味を数値的に指定することができるでしょう。


  ただ、それを舌で受け取ったとしても、その時点では単なる情報にすぎません。他とは違う特定の何かを感じるのは脳の作用であり、それを「うまい」という形で快感に置き換えるのは心の働きです。そして、どんな化学的状態を快感に感じるのかは、その人によって違いがあります。例えば納豆は、私にとっては「うまい食べ物」ですが、そもそも食べ物として認識できない人にとっては「腐った豆」という化学的状態そのものに過ぎないといえます。また、ある程度の経験を積まないことには、うまいと感じられない食べ物もあります。幼い子供にとって、ウニ、牡蠣、カワハギの肝といったものは、うまいまずい以前に「気持ち悪い」に過ぎません。


  ともあれ、味覚のパラメータを10種類とすれば、味は10次元空間のどこかにプロットされる座標として表現できることになります。そして、食べ物は単独の味だけで構成されていることはあり得ないので、集合的に表現されるものとなるでしょう。つまり、「味空間内に存在する幾何(空間)ベクトル」と捉えるべきものです。ただ、化学量・物理量としての「味」と心理量ともいうべき「旨い」は、同じではありません。人間の心理にも「旨さ」のパラメータがいくらかあり、「旨さ空間」は「味空間」と密接に関係しながらも、独自の広がりを持っているのです。


 で、ゲームの場合です。


  ゲームの楽しさは、味覚のような、感覚細胞に由来する状態はありません。しかし、心の作用として「楽しい」をもたらすという点では、食べ物のおいしさと同様のことがいえるでしょう。「面白い」を感じるための基本となるパラメータが何種類もあり、特定の「面白さ」は、その空間の任意の点を占める座標であるということです。これは「頭の中に快感空間が広がっている」と捉えることもできます。そして、食べ物が味空間内においてそうであるように、ゲームも「快感空間内に存在する幾何ベクトル」と捉えられるでしょう。


  このベクトルは、刺激として働きます。全く未知のベクトルは刺激を強く感じてしまいます。基本的に警戒心を持ってしまうため、プレイヤーはある程度似通ったベクトルを好む傾向があります(1)。とはいえ、同じ刺激ばかりを繰り返し受けていると、だんだん感覚が鈍っていって、あまり反応しなくなります(2)。そして新しいベクトルも、その強い刺激自体は本質的に快感である可能性が高いわけで、何かのきっかけから受け入れるようにもなります(3)。


  これが、だいたい好みのジャンルがある理由(1)であり、同じゲームばかりやっていると飽きてしまう理由(2)であり、新しいジャンルを開拓していく理由(3)です。また、単にデータを差し替えただけのゲームをやっても新作として楽しむことが難しい理由も、ここにあります。それは、空間上の位置は別の場所かも知れませんが、ベクトルとしては同じになってしまうのです。


  さて、快感空間は、経験と共に発展してきます。「旨さ」における珍味類と同じようなものです。これは、面白さを表すための変数が増えたということです。


  初めてゲームに触れたとき、今から思えば他愛のないものでも、すごく面白く感じられました。極端な話、テレビ画面上のキャラクターが自分の操作で動くというただそれだけで楽しかったのです。しかし、少し進めていくと、スコアや面クリアなど、成果が出ないと楽しさが感じられなくなります。やがて、ビジュアルやサウンドへの注文、ストーリーラインへの期待、ソフトウェアとしてのパフォーマンス、実にたくさんの「面白い」パラメータが増えていき続けることになります。


◆ アップル流のユーザー観

 ここまで「遊び」一般を論じてきましたが、話をゲームに限定すると、「なぜ楽しいのか」という問いかけは、また別の意味も帯びてきます。例えば、こんな説教をされた経験はないでしょうか。

