◆進化論からの仮説 | ゲームデザインエクセレント

◆進化論からの仮説

ホイジンガの時代とは異なり、現代では「遊び」も社会的な重要テーマとして扱われます。文脈によっては「人間の精神がもたらす高度な喜びである」などと持ち上げられたりしますが、実際のところ、人間だけのものではありません。野生動物のコドモが遊んでいる姿はテレビの自然番組でよく見かけますし、犬や猫なら、成獣になっても遊びが好きです。私たちの大先祖も、そうした「遊び好きの野生のサル」だったことは、想像に難くありません。その意味で「遊びが文明よりも先」というホイジンガの主張は、言われてみれば当然ですね。


  ラフ・コスターは著書『「おもしろい」のゲームデザイン』(オライリー・ジャパン、2005)の中で、「動物にとっての遊びは、生きていくための練習である」という視点を提示しています。そして、人間の遊びもまた進化の過程の中で獲得してきたものとの視点に立って、ゲームにおける面白さを論じています。


  文明の発展した今ではイメージしにくい面がありますが、ヒトは本来狩猟動物です。ただ、食肉目などとは異なり、それほど高度な身体能力を持っているわけではありません。そこで、持っている要素でなし得る独特の狩猟手段がとられました。


  具体的には、頭脳戦・集団戦が基本になります。例えばマンモス狩りをする場合、サーベルタイガーなら「においで探し出し、鋭い牙で噛みつく」となりますが、人間は違います。移動時期やルートなど、さまざまな予測を行って獲物を見つけます。また、落とし穴などの罠も用意しておきます。その上で、獲物の群から一頭を孤立させ、罠に追い込んで動けなくしておいてから、石を投げるなどして仕留めるのです。たくさんの個体がいろいろな役割で参加してこの狩りを行います。


 このような狩猟を行うための能力は、200万年ぐらいの人類史を通じて高められていきました。ダーウィン原理=「有利な特性を持った個体の生存確率は高くなり、繁殖成功率の向上に繋がる結果、種内でのその特性の存在比率が大きくなっていく」が働くためです。ではそれは、具体的にどのような能力なのでしょうか。


  勇気や攻撃心などの個人的な資質は、(全員にではないものの)不可欠です。また、道具を使いこなしたり罠をこしらえたりするためには、器用さも欠かせません。


  そして、推理力。獲物を探すためには、これが重要です。残された痕跡から獲物の種類や規模そして今いる場所を推測したりすることが、ハンティングには重要になるからです。季節や天測などの情報の重要さも考えると、推理の前提となる知識の獲得それ自体も重要な能力となるでしょう。


  複雑な作業の連携のためには、コミュニケーション能力が不可欠になります。特に全体を統括するリーダーには、人を率いていく力が必要です。これが乏しいリーダーしかいない群れは、生存競争に勝つことはできないでしょう。


  このような知見にたったうえで、ゲームを考えて見ましょう。すると、それがまるで野生動物のコドモたちと変わらないように、見えてこないでしょうか。


  動物にとっての遊びは、「生き抜くための練習」です。ライオンのコドモが食べる気もないのに昆虫などを追いかけたりしますが、それを通じて将来の狩りに備えているわけです。その目的は学習でしょうが、赤ちゃんの場合同様、動機は「楽しいから」に尽きます。


  ゲームには、いろいろな種類があります。一つ一つを見ても、狩猟生物たる人間にとっての「生きるための練習」だといえるでしょう。戦略シミュレーションなどの分野も、集団で狩りをする社会的な動物としての人間にとって、リーダーであることを模擬体験できる、またとない遊びなのです。


 また、他の動物との違いとして特に指摘できるのが、「情報」との関わりです。生き物全体にとって、情報は具体的な行動を起こすための前提として重要なものですが、人間にとってのそれは単なる動因であることを超え、あたかも独立した実在であるかのように扱うものとなりました。


  例えば、私たちは他人から話を聞くだけでも、その情景を思い浮かべることができます。これは、古老の経験談などを聞いて参加していない狩猟を"経験"するのに役立ったでしょう。その代償として騙されやすさも身に着けてしまいましたが、それがもたらすメリットはデメリットよりも大きかったため、ダーウィン原理によって私たちの性質に組み込まれることになりました。


  ここにいたると、フィクションというもの全体が、進化論の結果もたらされたものであるということができます。