    「なんで君たちはゲームをするのだ。
     そんな時間とエネルギーがあるんだったら、
     ***をすればいいではないか!」


  何かをゲーム化した場合、結果的に元となるその"何か"とはかけ離れたものになってしまうことがあります。典型例は、スポーツゲーム。野球・サッカー・テニスと、さまざまな人気スポーツはゲームにおいても重要カテゴリーですが、プレイヤーが実際にしていることはテレビの前でパッドを握ってるだけ。「そんなことやってるんなら、外に出てサッカーボールでも蹴って来い!」といいたくなる人の気持ちも、込められている意味(=ゲームはスポーツよりも低級な遊び)の不当さはさておき、わからなくはないですね。でも実は小さくない問題提起です。
  例えばRPG。「剣と魔法の世界で、戦いを通じて成長し、冒険する」と称していますが、実際にやっていることは「コマンドの選択を繰り返して変数の演算処理を実行」の連続です。戦闘も多くはターン制で、自分のコマンド選択が終わるまで、時間は静止している状態。戦闘の舞台も、狭いはずのダンジョンにドラゴン数匹がいたりとか、ありえない設定になっています。こんなものに、なぜ私たちは熱中できるのでしょうか。
  ターン制という点では、タクティカルシミュレーションも同じです。「司令官になって軍隊を動かし、戦争を遂行」というのですが、しょせんは「大規模・複雑化しただけの将棋」といえそうです。敵の全部隊が移動し終わるのをじっと待っている軍隊というのは、現実的ではありませんね。また、変数の処理という点は、恋愛シミュレーションゲームも同じでしょう。そしてこのカテゴリーの場合、「絵で描かれただけの女の子を恋愛感情の対象にして、何が楽しいの?」という、アニメブーム以来40年近くも繰り返されてきた嘲笑交じりの問いかけが、形を変えて出現してくるのです。


 今回の冒頭に掲げた短文の引用元は、アップル社によるソフトウェア開発者向けの文書です。
  元々コンピュータは「訓練を受けた者が使う」と考えられていた道具です。80年代になって個人用(=パソコン)が登場しても基本的に違いはなく、マニュアルや技術書をしっかり読んで理解していることが、ユーザー像として想定されていました。しかし現実には、そんな人ばかりではなく、16ビット機の時代を迎えた80年代前半には、パソコン="勉強しないと使えない、マニア的な道具"という常識が形成されていました。その状況でアップルは、誰にでも自然に使える道具として、GUIを本格的に取り入れたパソコン、"Mac"こと『マッキントッシュ』を発売します《*2》。そして、Mac上で動作するソフトウェアのインターフェイスを統一するため、プログラマたちに、具体的なユーザーモデルとそれに基づく設計思想を、ガイドラインとして伝えたのです。
  そこで論じられているユーザー像は、ユーザーインターフェイスのデザインという技術的なテーマに基づいてはいるものの、それを超えた普遍性を持っています。特に、次のような考察は、注目に値します。


   ○人間には環境をコントロールしたいという欲求がある
    ○人間は、自分の行為を掌握することを欲している。
   ○人間は、記号や抽象表現が得意である


  つまり、接していて快適である環境は「把握可能な水準でモデル化された、記号化・抽象化されたシステム」ということになるでしょう。これが意味するものは、現実世界との対比で考えるとはっきりしてきます。現実世界は、ありのままのシステムです。把握不可能な規模と複雑性を持ち、原因と結果の関係は予測困難です。このような場で暮らしていくことに、私たちはストレスを感じます。そこで、自分の関わる範囲を狭く限定したり、あるいは現実を抽象的に理解したりして、自身の望むものとの間に折り合いを付けていくのです。
  逆に言えば、ドラクエ世界が楽しい場所である理由は、最初からそうなっていることに求められます。同じファンタジーRPGでも、例えば『オブリビオン』の世界であれば、かなり現実に近いことになってしまいます。プレイヤーには極端なまでの自由が与えられ、世界は多様で、目的性もあるわけではありません。その環境下でのプレイは、基本的にストレスです。チャレンジングな状況を常に追い求めているアスリートタイプの人にとってはストレスこそ喜びでしょうが、一般人はそうではありません。ゆえに一般人をプレイヤーとして意識する場合、世界は適切にデザインされなければならないのです。

◆ 発達心理学からの考え方

 ホイジンガやカイヨワの立ち位置には、遊びという概念を人類史の中にどう位置づけていくかという視点があるようです。しかし私たちには大きすぎますね。さしあたり、個人史の中で考えてみましょう。
  まずいえるのは、カイヨワ流の4分類は、ある程度成長してから出ないと当てはまらないということ。子供の頃にはそういった諸要素は渾然一体になっていて、「この欲求に対してこれ」というようにすっきりとは分けられません。そもそも、話のスタート地点にあった「『遊び』vs『仕事』」という二項対立が、意味をなしません。カイヨワも戦前に高等教育を受けた人なので、人間を論じるにあたって「文明国の成人男子」だけを前提視してしまう近代西洋思想の悪癖から、無縁ではいられなかったのかもしれません。
  では、個人史的にさかのぼってみると、どんなことが言えるでしょうか。自分自身の記憶は誰にとっても幼児までですが、観察による推測が許されるのなら、もっと先まで進めます。そして、赤ちゃんもまた遊んでいるのだということに気づくでしょう。赤ちゃんの行動は、かなり"むだなこと"に費やされています。例えば何かがあれば触ってみて、掴んでからなめたりしゃぶったりします。実はこれは、得られる身体感覚において気持ちのいいものと不快なものとを判別し前者を蓄積していくというフィードバックループを形成しているわけで、むだに見えてそうではありません。結果だけを捉えれば「学習」ですが、その過程はまさに遊びといっていいものです。
  「なぜ遊ぶのか」という理由は、この場合は明確ですね。赤ちゃんである以上、身体感覚的な快感以外にありません。
  以後、成長につれて、できることも幅広くなってきます。ボール状のものならいじったり投げたりしますし、棒っきれは振り回したりしてみたくなります。しかし、そうした身体感覚的な楽しみだけでは、長くは続きません。ボールや棒にしても、それを本来の形で使った遊びを求めるようになるでしょう。幼児期の後半になると野球ごっこになり、小学校入学ぐらいでは野球っぽい遊びになり、やがてちゃんとした野球へと進んでいく訳です。

 スイスの児童心理学者ジャン・ピアジェは、発達段階説というものを唱えました。子供の遊びに注目した上で、発達過程と結びつけて4段階に分けたのです。


●感覚的遊び 

感覚器官や運動能力と密着した遊び
赤ちゃんの発達の初期段階から登場する。


●機能的遊び 

おもちゃを使った遊び。
与えられたおもちゃの使い方を理解するところから始まる。


●象徴的遊び 

ごっこ遊びなど、何かを真似したり、
あるいは何かを別のものに見立てたりする遊び。


●社会的遊び

関係性や役割など、人間社会を反映した遊び。
ごっこ遊びが発展すればこれになるし、特に友だちとの遊びの中で出現する。



例えば赤ちゃんが積み木を投げたりしゃぶったりするのが感覚的遊びの段階です。やがて成長すると、同じ積み木でも、積みあげたり組み合わせたりといった積み木本来の使い方をするようになります。これが機能的遊びの段階です。さらに成長すると、象徴的遊びの段階に入ります。家なり城なりを組み上げ、人形を配置したりもするのです。そして、それら人形に、王様や兵士といったキャラクター性を与えるようになるのが、社会的遊びの段階です。
  なお、この考えは、「次の段階が、前の段階にとって変わる」といっているわけではありません。3歳ぐらいになれば、社会的遊びの段階に到達しますが、だからといって、象徴的遊びをしなくなってしまうというわけではないのです。

◆ ロジェ・カイヨワの4分類

「ホモ・ルーデンス」という言葉をご存じでしょうか。


人間の種としての学名は、"考えるヒト"を意味する「ホモ・サピエンス」です。ホモ・ルーデンスはこれをもじった言葉で、"遊ぶヒト"という意味になります。唱えたのは、20世紀前半に活動したオランダの歴史学者、ヨハン・ホイジンガ。それまで学術の分野ではあまり重要視されていなかった「遊び」を正面から肯定的に捉えた論考は、当時としては大きなインパクトを持っていました。《*1》


そして、この問題提起を受け継ぎ発展させたのが、ロジェ・カイヨワです。1958年に発表した『遊びと人間』の中で、その後大きな影響を与える理論を展開したのです。


カイヨワは、人類の遊びを「意志⇔脱意志」「ルール⇔脱ルール」という2つの軸でとらえました。そしてこれを直交させることで、4つの類型をみちびきました。


意志+ルールは、参加者がルールの下で明確な意志を持って参加する類型を言います。例えばチェスなどがそうですね。これを「アゴン」(競争)といいます。チェスなどのボードゲームの他、競技スポーツ一般がここに属します。


これに対し、ルールはあるものの、参加者の意志で進行するわけではない遊びの類型もあります。例えば、ギャンブル。「勝ちたい」という意志は皆共通ですが、結果はそうした意志とは関係ありません。一方で、ルールは妥協の余地なく厳密に適用されます。これを「アレア」(偶然)と呼びます。


一方、ルールの側が否定されるタイプの遊びもあります。例えば子供のごっこ遊びは、積極的な意志のもとで遊ばれるものの、勝敗は付きません。これを「ミミクリー」(模擬)と言います。おままごとなどが該当しますし、演劇もここに含まれます。


そして、意志とルールのどちらも否定される遊び。これらに対してカイヨワは「イリンクス」(めまい)という呼び名を与えました。ブランコからジェットコースターまで、たいへん大きなカテゴリーになってきます。


「ホモ・ルーデンス」という言葉をご存じでしょうか。
人間の種としての学名は、"考えるヒト"を意味する「ホモ・サピエンス」です。ホモ・ルーデンスはこれをもじった言葉で、"遊ぶヒト"という意味になります。唱えたのは、20世紀前半に活動したオランダの歴史学者、ヨハン・ホイジンガ。それまで学術の分野ではあまり重要視されていなかった「遊び」を正面から肯定的に捉えた論考は、当時としては大きなインパクトを持っていました。《*1》


そして、この問題提起を受け継ぎ発展させたのが、ロジェ・カイヨワです。1958年に発表した『遊びと人間』の中で、その後大きな影響を与える理論を展開したのです。


カイヨワは、人類の遊びを「意志⇔脱意志」「ルール⇔脱ルール」という2つの軸でとらえました。そしてこれを直交させることで、4つの類型をみちびきました。


意志+ルールは、参加者がルールの下で明確な意志を持って参加する類型を言います。例えばチェスなどがそうですね。これを「アゴン」(競争)といいます。チェスなどのボードゲームの他、競技スポーツ一般がここに属します。


これに対し、ルールはあるものの、参加者の意志で進行するわけではない遊びの類型もあります。例えば、ギャンブル。「勝ちたい」という意志は皆共通ですが、結果はそうした意志とは関係ありません。一方で、ルールは妥協の余地なく厳密に適用されます。これを「アレア」(偶然)と呼びます。


一方、ルールの側が否定されるタイプの遊びもあります。例えば子供のごっこ遊びは、積極的な意志のもとで遊ばれるものの、勝敗は付きません。これを「ミミクリー」(模擬)と言います。おままごとなどが該当しますし、演劇もここに含まれます。


そして、意志とルールのどちらも否定される遊び。これらに対してカイヨワは「イリンクス」(めまい)という呼び名を与えました。ブランコからジェットコースターまで、たいへん大きなカテゴリーになってきます。


ゲームデザインエクセレント
ホイジンガの考えの背景には、文明の考察があります。元来彼は古代や中世の文明を研究する歴史学者でした。文明には遊びがつきものですが、通常「文明の結果として」登場するものと思われていました。しかしホイジンガはここに疑問を持ち、文明よりも先に遊びがある=「遊びが文明を作る」という、それ以前の常識からは逆説としかいいようのないテーゼをうちたて、諸文明における遊びを論じていったのです。


一方、カイヨワの説の背景には、ある種の進歩思想があったようです。......従来の遊びはミミクリーとイリンクスの合一を中心としてきたが、これからはアゴンとアレアの合一が中心になるようにしていかなければならない、といったものです。


ただ、どちらの説も、提唱者の思惑を離れ、遊びを論じる文脈ではたいへん広範に引用されています。

◆ 人はなぜゲームをするのか

 "耳にタコができる"なんて慣用句がありますが、指にできるタコは現実の苦痛です。にもかかわらず、時として慣用句と同じような人生上の教訓をもたらしてくれます。
  かつて「ファミコンだこ」というものがありました。ファミコンのコントローラは、左側の十字キーで方向を入れますが、これに対応して親指の先がどんどん分厚くなってしまうのです。十字キーの真ん中には直径5ミリ程度のへこみがあり、ちょうどここだけ強く圧迫されて、最初はマメができます。痛いのを我慢して続けていると、立派なファミコンだこに成長するというわけです。
  上手いゲーマーは余計な力など入れないので、こんなものをくっつけてるのは、下手なくせにはまりこんでいるプレイヤーだけです。私もその口でした。指だけではなく、親指の付け根の腱まで激しい痛みに悩まされ、それでもやめられませんでした。我慢しつつゲームを続けていたのですが、時折我に返っては思ったものです。......"オレ、なんでこんなことをしてるんだろう"。


 さて、今回のテーマは「ゲームデザインの理論」です。といっても、そんなに高度な話をするわけではありません。昔からプレイヤーとして感じていた疑問=「なんでゲームは面白いのだろうか」について、関係するいろいろな説を紹介しながら、考えをあれこれと巡らしてみるだけです。
  実際、ゲームというものは、少なからぬ中毒性がありますね。私にとっては"ファミコンだこ"がそれを象徴する出来事だったわけですが、人それぞれに類した経験はあると思います。試験や課題の提出日が近づいているなどでもやめられなかったりとか。でも、学生ばかりの問題ではありません。80年代冒頭に"インベーダーブーム"というものがあったのですが、立派な社会人が喫茶店のテーブル筐体に百円玉を山積みにして、取り憑かれたようにプレイし続けている姿がよく見られたものです。ネットが発達した今の時代だと、破滅的にゲームを続ける人というのは、むしろ深刻化しているかもしれません。
  そうまで熱中してしまうほどの面白さは、なぜもたらされているのでしょうか。


 今回から第三部になります。これまでのパートに名前を付ければ、「第1部:導入編」「第2部:実践編」となるでしょうか。
  実はそれらの内容も、元々は私自身の疑問から始まっています。ゲームデザインとは何か、どんな仕事なのか、どうすればいいのか......そんな疑問を持ちながら、ゲーム屋への道を歩んできたのです。それらの疑問は実際の仕事を通じて解けたわけですが、「なぜ面白いのか」という面だけは、相変わらず謎として残っています。まとめに入っていく今回は、その謎へのアプローチです。
  明解な答えは出しづらいものですが、進めてみたいと思います。

第11回 ゲームデザインの理論

 Apple Desktop Unterfaceは、人間が生まれながらにして好奇心を持った存在であるということを前提としています。


 人間は記号や抽象表現に慣れ親しんでいます。そして、条件が揃えば創造的で芸術的な存在ともなり得ます。作業や生活の場がエンジョイでき、やりがいに満ちたものであれば、生産性や効率は非常に高くなります。


Apple Computer Inc「ヒューマン・インターフェイス・ガイドライン 日本語版」(1989年;星雲社)

【注釈】

*1 :ホモ・ルーデンス
 ホイジンガの著作『ホモ・ルーデンス』は、本国での刊行は1938年ですが、日本での翻訳版は、1965年に中公新書から発売されました。
  65年というのは、高度成長期まっさかりの頃で、「これからの時代、日本人はもっと余暇を持たなければならない」と官民あげての大号令がだされ、一気にレジャーブームが起こった時期でもあります。本書がたちまち普及したのも、そういう時代の空気あってなわけですが、そもそも遊ぶのにも号令が必要だったというあたりに、濃厚な時代の空気を感じてしまいますね。


*2 :GUIを本格的に取り入れたパソコン・・・
 GUIことグラフィカル・ユーザーインターフェイスは、その名称から「コマンド類を絵的な方法に置き換えたもの」と早合点されがちですが、真の狙いは「素人が直感的な操作で理解できる」にあり、グラフィカルであることは単なる手段です。コマンド名称やその操作方法は、単純なものとはいえ恣意的で、類推で理解していくことはできません。それをグラフィカルに表現することで、「こうかもしれない」と気づかせ、実際の操作でそれを覚えさせるという、「さぐり→仮説」モデルに基づく学習を意図しているのです。
  なお、冒頭の単文は、かなり中略した状態で引用しています。該当部分を省略せずに書くと、次のようになります。


  Apple Desktop Unterfaceは、人間が生まれながらにして好奇心を持った存在であるということを前提としています。好奇心は学習への欲求と言い替えることができますが、学習効果は自分のおかれている環境に自発的な探究心を持って接した場合に最も高くなると言えます。人間は自分を取り巻く環境をコントロールしたいと言う欲求を持っています。これには、自分の行為に対して掌握感を持とうとすること、そして、その結果を確認し、理解しようとする欲求が含まれます。また、意志の疎通には、言語をはじめ視覚や身振りによる伝達手段が用いられているように、人間は記号や抽象表現に慣れ親しんでいます。そして、条件が揃えば創造的で芸術的な存在ともなり得ます。作業や生活の場がエンジョイでき、やりがいに満ちたものであれば、生産性や効率は非常に高くなります。

  Macが登場して以来、各社からGUIと環境がリリースされましたが、ほとんどが肝心な点を理解しないまま見た目ばかりをそれっぽくしたものばかりで、さっぱり使い物になりませんでした。マウスオペレーションでありながらキーボードも不可欠という、"手が三本いる"意味不明なOSも多く、使い物になるGUIは結局Macだけという状況は、Windows3.0が登場するまで(=それが画期的だったほどに、他の"もどき"は酷かったのです)続きました。



*3 既知のベクトルの縮小版を集めただけ・・・
 スーパーファミコンの頃、「ステージクリア型の横スクロールアクションゲームと、『ポピュラス』的な箱庭シミュレーションを"融合"させた」と称するゲームがありました。アクションのステージでボス戦闘を終えると、シミュレーションモードが出現するというもので、ステージクリアで得られるポイントを使って都市育成を行うという趣向でした。
  その頃、従来のジャンルには当てはまらない創発的なゲームが注目されていました。このゲームも、おそらく企画書の段階では、伝統的なプレイアビリティと先進のゲーム性が融合した画期的な作品になるはずだったのでしょう。しかし実際のそれは、「2で割ってから足す」の典型例で、中途半端なアクションとシミュレーションがぶつぎれで繋がっているだけという、残念な代物でした。
  そもそも「アクションゲームの得意な人でないと有利に展開できないシミュレーションゲーム」というのは、両ジャンルのプレイヤー層の違いを考えれば、かなりの無理があるといえます。実務では、いろいろな理由から妥協が必要になってきますが、肝心な部分は守っていかないといけません。

◆ゲームストーリーに思うこと

 先述のように、入社時の肩書きは「シナリオライター」でした。にも関わらず、私はゲームの仕事におけるストーリー的なものを、かなり抑制的に考えています。


  実は、業界に入ったときには野心満々で、スピルバーグや宮崎駿にも負けないようなストーリーテラーになるつもりでいました。また、『ドラクエ』や『ファイナルファンタジー』をものともしないようなストーリー性豊かなゲームを作り、それを通じて会社をメジャーの地位に押し戻してやろうなどとも考えていました。

  しかし、一人前になる過程で理解していったことは、自制です。ゲームシナリオはゲームのシナリオで、ストーリーではないのです。プレイヤーは、ゲームを楽しみたくてプレイします。本格ストーリー、大いに結構。ただし、それがゲームの楽しみを増すものでさえあれば。戦いなり成長なりに没頭しているプレイヤーに、その流れを差し止めてまで押しつけるべきものではありません。

  そして、ストーリーはゲーム本体と独立して成り立つことはありません。壮大なストーリーを打ち上げれば、必要となるソフトウェアの要素=コードやデータも壮大なものとなってしまい、大規模なプロジェクトでなければ実現することはできません。

  抑えるべきところをそうしないでいたのでは、満足な結果は得られません。消極策は、積極策と比べるとどうも士気が上がらず、また不安さもあります。しかし、人はときとして「がんばらない勇気」を示すことも必要になるのです。


 あれこれ書いてきましたが、やはり目は輝かせて欲しいと思います。そもそも、星目そのものがいけないわけではありません。むしろ、クリエイターにとってそれは不可欠な成分でしょう。創作なんて、冷静に考えればどうしたってリスクばかりなのですから。戒めはあくまでも「星目"がち"」であることに対して与えられているのです。

   「例えこの身が滅びようとも、断固として理想を貫くべし!」
  なんて生き方は、いつの時代も共感を呼ぶものです。でも、実行する場合は、自分自身のリスクでそれをすべきですね。商業ゲームはたいていは"他人のお金"を使って作ります。集団制作ですから、他人の時間も使います。そして、そのお金も、最終的な出所は、プレイヤーのお小遣いですし、できあがったゲームはプレイヤーの自由時間を削り取ることになります。

  映画の世界は逆の価値観が支配的なようで、「いかにわがままにふるまって自分の作りたい物を作りきるか」が監督の重要な素質として語られているように見えます。例えば、ある監督には「鉄道のシーンを撮るために、線路横の住宅を買い取って取り壊した」などのエピソードがあります。"世界の......"なんて二つ名が必ず付けられている権威ですが、現実問題として「必ず大赤字を出す監督」でした。この人がじっとしていれば、単にそれだけで数本分の予算が浮くわけで、それを使って「会社も観客も同時に幸せにする映画」を志向する監督が何人もデビューできたかも知れません。こうして考えると、60年代から始まった日本映画の衰退は、ただの偶然ではなさそうです。そして、日本ゲームの衰退を招きたくないのなら、同じ道を通らないよう、注意しなければなりません。

  もっとも、この真逆もまた困った問題です。例えば、ゲームをしないし興味もない=作品性について全く判断できない人がプロデューサーとして予算を握り、そろばん勘定とアンケートだけで作品内容に干渉してくる......なんてことも、ありそうですね。

◆現実的な仕事

 ざっと見てきましたが、どう進めていくものなのかを具体的にまとめてみましょう。


  まず行うことは、イメージングです。ゲームシナリオを考えるときに重要なのは、作ろうとしているのがゲームであるのを忘れないということ。小説ではないのです。文章として面白いものを作る必要はありません。そして、ゲームプレイにおいて面白くなければ意味はありません。こんなときに有効なのは、"理論"を探すのではなく、現実を想像してみることです。合理的で洗練された創作理論など追い求めても、幻に過ぎません。泥臭い現実にこそ、正解はあります。実際にゲームが動いている状態を想像してみるのです。ゲームシステムやユーザーインターフェイスが概ね決まっているのであれば、それに即して考えます。決まっていない場合は、既存ゲームの何かを元に考えます。


 こうして実際のイメージをしっかり作り上げてから、ストーリーラインを考えていきましょう。また、並行して、各種設定も考えていきましょう。キャラクターがストーリーラインとは無関係に作られることはありません。しかし、特定のストーリーラインから必然的にキャラクターが導かれるというものでもなく、両者の関係は単純ではありません。


  これは、次のような手順になります。


   1、動いているゲーム画面を想像しながら、作っていく
    2、それを、紙に書いてみる
    3、客観的に検討し、不満な点を書き出す
    4、頭の中の引き出しを探し、バランスに配慮しながら対策する


 これをしつこくくり返していくのです。それは、ごく細かな単位でも行わなければなりませんし、要素ごとにみていく必要も出てきます。そして、それらが積み上がってまとまった量になった段階でも、改めて進めていかなければなりません。


  例えばマイキャラをどう活躍させたいのでしょうか。活躍させるためには、敵をそれにふさわしい形で考えていく必要があります。また敵には単なるザコとそれらを束ねるボスとがいます。ザコは主人公に惨殺されるわけですが、それにふさわしい悪事を働いている必要がありますね。その描写が必要になるでしょう。一方で、ザコを束ねる敵キャラは、まず強くなければならないですし、強さを正当化するだけの設定的な意味を持っていなければなりません。そして、必然的に重要キャラになりますから、マイキャラとの何らかの関わりを持たせてやる必要があるでしょう。こうした点も、描写が必要です。そうした特別な相手が普通に倒せたのでは興ざめですから、主人公側にも倒せるだけの設定的な意味を与えてやらなければなりませんね。そして、それを獲得するための何かも必要で、ここで協力者キャラであるとか、知られざる伝説であるとかを用意しておく必要が出てきます。


 こうした作業は、部分と全体を同時に注意しなければならなくなりますが、これは創作の一般的なプロブレムであり、ゲームだけに存在しているわけではありません。ここに悩むと、つい創作理論に頼りたくなるかもしれませんが、現実的には細かく行ったり戻ったりをくり返すしかないと思います。


  そして、「実際のゲーム」をイメージすることが、迷いがちな仕事における貴重な道標になるとも思います。

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